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横須賀、花見の長官舎と看板建築の街|新MiUra風土記

この連載新MiUra風土記では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第6回は、三浦半島を東西にまたがる横須賀市の東側をめぐります。

 横須賀の町は坂と谷戸やとと丘陵でできている。港の周縁はほとんどが埋立地で、人は日々、坂の上り下りを宿命づけられている。

 市の中心街(東京湾側)は坂の下で、かつての行政・公共施設や老舗商店街がある坂の上は町名どおり上町うわまちと呼ばれてきた。

 季節は花見の頃、坂の上の田戸たど台分庁舎やレトロな看板建築(*1)を見て歩く。そこには坂下の軍港クルーズや戦艦三笠、米兵やスカジャンを売るドブ板通り、海軍カレーやネービーバーガー、ではない別の姿を見せる横須賀が残っている。山口百恵さんも歩いた坂の上のヨコスカストーリー……。

*1 関東大震災後、防火と装飾を兼ねて銅板やタイル、モルタルなどで装った町屋の店舗併用住宅。

 始めは京急県立大学駅。この駅名、以前は安浦やすうら駅だったが、県立大学の移設を機に改められたものだ。

 駅から田戸台分庁舎への道を上る。寺もあって坂の周辺は閑静だが、花見の季節は遊歩者が絶えない。庁舎正門で、警備の制服隊員から旧日本海軍と同じ敬礼を受けた。何度来ても深部に招かれた気分になるものだ。

 東京湾が望める田戸台のこの建物は、横須賀鎮守府ちんじゅふ司令長官官舎(大正2年、1913)(*2)で、現在は海上自衛隊横須賀地方総監部田戸台分庁舎の名で迎賓公用などに使われている。桜の開花時期のみ市民に一般公開(*3)されていて、花見の隠れ人気スポットだ。

*2 鎮守府は明治期に日本の海陸を区分し、四つの港(横須賀・呉・佐世保・舞鶴)に司令部を設置した旧日本海軍の行政部署。横須賀鎮守府は北海道から三重県までを所轄した。
*3 公開情報は海上自衛隊横須賀地方隊HPを参照。

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 長官舎は英国風ハーフティンバー様式と日本建築の折衷で、庭園に桜の木は多くはないが、その満開ぶりと大正期モダニズム建築との相性がいいのだ。

 設計は横須賀鎮守府施設部長で日本初の王立英国建築家協会建築士である櫻井小太郎(1870~1953)で、彼はくれ鎮守府のそれも手がけた。

 内装のこだわりは瓜生外吉うりゅうそときち(1857~1937)長官と第1回海外女子留学生の1人だった繁子夫人(1862~1928)によるもので、ステンドグラスの名匠小川三知おがわさんち(1867~1928)の意匠が光る。

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 戦後は在日米海軍司令官などの宿舎となったが、歴代31人の長官執務室、宴会室、食堂、ピアノホール、客室、和室の座敷もある。竣工時からは内外側ともに改装されてはいるが、現在も充分その歴史の重さが感じられる。

ph3_DSC_4159_東郷平八郎の書

東郷平八郎の書

 横須賀鎮守府司令長官は、同じ海軍長官でも連合艦隊のそれに比べるとやや閑職に思えるが、2・26事件のときに鎮守府長官だった米内光政よないみつまさ(1880~1948)は、この官舎から参謀長の井上成美しげよし(1889~1975)に指揮を下した。天皇を守り、叛乱軍鎮圧の任で艦と陸戦隊を派遣したことがある。

 長官舎を出ると、三崎街道が横須賀と三崎港をつないでいて、その脇道を入ると有名な柏木田かしわぎだ遊廓があった。いまその跡を見つけることは難しいが、そこは山口瞳の自伝的小説「血族」の舞台だった。ちなみに坂下には安浦やすうら遊廓があり、戦後も賑わっていたものだ。

 さてモダニズム看板建築が彩る上町を歩こう。

 まずは渡辺園茶店が骨董品のしつらいで大正の風情を残しつつ、新味なお茶を提案している。

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 大通りの裏道の横須賀上町教会附属めぐみ幼稚園はウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)の弟子・横田末吉の秀作で、エノモト写真店はスクラッチタイルとステンドグラスが華麗だ。

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横須賀上町教会附属めぐみ幼稚園

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エノモト写真店

 角を入ると洋風バルコニーの付いた東中里町内会館で、その奥には市立うわまち病院がある。ここにはかつて陸軍の東京湾要塞司令部(*4)が置かれていて、三浦半島と房総を統括していた。

*4 本連載「新MiUra風土記 第4回:観音崎要塞めぐり」参照

 上町を代表する看板建築のアイコンはといえば緑青色銅板が輝きを放つ、祭礼衣裳専門店のみどり屋だろう。日照の時間差で銅板の色のうつろいも楽しめるのだ。

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第1回よこすか景観賞(2005年)を受賞したみどり屋

 また、軍港らしいのが、その並びにある元海軍指定旅館だった旧蓬莱屋。内部は改修されているが、ファサードの造りは往時を偲ばせる巧みな造形だ。海軍兵が寸暇を惜しんで家族と過ごす光景が想い浮かぶ。

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 坂上の町屋は大正から昭和初期のモダニズムの息吹をとり入れたものだ。その繁栄の源泉は幕末維新に製鉄・造船所が設置されたことにあり、その後、この町は軍港・軍都へと驚くべき発展をとげていく。坂下の軍需バブルが坂上の御用商人らを潤しただろう。それもそのはず、すでに明治期に市民の4割が軍とその産業に関わっていたという。

 三崎街道はやがて横須賀中央駅に下るが、ここは坂上の道をたどりつづけたい。煉瓦造の中里隧道を抜けると、坂本町交差点に「御菓子司 突貫」の看板を見つけた。“突貫”とは文字どおり突撃の意味だろうか?

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「ここの創業は昭和14(1929)年。市内に何店舗かあったらしくて、“とっかん”の名の由来はわからないけど、そばに陸軍さんがいたからかな?」と店主の答えはおおらかなもの。

 横須賀の坂下は海軍施設が占めていて、坂上は陸軍が多かった。この交差点には小学校があるが、その正門は、かつて日露戦争で奮戦した重砲兵連隊の営門だったものだ。隣接する中学校をふくめて、一帯は連隊の駐屯地で、校内にはその兵舎が戦後も残っていたという。

 横須賀市立不入斗いりやまず中学校。ここは「蒼い時」の山口百恵さんの母校だった。同じ坂上にある鶴が丘団地からの通学路には、ひいきにしていたというアライベーカリーがあったが、すでに廃業していた。

 ヒット曲「横須賀ストーリー」がこの町を離れた彼女の心象風景ならば、急坂を駆けのぼって見た横須賀の海はどんな顔を見せていたのだろう。

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西逸見の高台から横須賀本港・吉倉桟橋を望む

 それは軍都の栄華ではない横須賀、戦後の悲喜を生きてきた市井の人びとの港町だったのではないだろうか。

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。


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