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在野研究一歩前(23)「読書論の系譜(第九回):澤柳政太郎編『読書法』(哲学書院、1892)⑨」

前回に引き続き、澤柳政太郎編『読書法』(哲学書院、1892)の「読書論」について見ていきたい。今回は「第九章」の内容である。

「第九章」(該当ページ:P72~79)↓
「今試みに之を概言すれは精神の疲勞を來して最早書中の意義を解する能はすして其趣味も感せす又記憶し能はさるか如きは即ち適度を超ゆるものと云ふへし」(P73)
⇒第九章の中心テーマは「読書の分量」。澤柳が「読書の適度な量」について論を展開している。
 澤柳は、「読書」に取り組む個々人の「精神」の状況に注目して、「精神」の疲労により、関心低下や記憶力低下を生じている場合には、読書することを直ちに止めるべきであるとする。

「アトキンソン曰く黽勉なる讀者の重要問題は幾何の書籍を讀まは可なりやにあらすして、如何なる書籍を讀むへきか如何に讀書すへきかにあり、美味に飽くもの必すしも強健ならす、少讀するもの必すしも淺學ならすと」(P74)
⇒アトキンソン(おそらく、明治期にお雇い外国人として教鞭を執った化学者のロバート・ウィリアム・アトキンソン)の言葉が引用される。勉学に励む者にとって「読書」において重要な問題は、「どれだけの本を読んだか」ではなくて、「どのような本を読むか」「どのように本を読むか」にある。読書量が少ないことが、必ずしも「浅学」に繫がるとは限らない。

「プルターク曰く飽食の害は飢渇よりも甚しきものあり、多讀の害も亦然り」(P74)
⇒プルタークの言葉。「飽食―飢渇」と「多読―少読」が対比されている。

「少讀の弊ハ讀書法の與り知る所にあらす、之に反して多讀の弊に至りては茲に其矯正の道を求めさる可らす」(P75)
「徒に多讀するの益なきは前に述ふるか如く殊に不良の書を多く讀むに至りてハ其害たる一層甚き者あり」(P75)
⇒「少読」により生じる問題は「読書法」の実践によって改善されるが、多読の場合はどうしようもない。
 澤柳は本書中において、一貫して「多読」を批判している。

「今日學生の有様を見るに教科書の如き講義録の如き試験の之に伴ふものを除き、其他如何に善良の書籍にても之を復讀することなきか如し、記性の最も強熾なる人に於ても猶ほ一讀以て足れりとする能はす ルーテル曰く或る善良の書籍は屡々復讀すること甚た要用なり」(P78)
⇒当時の学生は、試験勉強に使うテキストを除き、どのような優れた書籍に対しても「復読」に取り組むことは少なかった。
 ルーテル(ルター)は、優れた書籍に対して「復読」を実践していたという。

「復讀の利とする所は單に記憶を助くるの點のみにあらすして大に理會の力を増進するものなり、左れと忘失を恐れて單に二三の書籍をのみ復讀するは眞に復讀の利益を知るものと謂ふへからす」(P78)
⇒「復読」の利点は、獲得した情報が記憶にとどまりやすくなるところで、また内容の理解度も増す点にある。ただ、何事も「やりすぎる」のはよくないことで、種々の本に対して「復読」は試みてみるべきである。

「復讀は記憶を助け且理解の力を進むるものなり、善良なる書籍に就ては必すや再三閲讀せさる可らす」(P78~79)
⇒「復読」をぜひ実践してみましょう!

(読書の分量については)「毫も厭倦を覚へす興味を以て讀み得るたけを適度とし疲勞を感し興味を失し漸く閲讀する所の意義を解せさるに至るを過度となす而して本章に於て特に讀者の注意を請はんとするものは多讀の反て害ありて益なきこと是れなり」(P79)
⇒本章の纏めがなされている部分。
 「読書の分量」は、「関心」「疲労」の有無によって、決定される。自身が「ある一冊」と向き合っているときに、関心があり、疲労が無い状態であり続ける間は「読書」を進め、それが反対の状態(関心なし、疲労あり)になったら読書を止める。この二つの状態に挟まれた時間の内に読むことができた量を、澤柳は「読書の適度な量」と定めた。

以上で、「在野研究一歩前(23)「読書論の系譜(第九回):澤柳政太郎編『読書法』(哲学書院、1892)⑨」」を終ります。お読み頂きありがとうございました。

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