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甘い甘い、話をしよう~断食月と砂糖祭|イスタンブル便り

この連載イスタンブル便りでは、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、イスラームの暦断食月と砂糖祭について。

ドン、、、ツクツクツク、ドン、、、ツクツクツク、ドン、ツク、ドン、ツク、ドドドン、ドドドドドン・・・

 深夜3時過ぎ。暗闇のなかに、太鼓の音が響く。熟睡を覚まされて、気づく。ああ、今年もやってきた。トルコで毎年断食月になると、おなじみの光景である。

 イスラームの暦には、断食月という不思議な月がある。ひと月のあいだ、人々が昼間の間一切の飲食を断つ月である。

 前にも書いたが、イスラームでは、ヒジュラ暦という、月に基づいた太陰暦が用いられる。断食月は、9月。それが終わると、砂糖祭*がやってくる。

砂糖祭前のお菓子屋の店先。トルコのお菓子は、砂糖がたっぷり入った揚げ菓子、焼き菓子に、さらに甘いシロップがかかり、甘さに甘さが重ねられる。

*砂糖祭:日本語で一般的にはアラビア語起源の名称「イード・アルフィトル(断食月明けの祭り)」が使われるが、このエッセイでは、トルコ語の名称の翻訳「砂糖祭」と呼ぶことにする。

 今年はその断食月が、4月8日に始まった。「今年は」と書いたが、そう、この暦は、日本で現行のグレゴリオ暦(西暦)に照らせば、毎年日付が変わるのである。

 ヒジュラ暦で一年12ヶ月、各月は29または30日である。それだけなら日本の旧暦(太陰暦)とそれほど変わらない。しかし、日本の太陰暦が閏年を設けて季節と暦のずれを調整していたのにたいして、ヒジュラ暦では、一年は354または355日、季節におかまいなく暦の論理が貫き通される。西暦で数えれば、新年元旦の日付が毎年10日から12日ほど早くなるのである。

 元旦はだいたい33年ごとに季節を一周する。今年は5月2日が断食月明けのお祭り(砂糖祭)の第一日目だが、来年は約11日それが早くなって4月21日、再来年2024年は4月10日……と続いてゆき、再び5月2日ごろに砂糖祭の初日が巡ってくるのは33年後の2055年、となる。 ヒジュラ暦から季節を眺めてみると、毎年同じ時期に同じ花が開くわけではない。「季節感」はずれていく。毎年新鮮かもしれない。

 ところがさらにややこしいことに、「ヒジュラ暦」じたいも、ひとつではない。宗派、グループによって数え方も異なり、暦の解釈も異なる。たとえばイラクやバングラデシュ、インドネシアなどでは、ひとつの国のなかで、1日2日の差で、違う日に断食月が始まったり、その後の砂糖祭を祝ったりするところもあるそうだ。

 イスラーム、と言っても、ひとつではないのである。

 同じ宗教でも解釈や数え方の違いが存在し、それを認めるあり方は、キリスト教でクリスマスや復活祭の日付が正教とカトリックで違うのと同じである。その意味では、全国一斉に同じ日に砂糖祭を祝うトルコは、逆にいえばむしろ特殊かもしれない。

 そして今年2022年は、キリスト教カトリックの復活祭(正教は今年は一週間ちがいだった)と、ユダヤ教の過越の祭と、イスラームの断食月が一緒に重なる、珍しい年なのだそうだ。

ユダヤ教の過越の祭に作られる茹で卵。玉ねぎの皮を敷いた鍋に、コーヒー、塩を入れて4時間煮る。イスタンブルのチーフラビの秘書、ユスフ・ベイからいただいたトルコのユダヤ料理のレシピ本を見て、わたしが作ったもの。

 その日、4月17日の日曜日、クズグンジュックの「ご近所さん」、このエッセイでもおなじみのイェシム・ハヌムから、お茶のお招きをいただいた。イスラームの断食月の時に食べるラマザン・ピデシ、イスタンブルのギリシャ正教徒が復活祭の時期に作る伝統菓子パスカリア・チョレイ、ユダヤ教徒が過越の祭の食事に使用する「イーストなしの小麦粉」で作ったケーキ、やはり「ご近所さん」のスイス人画家、ウルスラが手ずから絵付けした、プロテスタントの復活祭で探して遊ぶ茹で卵……、さまざまな料理が並んだ祝祭の食卓は、まさにイスタンブル的な賑々しさだった。

イスタンブルのさまざまな宗教的伝統料理を集めた、イェシム・ハヌムのお茶の食卓。
断食月の時にだけ出回る、ラマザン・ピデシ。普通のパンより生地が密で、腹持ちがいい。
一週間後、守護聖人の名の日を祝ったクズグンジュックのギリシャ正教会からのいただきもの。

* * *

 ところで断食月、というと、一ヶ月ずっと食べないような印象を受けるが、そうではない。日が昇っている間に断食をし、日没後は食べてもいいのである。というよりむしろ、夜の間に食べ、昼間への断食に備える。そのようなわけで、昼間を耐え抜くためにと称して日没後に暴飲暴食をし、かえって太る人もいるそうである。断食月を乗り切るのも簡単ではない。

 冒頭に紹介した太鼓の音は、夜明け前に食べ込んでおく必要のある人々を起こすため、辻々を回る太鼓叩きである。

 断食月のそもそもの意味合いは、日中飲食をせず「飢え」を経験することで、食べられない人の気持ちを身を以て知ること、とされる。そして同時に、欲望をコントロールする訓練でもあるという。

 イスラームの教えには、もともと収入の数パーセントを「喜捨」として貧しい人に施すことを義務付ける習慣がある。持てるものが持たざるものに与えるのは自然なこと、とする思考である。その根底には、わたしの理解によれば、貧富というものは、本人の努力や功徳によるよりも、偶然の巡り合わせや運による部分が大きい、という、運命論があるからではないかと考える。現在自分が持つものは、たまたまの巡り合わせである。その一部を他へ与えることで、大きな結びつきの一部になる。じつに謙虚な考え方である。

 わたし自身は、信仰もないのに興味本位で試すのは何か失礼のような気がして、実行してみたことはない。したことがないが、信仰とは別に、断食は、ふだんの飽食を改め、あるいは、「食べる」ということ、「生きるために食べる」ということについて、見つめ直す機会になるのではないか、と想像する。その意味では、今どき流行りのファスティングと同じである。人生からさまざまな余計なものを削ぎ落とし、基本だけに立ち戻って、「生きる」ことを見つめ直す機会なのだろう。

 ところでそれはさておき、トルコは政教分離の国である。

 断食は、するもしないも本人の自由、宗教とその人との距離感によってさまざまなニュアンスがあり、濃淡がある 。

 これがたとえばイランのような政教一致の国だと、みな同じ行動様式となるが、トルコの場合、そうではない。ふだんはそれほど敬虔でなくても断食月だけは断酒や断食をする人、そんなことはおかまいなしに好きな時に食べる人、ほんとうにさまざまである。断食していないのに、断食明けの食事イフタール(たいていはご馳走)を、一緒になって食べる人もいる(わたしやパオロ騎士もそれに含まれる)。

 トルコらしくて素晴らしいと思うのは、それぞれが自分のスタンスを、他人に強要しないし、誰かを非難しない点である。断食する人も自分の自由、しない人も自由。そして相手の選択には敬意を表する。家族のなかで、する人、しない人がいるのも普通らしい。いつもはしないけど、今年だけやってみようか、とする人もいるらしい。まわりで誰が食べようと、断食するのは自分の選択。自分がするのだからみなするべきだ、と強要することはない。

「このパン食べてみる?」「いや、いらない」くらいの、軽い感じである。

やはり断食月の時にだけ出回るお菓子、ギュルラッチ。コーンスターチを薄く延ばして乾かした生地を砂糖入りの牛乳に浸し、間に潰した胡桃を敷き詰め、上に柘榴の粒とピスタチオの粉を散らすのが定番。

* * *

 たかが断食、されど断食。

 トルコが政教分離の国だからこそ、断食をめぐるひととひととの関係性には、それぞれの品格があらわれる。

 数年前の断食月のことだった。

 夏の夕方、ジラルデッリ家では、日没前の時間にテラスでほんのひとときアペリティフをしていた。

 そこへお向かいの家の窓が開いて、娘の幼馴染、エムレのお母さんが顔を出した。

「ミユキ! もうご飯は食べたの?」

 訊かれて、しまった、と思った。断食月なのに、なんたることか。

「いや、まだ、これから食べるところ」

 答えながら、申し訳ない気持ちになる。

 忘れていたのは、トルコでは、断食月にかほどに他人に干渉しないからでもある。しかし、お向かいは断食をする人たちというのも忘れていた。まだ日没前だ。それなのに、カンパリソーダなど飲んでいた不調法ものである。いくら外国人で非ムスリムとはいえ、近所から見える場所で飲み食い、しかもアルコールまで消費するとは、配慮が足りなさすぎた。

 するとエムレのお母さんは、なんとこう言ったのである。

「ああ、よかった。今日多めにご飯作ったから、おすそ分けしたいの。ミーナ(娘の名)をよこしてくれる?」

 そしてその晩、素晴らしく美味しい家庭料理がジラルデッリ家の食卓を賑わせてくれたのはいうまでもない。

ジラルデッリ家に届いた絶品おすそ分け。上から時計回りに、モロッコいんげんの煮物、ピーマンのドルマ(お米の詰め物)、きゅうりとヨーグルトの和え物。
今年、エーゲ海の小さな町でも「ご近所さん」から届いたおすそ分け。チキンたっぷりのピラフ。

 断食をして自分が苦しい思いをしている時に、その苦しみに囚われることなく、それとは違う文脈で生きる人に、ふと差し伸べる手。

 いつも思う。普通の人のこういう善意には、逆立ちしたってかなわない。

 この懐の深さがトルコなのだ。

 こういう話もある。

 一緒に仕事をしたことのあるさる博物館の館長は、敬虔なムスリムである。断食はもちろんするし、お酒も召し上がらない。その彼は、あるフランス人美術史家と大変仲良しである。

「彼はとても美食家でね、美味しいものもよく知っているし、ワインにも詳しくて、一緒に食事をすると、料理に合わせて何種類もワインを並べて、楽しんでいますよ」と、嬉しそうにいう。

「えっ? お酒召し上がるんですか? ご一緒に」

「いや、わたしは飲みませんよ、だけど飲む人でも、一緒に話して楽しい人とは、食事をしたいと思いますね。人によっては、お酒が出る席には出席しない、という人もいるけれどね」

 そしてさらにこう言った。

「ふだん飲む人が、わたしに合わせて飲まないでいるよりも、一緒にいる人が、自分が好きなものを、好きなように飲んだり食べたりしてくれた方がわたしは嬉しい。彼は飲む、わたしは飲まない、一緒のテーブルで食事をして、何の問題がある?」

 真に自律的であるとはどういうことか、考えさせられる話だと思う。

* * *

 そんな断食月が終わると、イスラーム教の二大祝祭のひとつ、砂糖祭(シェケル・バイラム)がやってくる。なんとも可愛らしい名前のこのお祭り、 日本語では通常アラビア語起源の名称「イード・アルフィトル(断食月明けの祭り)」と呼ばれる。トルコ語でも、同様の「ラマザン・バイラム」という名があるが、砂糖祭、は、トルコと旧オスマン帝国文化圏に独特の呼び名なのだそうだ。

 断食月に禁欲をしたあと、晴れて迎える砂糖祭では、とにかく美味しいもの、特に甘いものを食べ、自分を甘やかすお祭り、とぴったりしたイメージがあり、自分のなかで自然に思っていた。だからこの名称がローカルであると今回初めて知って、じつは驚いた。

 オスマン帝国と砂糖は歴史的に深いかかわりがある。

 サトウキビのジュースを結晶化させたいわゆる「砂糖」は、紀元後1世紀にインドで発明されたそうだ。その世界的伝播には、アラブ商人の活躍、15世紀以降は、通商経路を支配したオスマン帝国が大きく影響していた。この連載でご紹介したコーヒーチューリップ、と続いて、オスマン帝国発の砂糖や珍しいお菓子も、人を中毒にし、熱狂に陥れ、甘やかす存在としてヨーロッパを魅了し続けた。

 人を籠絡し、堕落さえさせる高価な砂糖、甘いものは、オスマン帝国では富と権力の象徴でもあった。

 そもそも、暖かい気候を好むサトウキビは、イスタンブルでは育たない。オスマン帝国の甘いもの文化は、サトウキビが育つ地域、エジプトやアラビア半島への領土拡張とともに発達したのだ。

 オスマン宮廷料理には、そんな砂糖を使った菓子や飴が山ほどある。シャーベットの語源となった甘い飲み物シェルベット、宮廷の菓子工房で作られる色々な味、色の水飴マージュン、コーンスターチを使った求肥ぎゅうひのような一口菓子、ロクム……。甘ければ甘いほど、それはオスマン帝国の力を意味した。宮廷人たちには、「アーキデ・シェケリ」という飴が、給料日に官位や等級に応じて支給されていたという。当然、宗教的祝祭日のバイラムには、甘いものが大体的に振る舞われた。祝祭と甘いものは、わかちがたく結びついている。

宮廷御用達の老舗菓子店のアーキデ・シェケリ。創業1773年、トルコで最古の現存企業では、オスマン帝国時代に給料とともに支給されたアーキデ・シェケリのレシピが、今も守られている。
エーゲ海の小さな町のお菓子屋さん。

 そのようなわけで、断食月明けのお祭りは、特にトルコで「砂糖祭」と呼ばれるようになったのだそうだ。トルコは政教分離の国だが、砂糖祭の3日間は、国民の休日となる。今年の砂糖祭のおやすみを、わたしはエーゲ海の小さな街で過ごした。

夜中に人々を起こす役割をひと月務めた太鼓叩きは、バイラムの朝、辻々を回って家々からご祝儀を受け取る。

 砂糖祭の朝、家族は上から下まで全身新しい晴れ着に身を包む。挨拶を交わした後、子供達は年長の家族から「お年玉」ならぬ「バイラム玉」をもらい、連れ立って出かけ、近所の家々を回る。それぞれの家で用意されている飴玉をもらって歩くのが、子供たちの楽しみである。

 そしてわたしも、子供たちが来てくれるか?

 どきどきしながら待っているのである。

 トントン、トントン!
 来た!


 階段を駆け下りて、ドアを開けると、可愛い顔がいくつものぞいていた。

 新しい晴れ着を着て、嬉しい誇らしさではちきれそうである。

「バイラムおめでとう!」

「バイラムおめでとう!」

「イブラーヒム! イブラーヒム! 何してるの、じっとしてなさい!」

 お向かいの奥さん、レイラさんが玄関先に出てきて、

「もう、この子ったら、今朝は5時から目を覚まして、大変なんですよ」

 嬉しそうにぼやく。

 もう、いくつ寝ると……、砂糖祭はわたしにとって、日本ではもう失われてしまった幼い頃のお正月を彷彿とさせる、嬉しいお祭りなのである。

文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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