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新MiUra風土記

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この連載では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。
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記事一覧

逗子、写真家中平卓馬への路(中川道夫インタビュー)|新MiUra風土記(番外編)

編集部(以下、――):2023年夏に「挑発関係=中平卓馬×森山大道」展が開催された際、中川さんが森山大道さんにお話を伺いました。森山さんから中平卓馬さんについての貴重なお話を伺うことができましたが、2003年の「中平卓馬 原点復帰―横浜」展(横浜美術館)から20年、今回の展覧会を見ての率直な感想はいかがですか。 中川(以下、省略):展覧会タイトルの「火ー氾濫」を見たとき、一瞬「否−叛乱」と読み違えそうになりました。美術館があるのはかつて帝都の近衛師団司令部ゆかりの地で、竹橋

川崎宿とウチナーの鶴見|新MiUra風土記

川崎宿がことし起立400周年記念を迎えた。東海道五十三次の宿場は神奈川県内に9ヶ所あり、江戸の品川宿から多摩川を渡った最初の宿が川崎だ。 それに合わせたのか今秋、宿場のそばに25階建の川崎市本庁舎の建替えがされて、路面にはレトロな旧市庁舎を復元して高層棟との記憶をつなぎいち早く展望階が市民に公開された。 まずは足下の旧東海道の川崎宿へ。 川崎駅前に近い旧宿場町。通りに風情のある趾を見つけるのは難しいが、観光案内所を兼ねた東海道かわさき宿交流館では昔と現代を対比させ、江戸

北鎌倉の台峯で大蛇桜(オロチザクラ)をさがす|新MiUra風土記

大船駅の観音様を眺めながら、横須賀線は左へカーブを切ると空は明るくなり、低い山並が右手にみえる。次は北鎌倉駅で昔のままのような素朴なホームと駅舎。沿線には鎌倉五山(*1)のうちの三名刹があり、駅前は古都の風情をまだ残している。 ときにはその一つの円覚寺の仏殿に詣でて、境内の映画監督小津安ニ郎(1903-1963)の墓前に参る。墓石にはただ「無」の一文字が彼のすべてを語るかのようで、自分ならどう記すかと問われているようだ。   小津安ニ郎と北鎌倉といえば、映画『晩春』『麦秋』

山本周五郎、もう一つの横浜山手|新MiUra風土記

白亜の崖の上で過ごした作家がいた。その仕事場からは海水浴場や別荘、料亭、海苔の養殖をする海が見えた。彼は午前中の執筆をおえると着物に下駄姿で崖と坂で連なる尾根道をたどり巷に下りて散歩することが日常だった。 隣の台地に棲家がある遊歩人の僕としてはこの作家の足跡をたどってみたい。   ここ横浜の本牧、根岸はかつての武蔵国久良岐郡、この尾根道は相模国の三浦半島につながる鎌倉文化圏だ。 横浜にはブラフ(絶壁)クリフ(断崖)の名を冠したマンションや店舗が多い。いわゆる横浜山手は同じ

水軍三浦党、久里浜から平作川を遡上する|新MiUra風土記

久里浜駅に下りたのは初めてかもしれない。この横須賀線の終着駅は三浦半島最南端のJR駅。特急が発着する少し離れた京急線久里浜駅が利便なので存在感は薄いが、駅舎は横須賀駅と同じ戦前からのいい雰囲気を残している。 ここからより古い幕末の久里浜へ向かおうと黒船のペリー公園へバスに乗った。 変わらぬペリーの上陸記念碑を眺めて、この浜辺でペリー艦隊の海軍兵が行進してる様子を思い浮かべた。演奏するアメリカ国歌は今の「星条旗」(*1)ではなく初代国歌「ヘイル コロンビア」と、愛国歌「ヤン

【森山大道 特別インタビュー】逗子、ふたりの写真家と『八月の濡れた砂』|新MiUra風土記

文学記念碑「太陽の季節」が建つ海水浴場に人がもどってきた。北端の磯場には徳冨蘆花の「不如帰」の石碑が立ち背後には披露山がせまる逗子湾の変わらぬ名勝だ(*1)。 その披露山の山腹に白亜の屋敷が見えるのが故石原慎太郎邸。そして麓の路地にはひとりの写真家が住んでいて、もうひとりの写真家は逗子湾の南端に棲家があった。 この夏『挑発関係=中平卓馬×森山大道』展が神奈川県立近代美術館 葉山で開かれている。逗子と葉山ゆかりのふたりの写真家はいま日本を代表する写真家として国際的に評価が高

木古庭、葉山の奥へ|新MiUra風土記

三浦郡の葉山町はマリンスポーツの人気地で、御用邸や保養地文化の歴史もあり「湘南」のイメージを喚起する町だが、それらは海浜なのになぜ地名は葉山なのだろう? その昔、隣の逗子市で過ごした筆者は浜風にあたるだけでも至福にひたれる。やはり海の力はすごいものだ。ただ思えば葉山でも海の側ばかりに居た気がする。 葉山町は相模湾に沿って南北4キロ、大半は山と丘陵で逆コの字形に山地が海に迫っている。山の端、そこで端山から葉山へという説がある(*1)。 葉山のもうひとつのおもしろさはその地

三浦から島根へ、小泉八雲への半島紀聞|新MiUra風土記

明治23年[1890]、憧れの富士山を眺める外国人客を乗せたカナダ船アビシニア号は浦賀水道に入り、そのなかに小柄で隻眼の英国籍の紀行作家ラフカディオ・ハーンがいた。このときハーンはじぶんが日本人で小泉八雲になろうとは思いもしなかったろう。 「まるで何もかも小さな妖精の国のようだ」。上陸した初日本の横浜、鎌倉や江の島での見聞は彼を日本の歴史文化の淵に誘った。そして松江では出雲神話から民俗と怪奇譚に出会い、ハーン流の再話文学をつむいで日本人に遺した。 三浦半島から島根半島へと

いざ鎌倉! 亀の遊歩の大町、材木座|新MiUra風土記

ほんとうは行ってほしくないけど知ってほしい場所がある。とっておきの自分だけのお気に入りの処。 見どころいっぱいの鎌倉は三浦半島の人気地で、曜日にかかわらず鎌倉駅頭には人が多く小町通りは鎌倉一の繁華街になっている。 ただ2年目に入ったこの風土記で鎌倉を歩いたのは一度だけ、やはりオーバーツーリズムが気になる。(*1) 江戸時代も物見遊山の地で知られた鎌倉。(*2)そして中世鎌倉でいちばんにぎわう場所は何処だったのか? 小町があるなら大町もあるはずだ。小町通りのその古名は瀬

富岡、ビーチリゾートと『午後の曳航』の眺め|新MiUra風土記

どこから三浦半島で? どこまでが三浦半島か? この連載をやっていてときどきこう自問することがある。 ~三浦半島とは、藤沢市片瀬海岸から横浜市南部の円海山の北麓を結び、東京湾側の富岡を結んだ線以南をいいます~と明言してくれた本がある。(*1) さらに縄文海進期の神奈川地図には藤沢、平塚、茅ヶ崎市の平野部や川崎市の手前の横浜市鶴見区までが三浦半島の付根に見えていて、僕の脳内MiUra半島はここまで入れているが。 京急富岡駅、さきの本によれば半島北限はこのあたりか。いまは横浜

盗人狩とキリシタン灯篭の湊|新MiUra風土記

地名に惹かれ訪ねた旅がある。その町も土地のことも知らない『地球の歩き方』やインターネットも無い時代だ。 欧州ならウルビーノ、シラクサ、ロードス。中東はアカバ、ジェリコ、ヤッフォ、アレッポ、ディヤルバクル、アレクサンドリア。アジアは大理、カシュガル、基隆、ホイアン、クチン。北米はケチカン、キャンベルリバー、ポートランドか。そこは日本人には馴染みのない場所だったかもしれない。 ここ三浦にも地図で見つけたそんな地名がある。それが盗人狩だった。黒澤明の映画『隠し砦の三悪人』や五社

水道と梅とホタルの里の田浦|新MiUra風土記

京浜急行田浦駅、以前某美術館の街歩きのワークショップ講座でこの駅に集合したことがある。「皆さんここで乗り降りしたことはありますか?」と尋ねるとおよそ三十人のなかで挙手する人がいなかったことを思いだす。田浦はよほど魅力も縁も無い町なのだろうか。 田浦が梅の名所だということは意外に知られていない。神奈川県では小田原の曽我梅林が有名だが。三浦半島最大の田浦梅林(約2,700本)は東京湾を見下ろす丘陵に開花する。そして麓には三つのホタルの里があり、もう一つの顔は水道で、それは近代史

逗子、海を見ていた前方後円墳とヤマトタケルが駆けた路|新MiUra風土記

鎌倉駅をでた横須賀線の車内は一変して乗客がまばらになり、気分が緩んだ。 逗子駅に近づくと左手に片っ曽の山が迎えてくれて、僕のウェルカムゲートになっている。片っ曽の名は断崖の意味で、切り立つこの山には「孫三郎狐」が棲んでいた伝説がある。 駅のホームに下り立つと変わらぬ清々しい浜風が吹いている。駅前の日差しは白くて晴天の蒼さが似つかわしい。 小説「太陽の季節」(石原慎太郎)や「不如帰」(徳冨蘆花)が描いた三浦半島西岸の逗子市は明治から昭和へ、葉山町とともに保養地・別荘別宅地として

ヴェルニーと軍港の横須賀【後編】|新MiUra風土記

地元では「ベース(Base)」の愛称で親しまれている「ヨッコースカッ!」のヨコスカベースとは、米海軍横須賀基地のことだ。三浦半島の西側の動脈が国道134線ならば、基地の正面ゲートのある国道16号線は東側のそれになる。基地の一般公開日である「ヨコスカフレンドシップデー」はここ正面からではなく北の三笠公園内ゲートなどからの入構が多い(通常は入構不可。オープンベースの際は指定された身分証明書[パスポート、写真付きマイナンバーカード]が必要。2022年は10月16日に開催された)。