ギリシャ正教のクリスマスと神現祭|すべての祝祭を寿ぐイスタンブルの年末年始(3)|イスタンブル便り
この連載「イスタンブル便り」では、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、イスタンブルに総本山のあるギリシャ正教のクリスマスと神現祭について。
クリスマスと、そのあとに続くすべての良きもの。
「ねえ、ルーム(ギリシャ正教)のクリスマス、見たいって言ってたでしょう? 電話番号言うから、メモして」。
12月のある日、クズグンジュックの「ご近所さん」、イェシム・ハヌム(「ハヌム」はトルコ語で女性につける敬称)から電話がかかってきた。
前に話したのを、覚えてくれていたのだった。
キリスト教でも正教(オーソドックス)は暦が違い、クリスマスは毎年日付が変わる。今年は1月7日のはずだった。ロシア、ウクライナ、イスラエル、エジプト、ブルガリア、セルビア、ベラルーシ、モンテネグロ、カザフスタン、マケドニア、エチオピア、エリトレア、ジョージア、モルドヴァなどの国がそうである。
しかし、大きな勘違いを知った。
トルコのギリシャ正教徒は、カトリックと同じ12月25日にクリスマスを祝うのである。
イスタンブルでは今年(もう去年だが)、礼拝が開かれるのは四ヶ所。金角湾沿いのバラット、街の中心タクシム、ボスフォラス海峡沿いヨーロッパ側のアルナヴットキョイ、さらに北、イェニキョイの教会だ。それぞれ、歴史的にルームの居住が多い、ゆかりの深い場所である。
聞けばイェニキョイだけ、24日から25日にかけての夜中に礼拝があるという。夜中、というのに興味を惹かれた。イェニキョイに決めた。
ところで、クリスマスはジラルデッリ家でも重要な行事である。
敬虔な信徒とは言い難いが、ローマ出身のイタリア人がひとりわが家にいるので、伝統を守るのである(つまり、この部分はイタリア式に)。
ツリーは飾られねばならず、イヴの夕食は魚料理(元は粗食の意味だが、現実は大ちがい)、翌25日は朝、砂糖漬け果物入りの甘いパン、パネトーネを食し、昼食が正餐で、ご馳走はラザーニャかラヴィオリ、とわが家では決まっている。多くのイタリア人(わが家は半分だが)の家庭にとって、クリスマスの食事作りはカトリックの宗教的行事というより年中行事、一大事業である。
そんななか、24日の夜、ギリシャ正教の礼拝に行ったらどうなるか? その日の夕食はそそくさと済ませなければならないことになる。ジラルデッリ家の場合、問題は宗旨というより、食事だった。当然、オランダから帰ってきている娘も含め、家族から大ブーイングが出た。いやはや、「すべての祝祭を寿ぐ」とは、すなわち八方美人だ。聞こえはよくても、現実には苦渋の選択の連続である。
それを横に、もらった番号に電話をかけた。なんでも礼拝は夜8時半に始まり、真夜中まで続くのだという。3時間半の長丁場だ。だが、ジラルデッリ家の事情など知らない電話の相手、ミカイル・ベイは明るく言った。
「10時半くらいにきたらどうですか? 礼拝ずっと続いているので、それでも充分見られますよ」
なんという実際的な解決!
さて、その夜の10時過ぎ。
イェニキョイは独特の雰囲気のある街である。ボスフォラス海峡沿いの邸宅ヤルのなかでも、最も豪壮なものが立ち並ぶ。何度もきたことがあるが、教会に入るのは初めてだった。
* * *
荘重である。
衣装の華麗さと、イコノスタシス(至聖所)と呼ばれるイコン(聖画)の飾られた壁の装飾、ヴォールト天井の暗闇、シャンデリアや蠟燭の光があいまって、神秘的な空間を作り上げている。
悠長に語尾を伸ばす中世ギリシャ語の祈祷と、音楽的な朗詠の響きも、それを増幅する。
シャッターを切るのもためらわれたが、許可はとってある。
見ていると、礼拝に来る人たちはみなまず喜捨をして蠟燭で灯明を捧げ、それぞれ座ったり立ったりしている。
ジラルデッリ家からも、灯明を捧げた。
* * *
「ウェルカム!」
儀式が終わると、見知らぬ男性が英語で話しかけてきた。
トルコの宗教施設は、ワクフ(財団)の組織によって運営されている。この男性、ラキー・ベイが財団の理事長だった。わたしのことを前から知っているというので驚いた。
聞けば、以前ある集まりで講演をした時に聞きにきてくれたのだそうだ。なんと世界は狭い。
「さあ、どうぞ」
ラキー・ベイがわたしの後ろを指し示した。
振り返ると、さっきまで固く閉まっていた教会のナルテックス(入口広間)部分の扉が、大きく解放されている。 そこに、白いクロスのかかった食卓が用意されていた。まるで魔法のようだった。
「どうぞ、お座りください」
いきなり上座に案内され、神父と理事長の隣に、家族三人座らされた。 見ると、神父のご家族も一緒である。神父はギリシャから着任したばかりだそうだ。
クリスマスの真夜中過ぎ、儀式が終わった後に、みんなで軽い夜食を食べるのがこのイェニキョイの信徒たちの習わしなのだという。
ありがたくいただくことにした。
チキンと野菜のスープ、チーズ入りのボレッキ(塩味のパイ)、そしてメロマカロナ、という名前の独特のデザート、白ワインが供された。どれも優しい味だった。
信徒の間ではギリシャ語が飛び交うが、時にトルコ語も混じる。食事をしながら、 ラキー・ベイにイェニキョイのことを尋ねた。
現在の教会の建物の建設は1837年。 ラキー・ベイもイェニキョイの育ちで、この教会の盛衰栄枯をずっと見てきた。現在は閉鎖されているが、教会運営の小、中学校の出身である。トルコ国内のギリシャ正教の建築文化遺産の保存にも積極的に関わっている。
1980年代初頭、軍事政権の時代に最大の困難を経験した。
「みんないなくなってね、ここ(イェニキョイ)に残ってるのは6、7家族くらいしかいなかったよ」
「いまは?」
「いまではこの通りだよ、ありがたいことだ」
イスタンブルのギリシャ正教徒、といえば、ビザンチン帝国からの生き残り、あるいはオスマン帝国の遺産、と思っていた。だが、今時はそうではないらしい。
トルコ国内だけでなくギリシャからやってきて定住する若い世代が多くいて、信徒はまた増えたのだという。ラキー・ベイは、今では希少な存在となった昔からのイェニキョイっ子、エリソ・ハヌムとウラニア・ハヌムの二人の老婦人を紹介してくれた。苦難の時代を一緒に経験した仲間だ。
「ここにやってきて、仕事を見つける人もいれば、恋を見つける人もいる。つまり、人生、ってことだね」
イスタンブルの昔からの地元育ちは、ギリシャ語とトルコ語が母国語。若い世代のミハイル・ベイは、ドイツに移住したイスタンブルのルーム(ギリシャ正教徒)の家庭の出身で、母国語はトルコ語とドイツ語。幼少時にトルコへやってきた。ギリシャ語は後から学んだのだという。トルコのギリシャ正教徒も、多様化している。
若者たちがヴァイオリンやサズ(三味線に似た弦楽器)、カーヌーン(琴に似た弦楽器)を取り出して、歌を歌いはじめた。ギリシャ語だ。エーゲ海の島々の美しさを歌った歌だという。はじめ耳を傾けていた人たちも次第に加わり、いつしか宴全体に広がっていった。
* * *
この「年末年始」シリーズの第一回で、イスタンブルの年末年始は1ヶ月半、と書いた。はじまりは11月後半のユダヤ教の光の祭典ハヌーカー、そして締めくくりは1月上旬のギリシャ正教の神現祭(ヨルダン川でのイエスの洗礼を記念する祭)である。*
*同じ日、西方キリスト教会では意味が変わり、イエスの誕生を祝う三博士の礼拝を記念するエピファニー(公現祭)として祝われる。
ギリシャ正教というキリスト教の宗派、総本山はイスタンブルにあることをご存知だろうか。ギリシャ正教といっても、ギリシャにはない。
なぜ?
答えは600年前に遡る。
イスタンブルは昔のコンスタンチノープル。ギリシャ正教を国教としたビザンチン帝国の首都だ。つまり、ギリシャ正教の総本山は、ビザンチン帝国が滅びてもオスマン帝国がやってきても、トルコ共和国になった今にいたるまでずっと、イスタンブルにあり続けた、というわけだ。
なんとも悠大な話である。
後からやってきたオスマン帝国の、完全に息の根を止めないで先住者と共存する、柔らかな支配。そして共存はトルコ共和国になってからも、絶妙なバランスでしっかりと息づいている。
その総本山の、神現祭の儀式はちょっと見ものである。
キリストの洗礼を象徴して、ヨルダン川の代わりに金角湾(ボスフォラス海峡の年もある)に十字架が投げられる。我こそはと思う男性信徒が待ち構えて飛び込み、それを最初に手にしたものには大きな功徳がある、とされている。
神現祭の日付は、毎年1月6日と決まっている。
つまり、冬のさなか、氷の海に飛び込むのだ。
* * *
ギリシャ正教の世界総主教座、聖ゲオルギオス教会は、金角湾沿いのバラットにある。
儀式は朝8時半開始、十字架が投げられるのは12時から12時半ごろ、と聞かされていた。教会に近づくと、物々しい警備である。報道陣の数も桁外れに多い。衛星中継の車も数台止まっている。
イェニキョイの家庭的な雰囲気とは、ぜんぜん違った。参列者、見学者の数も、段違いだ。
儀式は、輪をかけて大掛かりで演劇的だった。建築空間と儀礼衣装の色彩の華美。対照的な聖職者たちの禁欲的な黒。イコノスタシス(至聖所)の内と外で、道具立てが出たり入ったりする。
わたしには断片的に窺い知れるだけだが、 イエスの洗礼に至るまでの筋立てに合わせて儀式は進む。 聖職者と朗詠者、道具立て担当の裏方の連携は見事だ。その流麗さは、どこか茶の湯の淀みない動きを思わせた。古代から連綿と、それが集団的に展開されていることの、分厚い重み。
しかし長い。
窓が解放されているとはいえ、人いきれと暖房、蠟燭の炎と焚かれる香でむんむんする中、長時間マスクでいるのも苦しい。
ほんのひととき、新鮮な空気を求めて中庭に出ると、同じように外で待つ人々がいた。
「あら、ハーイ! こんなところで」
突然英語で話しかけられ、見ると、見知らぬ若い女性が立っていた。
「?」
「ハーイ、やあ、来てたんだね」
戸惑っていると、隣にいたパオロ騎士が返事をした。彼のゼミの学生だった。
アリー(「アリソン」の愛称)はシカゴ出身のアメリカ人、カリフォルニアで大学を卒業し、オックスフォードの大学院に在籍中。研究のためにイスタンブルに長期滞在中なのだという。おじいさんがギリシャからアメリカへの移住者、という彼女は、オスマン帝国の歴史を研究するにつれて、自らのギリシャのルーツを意識するようになり、イスタンブルで正教徒として入信したのだそうだ。
ギリシャからアメリカへ、イギリス、そしてトルコ。おじいさんの時代からの時空を超えて、孫の彼女が、ギリシャ正教の総本山に舞い戻ってきた。壮大だ。
初対面なのにそんな個人的な話を聞いて、感心していたら、
「ハーイ!」
またもや英語で声をかけられた。
パリッとした紺トレンチの男性。コスタス(「コンスタンティノス」の愛称)はアリーの友人で、 生粋のアテネっ子。大学はザルツブルグ、大学院をウィーンで出て、イスタンブルの大学で教鞭を取っている。パートナーはザルツブルグ出身のトルコ人なのだそうだ。
言語学者のコスタスは、アナトリアや黒海地方で話されていたギリシャ語について研究している。オスマン帝国時代、各地にいたギリシャ正教徒は、それぞれに変化したギリシャ語を話していたのだという。アナトリアではもう消滅してしまい、記録でしか辿ることはできないが、黒海地方のものは少数ながらまだ話す人がいるのだという。これもまた、オスマン帝国の遺産だ。
「ところで神現祭のお祭り、イスタンブルだと十字架を金角湾に投げるけど、これはイスタンブルに特殊なの?」
「僕のいたウィーンではね、ドナウ河に十字架を投げる儀式があったよ」
「へーえ、それもまた詩的だわね。だけどアテネではどうするの?」
アテネには川がない。海といっても、車でずいぶん行かなければエーゲ海にはたどり着けない。
「自然のものである必要はないんだよ、プールや池の水でもいいんだよ」
なるほど。
ギリシャにルーツを持つアメリカ国籍のアリー、外国に拠点を置くギリシャ人のコスタス。そして彼らはイスタンブルにいる。ラキー・ベイが言っていた新しい世代の信徒と言えるだろう。
* * *
ようやく、十字架を捧げた行進が出てきた。
荘厳な朗詠とともに、美々しく正装した少年たち、随行の神父たちに続き、総主教バルトロメオ猊下が登場する。
総主教座教会から金角湾までは、歩いて5分ほどだ。行列に続いて中庭から外に出てみて、驚いた。
金角湾沿いの海岸線道路は完全に交通が遮断され、夥しい数の人々が、沿道を取り囲んでいる。
十字架が投げられる海沿いの公園は、さらに混雑していた。海には事故に備えてダイバー数名を乗せた警備船、観光船、ヘリコプターからドローンまで飛んでいる。
はっと向こう岸を見ると、投げられる十字架を飛び込んで捕まえようと意気込む面々が、スタンバイしている。
今年の候補者はラッキーだ。例年、雪のちらつく底冷え日だが、今年はいつになく暖かい。
しかし、これでは十字架を投げる瞬間を見ることすらおぼつかない。案の定、朗詠の声と、人々の雰囲気で、十字架が投げられたことがわかった。
候補者が飛び込む。誰が最初に掴み取るのか、みんながその一点だけをみている。
ちらりと一瞬だけ、勝利者が十字架に接吻するのが見えた。
今年も良い年になりますように。
暦がなんであれ、「クリスマスと、そのあとに続くすべての良きもの」。そういえば、インドのブリジ先生からも、年末にそんなカードが届いて、思わず微笑んだ。
すべての祝祭に寿ぎを(八方美人は忙しいが)。新しい年が、健康で幸福なものになるよう願う。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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