山頭火の水|へうへうとして水を味ふ日記
【新連載】
連載タイトルにある「へうへうとして水を味ふ」という種田山頭火の句をご存じのかたも多いと思うのだけれど、自由律俳句を代表する詩人で、放浪と酒びたりの人生を送った山頭火は、1927-28(昭和2~3)年ごろにこの句を作ったらしい。
今年の夏、台湾で種田山頭火を紹介する俳句集『行乞的詩人(乞いゆく詩人)』(種田山頭火 著、林水福 訳・解説)が出版され、その新刊トークイベントにわたしも登壇させてもらう機会があった。訳者の林水福さんは、川端康成や谷崎潤一郎といった文豪の作品を台湾に紹介してきた日本文学翻訳の第一人者だ。あの遠藤周作にいたっては、直々に林さんを指名したというほど。そして、種田山頭火の句が出版物として台湾へと紹介されるのは、今回が初めてのことである。
台湾のひとは、日本文化に詳しい。台湾に詳しい日本人よりも、日本に詳しい台湾人の方がきっと多いだろう。それなのに、種田山頭火がこれまで台湾で紹介されなかったのはなぜだろう。
山頭火は日本において絶大な人気を誇る俳人であり、全国各地にある句碑は600を超えるともいう。芭蕉と並んで、日本でもっとも愛されている俳人と言ってもいい。しかし試しに、台湾の誰かに「山頭火って知ってる?」と尋ねてみれば、十中八九で「ラーメン店の?」と返ってくるはず(「らーめん山頭火」は随分前から台湾に進出している人気店である)。松尾芭蕉の『おくのほそ道』は台湾でも早くに翻訳され、李登輝元総統が愛読したことでもよく知られているのに、山頭火はなぜこんな後回しになったのか。わたしなりにその理由を考えてみた。
たとえば、台湾の人々は子供のころから漢詩や唐詩を学校教育で徹底的に叩き込まれる。有名どころでいえば李白とか杜甫とか蘇東坡とか、そういった人々の詩である。彼らはもの凄く酒好きだったりして、山頭火と同じく飲酒の詩もたくさん書いてはいるのだけれど、基本的には相当な文人だ。
中華文化における「文人」とは、詩や音楽や絵など全方位に高い教養をもち、しかも能力の高い政治家だったりするスーパーエリート。失脚して不遇を嘆くような内容も多いとはいえ、苛烈な学歴社会の台湾では心から尊敬できる人物ばかりなのだ。松尾芭蕉もインテリのエリートっぽい雰囲気が好まれているのではないか。ところが、山頭火はちがう。早稲田の文学科にも入学しているインテリには違いないが、妻子を置いて全国を放浪する徹底した破滅型で、酒と女におぼれ、ひとの財布を頼りに生きる破戒僧、率直に言うと友達になるのさえ躊躇われそうなアウトロー。今どきの言葉でいえばファビュラス級の「だめんず」、台湾で言うなら「渣男」である。
だから今回、山頭火が台湾に紹介されたのは、日本文化の受容とか台湾のひとびとの文化的な嗜好が、ここ数年でさらに多様化してきたのかなあと思ったりもする。ちなみに、新刊イベントの会場でなぜかわたしのサインも欲しいと言ってくれた大学生ぐらいの女の子ふたり、彼女たちは日本のアニメ『文豪ストレイドッグス』のファンで、ビニール製のカバンにはお手製の「中原中也」とか「太宰治」の人形が入っていた。
では逆に、日本人はどうしてこんなにも山頭火を愛しているのだろう?
* * *
先日、実家のある山口に帰ったとき、山頭火の故郷・防府市にてゆかりの場所をめぐってみた。
まずは防府市大道の、山頭火とその父親が経営していた酒造所跡を訪れた。大道は古い名を大道村といい、かつての旧山陽道が通っているため、宿場町のような昔ながらの風情ある街並みをのこす。山頭火親子の手放した酒蔵は別の方に買いあげられ、その親戚関係にあるのが山口の銘酒「山頭火」を作っている金光酒造。つまり、清酒「山頭火」は本当に山頭火ゆかりの酒なのだ。当時、その酒蔵で使われていたという大きな酒桶のある小さな公園にも行った。
ある暖冬の年、酒が腐ったために山頭火親子は経営が立ち行かなくなり破産する。父親は行方をくらまし、山頭火は妻と子を連れて熊本へと逃げた。そして、熊本でもやっていけなくなった山頭火は、ついに自殺未遂のすえ出家する*。
なぜか、わたしは小さな頃から山頭火に縁がある。小学校までを過ごした山口県下関市の小さな町「川棚」は、山頭火が“死に場所”と決めたほど愛した温泉地であった。友達とよく遊んだお寺の庭には、山頭火がこの地で詠んだ俳句「湧いてあふれる中にねている」の句碑があった。山頭火はここに庵を結ぼうとしたが、乞食坊主が住み着くのに地元の人々が反対したので諦めざるを得なかったらしい。
中学・高校を過ごした山口市の「湯田温泉」も、山頭火がいっとき庵を構えた場所で、町のあちこちに山頭火の句碑があった。
高校のときは、美大受験をするため山口市からお隣の防府市にある受験用アトリエに3年間デッサンなどの勉強に通っていた。当時はまったく無関心だったが、そのアトリエからさほど遠くない場所に、山頭火の生家跡があると最近知った。
山頭火の実家はたいへん裕福な地主だったが、山頭火の母親は夫の放蕩のために鬱病を発し、山頭火が11歳のときに自宅の井戸に身を投げた。生家跡にいくと、山頭火を記念する碑や解説のあるあずま屋があって、ここが山頭火の生家であることを知らせる幟が立っている。
とはいえ、当時の自宅は800坪もの広さがあったという。この周囲に建っている家もかつては山頭火の実家があった場所なのだろう。母親が身を投げた井戸はどこだったのだろうと考えながら、周りの路地をぐるぐると歩いた。
あずま屋の道を挟んで向かい側に、ふと水が流れ出している手水鉢を見つけた。まわりは青々とした植物に囲まれて、そこから湧水がぽこぽこと出、その上には、「へうへうとして水を味ふ」の句が書かれている。
ちなみに、台湾で出版された山頭火の選句集で訳者の林水福さんは「へうへうと~」をこんな風に訳している。
“酒酔飄飄然, 飲水味甘心甜”
酒を飲みすぎた翌日は、身体が脱水しているので、水がことのほか美味しく感じる。山頭火にとっての「おいしい水」は大量の酒を浴びた翌日に味わう水なのだ。
湧水のある手水鉢のとなりはクリーニング店で、開け放たれた勝手口の奥の暗がりに、作業している男性の顔がみえた。湧水があるということは、その水をはこぶ排水溝が地面の下に流れているはずで、この道は暗渠なのだろう。クリーニング店は大量の水を消費するので、暗渠のそばに建っていることが多い。
「すみませんー」と声をかけると、勝手口にのぞかせた私の顔を男性がぎょっとして見た。肌を突き刺すような強烈な日差しを逆光にのぞきこむわたしの姿は、きっと真っ黒人間に見えたに違いなく、無理もない。
「ああ! びっくりしたー、はいなんでしょう」と店主らしき男性が応答してくださった。
「あの、突然すみません。ここら一帯は山頭火の生家跡ということですが、こちらの湧水は、生家跡の井戸の水と関係がありますか?」
「いえ、これは違いますよ! 同じ水脈といえばそうですが……」
「山頭火のお母さんが身を投げられた井戸というのは、どのあたりかご存じですか?」
「いや、ああ、今はもう他所のお家の敷地内ですからね、ちょっと……」
男性は、申し訳なさそうに言った。それはそうだ、100年以上も前とはいえ、自分の家の敷地内に投身自殺の起こった井戸があるのは誰だっていい気はしないだろうし、気軽によそ者に教えるようなことでもない……。
山頭火はここで、“生まれた家はあとかたもないほうたる”という句もつくっている。1938年7月1日に山頭火が妹を訪ねるついでに、ここ生家跡に寄ったときのものらしい。そのときも山頭火はこの湧水で「へうへうと」喉を潤したのかもしれないなーと想像しながら、クリーニング店脇の湧水に手を濡らす。
酒の句の印象がつよい種田山頭火だが、実は水についての句は酒よりもずっと多い。そして、山頭火が水の句を詠んだのは、決まって故郷の防府とおなじ「超軟水」の場所ばかりだったという 。驚異の「利き水」能力だが、思春期に失った母親への思慕を抱き続けていた山頭火は、ふるさとの水に近い水を飲んでは母親のことを想い、また温泉に浸かっては母親に抱かれているような気持ちになっていたのかもしれない。
人間、年を取るほど不思議に、幼いころからの家族関係や忘れかけていたわだかまりが、あらためて輪郭をもって立ちはだかってくることは多い。山頭火は、その名も「水」という随筆も書いている。そこでは、「へうへうと~」と詠んだかつての自分を「こんな時代は身心共に過ぎてしまった。その時代にはまだ水を観念的に取扱うていたから、そして水を味うよりも自分に溺れていたから」と素直に反省もしている。そしてその一篇の随筆を「私は水の如く湧き、水の如く流れ、水の如く詠いたい」と結んでいる。
分け入って青い山にぶつかり、行きつ戻りつしながらも、いつもひとが生まれたときの純真さを生涯、その生きざまと創作に持ち続けた山頭火は「赤子の心」をもっていたひとでもあった。そして、「へうへう」「つくつくぼうし」と、おさなごの朗読のようにかわいらしいオノマトペとひらがなの反復の可愛らしさ。
そうだ、日本人って「かわいい」ものが大好きだものね。山頭火が愛される理由の一端は、そんなところにもあるのかもしれない。
* * *
その後、山頭火が眠る護国寺に行った。黒っぽい山門の前に、笠をかぶった等身大の山頭火像がたち、午後の強い日差しに焼かれている。
防府は水の豊かな場所で、この護国寺のまわりにも佐波川水系の水路がたくさんあり、そこかしこでせせらぎが聴こえる。平安時代、周防国司になった父親に付いてここ防府で暮らした幼い清少納言も、きっとこのせせらぎを聴いたに違いない。護国寺のそばで、真っ黒に日焼けした男の子がぎらぎらと照り付ける太陽を気にするでもなく網を片手に水がたゆたゆと流れるのを覗き込んでいる。
それを横目に護国寺に入り、奥の方にある種田山頭火の墓に参った。墓の向こうには、ごつごつとした花崗岩の岩肌をあちらこちらにみせる独特な風貌の右田ヶ岳をのぞむ。「俳人種田山頭火之墓」と彫られた自然石のよこに、小さくて白っぽい端正な墓があった。山頭火の母親の墓である。山頭火の息子・健をして「孤独地獄」を生きたと形容された山頭火。そんな山頭火もここでようやく母親の隣に、安住の眠りを得た。二人の墓のあいだには、こんな句碑があった。
「うどん供えて、母よ、わたしもいただきまする」
護国寺を出ると、まださっきの少年が同じ姿勢で溝の水を覗き込んでいるので、たずねてみた。
「なに捕っちょるん?」
少年は答えた。
「ちっちゃいエビとか、魚とかおるけえ」
文・写真・イラスト=栖来ひかり
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