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盗人狩とキリシタン灯篭の湊|新MiUra風土記

この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第17回は、三浦半島の最南端、三浦市の盗人狩ぬすっとがりを訪ねます。

地名に惹かれ訪ねた旅がある。その町も土地のことも知らない『地球の歩き方』やインターネットも無い時代だ。

欧州ならウルビーノ、シラクサ、ロードス。中東はアカバ、ジェリコ、ヤッフォ、アレッポ、ディヤルバクル、アレクサンドリア。アジアは大理ダーリー、カシュガル、基隆キールン、ホイアン、クチン。北米はケチカン、キャンベルリバー、ポートランドか。そこは日本人には馴染みのない場所だったかもしれない。

盗人狩

ここ三浦にも地図で見つけたそんな地名がある。それが盗人狩ぬすっとがりだった。黒澤明の映画『隠し砦の三悪人』や五社英雄ごしゃひでおの『御用金』を思い出してしまう時代活劇めいた名。そこは半島最南端の崖っぷちで沿岸遊歩コスタルトレイルの絶景にふさわしい。

京急三浦海岸駅発のそのバスは昼間1時間に1、2本。剱崎けんざき・三崎東岡行きは金田かねだ湾をぐるりと周り台地に上がると松輪まつわバス停だ。ここから海岸線めぐりの起点になる剱崎つるぎざき岬とその灯台に向かう。

それはCape Sagami(相模岬)と黒船のペリー艦隊の海図に記された場所で、彼らは長靴のようなイタリア半島に似た三浦半島を相模半島と呼んでいた。(*1)

(*1)『ペリー提督日本遠征記』 M.C.ペリー 宮崎壽子監訳

剱埼灯台

丘陵に広がるキャベツや大根、ときにはスイカの畑を眺め剱崎の灯台(剱埼)をめざして間口まぐち漁港へ坂を下る。ひっそりした湾に釣人用の民宿がポツポツあり一度は泊まってみたいと思うのだ。ただ季節によれば松輪サバで活気づく。東京湾の走水はしりみず(横須賀市)の「黄金アジ」とともにこの三浦のブランド魚は高値で地元でもなかなかありつけない。

漁港から磯と岩場を抜けると白亜の剱埼つるぎさき灯台の立つ剱崎岬だ。江戸初期、官財船が難波したとき神官が剣を沖になげ龍神の怒りを鎮めたというかながわ景勝50選のひとつ。初代灯台は、お雇いイギリス人技師R・ブラントン(*2)による。横須賀港を手掛けたフランス人ヴェルニーの観音埼かんのんさき灯台とともに洋式灯台の嚆矢だった。

(*2)江戸条約(慶応2年[1866])で明治4年(1871)建設後、関東大震災で倒壊。現灯台は大正14年(1925)に再建。ブラントンは横浜開港で居留地(関内)のインフラも整備した。日本の灯台の父。

灯台からは対岸に横たわる房総半島、その南端の洲埼すのさき灯台とこの剱崎を結ぶ線が東京湾の玄関口外湾になるのだ。異国船の往来、三浦半島が日本の夜明けの礎になっていたことをこの岬でも感じる。ここを舞台にした立原正秋たちはらまさあき(1926-1980)の代表的短編小説『剣ヶ崎』は異邦人の視点から日本の近代を思わせる。

三浦・岩礁のみち

「三浦・岩礁のみち」の案内柱が立っている。(*3)さきの松輪バス停からこの剱崎岬や盗人狩をへて城ヶ島対岸の宮川町まで10.3キロメートルの遊歩トレイルルートだ。

(*3)環境省・関東ふれあい道HPより。三浦・岩礁のみちについては風波、高潮、潮位を天気予報や潮見表で要確認のこと。

松輪サバが揚がる江奈湾

沖合を行きかう多国籍な船舶を眺めながら波浪で海蝕された岩畳を踏破すると、松輪港の江奈えな湾にでた。この湊に「かくれキリシタン灯篭」(*4)の地蔵堂があるという。ここまでは何度か来ているが訪ねるのは初めてだ。

(*4)『三浦半島の史跡と伝説』松浦豊 暁印書館

松輪の「キリシタン灯篭」

地蔵堂そばに住むOさんに偶然出会い案内の上で見聞、撮影させてもらった。ふつうの戸建ての家の内部は町内会の倉庫兼寄合所のようだ。

花崗岩のその灯篭は下部の竿部分のみで、両脇をお地蔵様に挟まれて鎮座している。解説本にはキリシタンが海底に避難させたのを漁師が引き揚げたもので、十字架の横棒が短く角のゆるいシルエットと縦軸の上部が短い卍記号とマリア像?の彫りがそう見えなくもない。

「今もキリシタン?がおつとめされるのですか?」と尋ねたら「そんなの無いよ」とあっさり外されてしまうが、大切に奉じられている様子だ。三浦半島の潜伏キリシタンもこの連載でさがし歩いてみよう。

江奈湾を回った干潟にアシ原が広がる。そこはチドリやサギが舞い、ヨシやガマ類の下でアカテガニやシジミガイが棲息するというビオトープ。ここは三浦のもう一つのエコの聖地小網代の森と同じく人々の自然保全活動により開発を免れている。

白浜毘沙門天への道

いったん国道に上り毘沙門天入口バス停から白浜しらはま毘沙門天(慈雲じうん寺)へ下る。

三浦七福神の白浜毘沙門天を祀る。

笹やぶに囲まれたその本堂にはこの浜から出現したという尊像が三浦七福神として祀られている。

毘沙門湾
毘沙門天の浜

白浜毘沙門海岸でサンドイッチをほおばり、岩に付着したアオサの香りとともに沿岸遊歩を再開。浅間山という小岬を回るとハイライトのはじまりだ。

盗人狩へは干潮時を選ぶ

岩礁によせる波、絶壁の海食崖の山。入江と岩畳を進むにつれて奇岩群が現れる。それは縄文海進から地殻変動、関東大震災の海底隆起がもたらしたものでいつ見ても奇観。僕はこれをジオアートだと呼んでいる。

毘沙門洞窟。住居や墓だった。

巻貝の殻が多い浜もある。崖面に穴があるのは毘沙門天洞窟で弥生時代からの住居で漁労具も発見されたという。(*6)

(*6) 県指定史跡 平安時代は墓で日本初の「卜骨」が出土した遺跡。『三浦半島再発見』神奈川新聞社横須賀支社編

ゴッホの絵の様な波調層の山

毘沙門湾をへて千畳敷へ。ここから盗人狩までは絶妙の奇景色。岩盤は白と黒の泥岩と凝灰岩のミルフィーユ。せまる波調層(波のようなきれいな地層)がむき出しの山。高校生のとき地学の授業をもっと真面目にやっておけばと後悔する。

盗人狩

盗人狩、地名に惹かれて来た場所。それは想像を超えたものだった。(*7)三方に立ちはだかる岩場には入江が深く切り込まれ、その奥にはドラゴンが出てきそうな巨大な穴が見える。岩礁から見上げその迫力に圧倒され、カメラのファインダーに収まらないことがもどかしい。ひるむのは盗っ人だけではない。ここは僕が知る三浦の秘境ナンバーワンだろう。

(*7)昔、追われた盗賊がこの断崖で渦巻く波濤に足がすくみ捕らえられたという伝承。「かながわ景勝50選」三浦市HPより

盗人狩の遠景

地名は歴史の化石で証言者だ。江戸を目前にしたこの岸辺で、史実に残らない出来事があったと思いたい。

観音山

盗人狩の海蝕風景で〈気〉を充填させたら、ゴッホの絵のようにゆがみ黄色づいた観音山をさいごにすると、宮川湾の「みうら宮川フィッシャリーナ」のヨット等の停係泊施設にたどり着いた。

宮川湾

ひと息つくとこの湾の崖の上には3翔2基の白い令和の風力発電機(*8)が気持ち良さげに回っていた。絶景は三浦半島にもあるのだ。

(*8)自然共生都市実験化の一環として関東初で平成9年[1997]年設置、現在は2代目

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。

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