“はな” 日本人はナゼ花見をするか|中西進『日本人の忘れもの』
サクラは死なない
日本列島は、毎年少しずつ地域をかえてサクラの満開を迎える。サクラ前線が南から北へと日をおって上り、そのころはとくに天気が心配される。
たしかにお花見をしないと春がきたように思えない。新入社員が朝早くからビニールを広げて場所をとり、夜ともなると酒盛りは最高潮に達する。夜桜を見て歩く人も、そのまわりにあふれかえる。
さてそれでは、どうして日本人はこんなに花見が好きなのだろう。
いや、いっせいに、いろいろな返事が返ってきそうだ。
むかしから花は桜木、人は武士というじゃないか。サクラは人間のカガミだ、とか。
とにかくサクラはぱっと咲いてぱっと散る。いさぎよいからね、とか。
サクラは花期が短い。みんなそれを惜しんで見に来るんだ、とか。
なにしろ、サクラは日本の国花ですからね、とか、とか。
しかし私は、それぞれが少しずつ物足りない。もう一つ、納得させてほしい、と思う。
そこで長年あれこれ考えた結果、いまは次のような結論におちついている。
いつも言うことをくり返すので気がひけるが、植物は草花のばあい、花を咲かせて、やがて花を落として、草自身もしおれて、ついに枯れる。これがふつうである。
木の花のばあいは花が咲いたあと、花がしおれては、落ちる。そして木自体は枯れないが、花の命はおわったことになる。
ところが、サクラはこの四つの段階を、花を咲かせると花を落とすの二段階だけですませてしまう。しおれる姿を見せないし、木の花だから、花が枯れたことには誰も気づかない。
つまりサクラの花はしおれないのである。
一方、こんな花の変化は、そっくり人間の命である。人間は命をサカ(栄)えさせるがやがてオ(老)い、命をシ(死)なえさせたのち、魂がカ(離)れていく。
この人間のプロセスにサクラをあてはめてみると、命が栄え、落花はするが、死にはしない、ということになる。
何と、サクラは死なないのである。
いままではむしろ逆に考えられていたのではないか。サクラは死に際(散り際)がいいとみんな思ってきたのではないか。
そう思うのは、正確でないのである。
どうしてそんな誤解がおきたのかといえば、花のしおれることが人間の死にあたることに、いままで気づかなかったからだ。
植物全体を考えてみよう。花が満開なのが人生の盛りだ。しかし落花する。この「おちる」ことは、人間でいうと「老いる」ことに当たる。落花した植物は老年を迎えたのである。
そして植物は水分を失ってしおれ、死んでいく。人間もみずみずしさを失い、魂が「離れて」いって、ついにともどもに命の終わりを迎える、といったぐあいだ。
現代人は魂の存在を否定してしまったから、最後の命終みょうじゅうが一つくり上がって、しおれた段階が死になってしまったが、ほんとうの人間の死は、魂が肉体から離れた時なのである。
さてそうなると、サクラはしおれない──死なない。死なないで、またあくる年、ぱっと命を輝かせては消え、またあくる年に咲く。
この永遠の命こそがめでたい。日本人は本来そう思った。サクラも人間もすぐ死ぬからいいなどと本音でもないことを考えるのは窮屈ではないか。
もっとのびのびと、本音で永遠の花の命をほめようではないか。
「花バラをください」
あなたは花屋さんで何というか。「このバラの花をください」だろうか。
ところがむかしの日本人は、そう言わなかった。「バラの花」ではなく「花バラ」のようにいった。花バラということばはむかしの書物にはないが、花タチバナ(橘)、花ハチス(蓮)、花カツミ(アヤメのことらしい)ということばが見える。
これらはみんな、今日ならタチバナの花、ハスの花、アヤメの花というところだ。
それでは、どうしてこんな言い方をむかしの日本人はしたのか。
たとえばバラの花といえば、たくさんある中で他の花と区別して、バラの花をさすことになる。スイートピーの花、ヒマワリの花とある中で、バラの花というわけである。
一方、花バラという言い方はバラの全体の中で、花の咲いているバラという表現である。芽バラもある。蕾つぼみバラも、しおれバラもある。枯れバラもある中で、花をつけたバラということになる。
つまりバラのあらゆる状態を視野に入れて、その状態の一つとして花をつけたバラを言うのだから、これまた、さきほど述べた花の命の循環にもとづいた花の見方だということがわかる。
いかがであろう。私はこのことに気づいた時、大きな衝撃をうけた。ちょっと見ただけではバラの花と花バラは言い方の順序をひっくり返しただけだ。ところがそれが、大きな、物の見方の相違にもとづくのだから。
とくに古い日本の和歌には花ススキという表現がある。そもそもススキに花が咲くことを意識していない人も多いのではないか。
古い文献ではススキは美草みくさともいう。あの穂が美しいからであろう。また尾花おばなという。同じく穂が尾のように垂れるからだろうが、その穂を花としてとらえるのと同様に、しかももっと直接的に、花ススキといったのが古代の日本人だった。
現代人が目もくれないススキの花に注目して花ススキといった古代人の眼差しは、すべての植物の全生命過程を見つめ、ススキの命の絶頂も見のがさなかったのである。
こういうことを話題にしていると、思い出すのは大阪のアシである。子どものころ「百人一首」に「難波江のあし」がたくさん出てきて、まぎらわしくてうんざりしたのは私だけではあるまい。
それほどにむかしの人に親しまれたアシは「節の間が短い」といった細かい観察もあるかと思うと春先に「角ぐむ」(芽をふくらます)アシが歌われたり、一面に枯れアシとなって、春のアシが夢のようだと歌われたりする。もちろん緑の芽をそよがせる夏のアシの美しさも歌われた。
こうしたアシを見ると、たしかにむかしの難波の人は刻々と移り変わっていくアシの命の全過程を見ており、その中でアシの花も咲き、アシが散る様子も知っていたことがわかる。
後にはアシは「悪し」だから「良し」に変えようといって原が吉原になってしまう。そんなに雑で乱暴な人にはまったく見えないものが花をつけたアシであろう。
花ススキも同じである。
要するにむかしの日本人は、つねに植物の全生命が頭にあり、その一時の状態として花を見ていたということだ。
今日では植物の生命活動さえ考えない人がいる。見た目を喜ばせればそれでいいという人が多い。
花にも感情があり、音楽ではモーツァルトが好きだと聞いた。にもかかわらず、花の時だけ大事にされ、花がおわればポイ捨てにされる現代の花。
花についている説明書には、よく日に当てて下さいとか、たっぷり水をやって下さいとか書いてある。少しはましだが、そこにだって「お手入れの仕方」などとある。
植物の命はせいぜい「手入れ」される程度なのである。
植物の命のすべてを考えながら、花の美しさを楽しもうではないか。そう考えさせてくれるのもバラの花ではなく、花バラということばなのだから。みなさん、これからは花屋へいって、ぜひ、「花バラをください」と言ってほしい。
湛えられた命の充実が花だ
花の命を考えるということは、命において、植物も人間も区別がないということだ。
そう気がつくと、古い日本人の花への思いが、びんびんと響いてくる。
そもそも花が美しいものと見られるようになるのは、人間の歴史でもそう古くない。とくに日本では花のデザインが遅れ、いちばん古いものがお寺の瓦の蓮華れんげ模様だという。これとて中国からの輸入品である。
一方、そもそも花は死者に副葬された。太古の死体からは骨とともに埋められた花が発見される。魂が離れた──枯れた人間に、咲いた花を供えて、命の盛りの復活を祈ったのである。いまでも霊前に花を供えるのは、その名残りだが、さてどれほどの人が、自覚しているだろうか。
また、十七世紀の俳人、松尾芭蕉はもっと直接的に「命二つの 中に生きたる 桜かな」(『甲子かつし吟行』)という句を作る。「命二つ」とは20年ぶりに再会した芭蕉と、その門人・服部土芳とほうのことだ。
郷里の伊賀上野で会えず、やっとここ(滋賀県の水口)で会えた歓びを二人の命の映発と感じ、その命を分担するかのように輝いているものがサクラだという。
こうした中にも、花と人間が命を共通させていることが見られるだろう。
おもしろいことに、この服部土芳が師の芭蕉のことばを書きとめた書物『三冊子さんぞうし』の中に「松の事は松に習え、竹の事は竹に習え」と芭蕉がいった、とある。
花ではないが、松、竹という自然物に対する態度は、このように一にも二にも相手を立てて、その命を尊重するものでなければならない。さきほどの「手入れ」など、もってのほかだということになろう。
こちらの立場をひっこめ、相手の命を十分生かすことで両者の関係が成り立つ。松や竹によって、こちらの命も正当に活発に働くという考えである。
現代人は科学万能の時代にあって、万事、科学的な基準で生きているが、古来人間は、とくに日本人は自然をテキストとして生きてきた。自然に順応し、自然に教えられ、自然のサイクルに命を重ねることをしてきたのである。
その結果、植物の命は人間の命とひとしく、花はまた、人間の命の盛りだったのである。
ただ、そう花と人間の命を重ねた上で、もう一つ大事な、花の考え方を言いそえる必要がある。
十四、十五世紀のころ活躍した能楽師の世阿弥は、花を比喩に使って、能楽の修業の仕方をいろいろ説明した。その中に有名な「秘すれば花なり」ということばがある。一言でいうと、他人から花だと知られないものが、本当の花だというのである。
世阿弥の発言は能楽の演じ方についてだが、このことばは、広く、人間の生き方全体についての名言ではないか。
植物にしろ人間にしろ、たしかに花は盛りの生命力ではあるが、しかし、ほんとうの命の盛りは、華々しいだけの、むだ花のような姿は見せないものだという考え方である。
内に抑制され、湛たたえられた命の充実こそが花だと、古来日本人は考えてきたのである。
いま花屋の店先を飾っているのが、けばけばしい洋花だけだったら、祖先は嘆くというものだ。
もっとささやかでいい。ささやかな花ながら、たしかに命を輝かせている花、見た人が思わずわが命を重ね合わせて、それをいとおしく感じさせるような花。それこそがほんとうの花だと、祖先たちは考えたのである。
文=中西 進
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