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[有田焼]開国を契機に世界へ|幕末・開化期、佐賀の万博挑戦

1867(慶応3)年のパリ万博。幕府が諸藩に出展を募ったところ、応じたのは佐賀藩のみでした。日本初参加の万博で主力品として期待を担った有田焼に注目します。有田の人々は、積極的に西洋から技法を学び、万博への出品や輸出品の製作に情熱を注ぎました。有田焼開明期のひとコマをお伝えいたします。(ひととき2024年5月号特集「はじめましてのパリ万博 佐賀藩、世界に挑む!」より)

 有田の人々の目が、ふたたび海外に向いたのが幕末だった*。通商条約が結ばれて自由貿易が始まり、ジャポニスムのブームや万博への出展も相まって、有田焼は世界に返り咲いていく。

*17 世紀半ば、政治状況から輸出が難しくなった中国磁器に代わり、オランダの東インド会社が有田焼に目を付けて輸出。しかし、それらの磁器を好んだドイツ・ドレスデンの領主は、自領内での磁器生産を目指し、マイセン焼を完成させた。そして、現地でコピー製品が作られるようになると有田焼はヨーロッパ市場で不振となり、主に国内向けに製作されていた。

高台に立つ陶山〈すえやま〉神社。磁器製の大鳥居が有田町ならでは
有田焼の窯元やギャラリーが立ち並ぶ皿山通りの一角 

 1870(明治3)年にはドイツ人技術者のワグネルが有田に招かれ、西洋の先端技術を伝えた。鮮やかな青や緑、桃色、黄色など、発色のいい西洋絵具が導入され、有田の人々の製作意欲は上がった。

 幕末のパリ万博の次が、1873(明治6)年のウィーンだった。明治政府は新生日本をアピールしようと、威信をかけて大規模出展に踏み切った。

1877〜1892(明治10〜25)年頃製作の口径90センチの大皿。竜を繊細かつ大胆な構図で描く 写真提供=香蘭社
1879(明治12)〜1890年代製作の鉢。シチューなどに使う「キャセロール」と呼ばれる洋食器 写真提供=香蘭社

 博覧会事務局の総裁は大隈重信、副総裁が佐野常民という佐賀コンビ。ただし大隈は渡欧せず、100人近い派遣団を率いたのは佐野だった。前回のパリでの経験が買われたのだ。

 当然、焼物には力を入れたが、パリで茶碗や小鉢が売れなかった教訓から、あらかじめ万博向けに凝った作品が作られた。

 前回は素朴な茶店を建てて、柳橋の芸者衆を登場させたが、ウィーンでは日本庭園を造り、神社風の堂々たる建物を設けた。

 会期中に岩倉使節団が視察に訪れた。1年半前に横浜を出航し、欧米各国をめぐって、最後にウィーンに寄ったのだ。

 彼らの目的のひとつに、幕末に結ばれた不平等条約の改正があったが、長い外遊中に成果は出なかった。当時の日本は輸入関税を決める権利もなければ、欧米人が日本で罪を犯しても、裁くこともできなかった。

 欧米各国にしてみれば、ハラキリがまかり通る国に、自国民の処刑を任せられない。不平等条約改正には、まず日本が文化国家であると示さなければならなかった。

 ウィーン万博で有田焼は努力がみのり、非常に高い評価を受けた。岩倉たちは、これこそが日本の技術や文化度の高さを、世界に示す好機と受け止めたことだろう。

 次の万博は1876(明治9)年のアメリカ、フィラデルフィアでの開催。岩倉使節団は新政府要人の集団だけに、新政府の万博への意気込みは、さらに増した。

今回の旅人である歴史時代小説作家の植松三十里みどりさんがトンバイ塀のある裏通りを散策。「トンバイ」とは、登り窯を築くために用いた耐火煉瓦のこと。窯を焚いているうちに薪の灰と煉瓦が化合して、複雑な色合いが生まれる ●植松さんのnote:https://note.com/30miles/
現代の感性で伝統のデザインを再構築する老舗窯元が運営する「アリタポーセリンラボ カフェ」で。佐賀県産牛ハヤシライスのセット

旅人・文=植松三十里
写真=阿部吉泰
協力=森谷美保

──万博に向けて全力を尽くした有田焼の見事な彩色は、圧倒されてしまうほどの美しさです。本誌では、なぜ佐賀藩だけが幕府の呼びかけに応じてパリ万博に挑んだのか、有田焼を生んだ佐賀の歴史、当時の日本の状況を時代小説家の植松さんが紐解きます。ぜひご一読ください。

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<目次>
[佐賀市] 幕末、万博参加への道─モダン佐賀藩
[コラム]ちょっと寄り道、歴史さんぽ
[有田町]そして、世界へ─開明期の有田焼

出典:ひととき2024年5月号


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