適当に降りた見知らぬ街で、日本統治時代の建物と出会う(苗栗・竹南)|岩澤侑生子の行き当たりばったり台湾旅(1)
2022年夏、台湾がゼロコロナからウィズコロナ政策に向けて動き始めたころ、修士論文の口頭試問を終えた私は、ひとり台湾鉄道に乗り込んだ。
論文のテーマは日本統治時代の台湾。審査員の先生から「資料だけを読むのではなく、自分の足を使って論文を書いてください」とアドバイスを受けて、論文の最終提出前に、過去の記憶が色濃く残る台湾を一周することにした。
日本の九州ほどの大きさの台湾は交通手段が豊富だ。電車、バス、バイク、自転車、徒歩で台湾一周する人もいる。どうやって旅しようかと、台湾の地図を開くと、台湾鉄道の駅の多さが目についた。ガイドブックによく出てくる名の知れた駅から見知らぬ駅まで、駅数はローカル線を含めて241もある。鉄道が通るところには人の営みが脈々と続いている。車窓から見える人々の生活を眺めながら、気になった場所で降りてみる。どんな出会いが待っているだろう。偶然を楽しむ途中下車の旅は、行き当たりばったりの人生を過ごしてきた自分にぴったりだと思った。
台湾鉄道本線はちょうど台湾本島をぐるり一周できるような形で路線が走っている。西側は西部幹線、東側は東部幹線、南側は南廻線の3つの区間に分かれており、その他に短いローカル線も通っている。台北駅から南下する区間車に乗り込んで、9日間の気ままな一人旅の始まりだ。
さて、意気揚々と乗車したものの、この旅の前日に留学生活を支えてくれた台湾人家族のお宅に呼ばれ、夜更けまで手厚いもてなしを受けたおかげで、あまり眠れていなかった。期待と充実感を胸に、涼しい車内で睡魔に襲われて……。
かつて「紙銭」で栄えた街へ
気が付けば台湾鉄道西部幹線の海線と山線の分岐点、竹南駅に到着していた。西部幹線はこの駅から海沿いを走る「海岸線(海線)」と山沿いを走る「台中線(山線)」に分かれる。列車が長く停車していたためにハッと目が醒めて、まぶたをこすりながら予備知識のない土地に降り立った。喉はカラカラ、お腹はペコペコ。頼りのインフォメーションセンターも開いていない。人気のない駅前にしばし立ち尽くし、無計画すぎる旅の一歩目に早くも後悔の念が押し寄せた。
ひとまず荷物をコインロッカーに預けて駅前に設置されていた公共のレンタサイクルに乗り、地図を見ずに漕ぎ出した。月曜日の正午頃。照りつける太陽の下、熱気を帯びた夏の空気が身体を包んで水分を奪っていく。それにしても人がいない。昔ヨーロッパの田舎町で過ごしたシエスタ(お昼休憩)のように街が静かだ。
少し進むと「中港陳家古厝」と記された赤煉瓦の古い建物が目についた。1937年に建てられ、2015年に修復を終えたこの閩南式建築のそばに、廟でよく見かける黄色い紙銭の束が置かれている。紙銭とは神様やご先祖様に捧げるお金のことで、参拝のときに燃やしてあの世に届ける。信仰心の厚い人々が多く住む台湾にはなくてはならないアイテムだ。中の様子が気になったので自転車を止めて門を押したが、鍵がかかっていた。
反対側の門に行ってみると「平埔道卡斯」の看板がかかっている。平埔族は台湾西部の平野に昔から住んでいた台湾原住民族の総称で、「道卡斯」は平埔族のなかのエスニックグループの一つ。日本語だと「タオカス」と読む。この呼び名は日本統治時代に台湾原住民族の研究で知られた伊能嘉矩が記録したものだ。
門が少し開いている。好奇心を抑えることができなくて、怒られるかもと思いながらおそるおそる中に入った。
敷地内に「TR」と書かれた煉瓦が積まれている。この煉瓦は日本統治時代に台湾煉瓦株式会社が製造したものだ。ちなみに煉瓦のなかでも一級品にこの「TR」が刻まれ、当時の重要な建築物に使用されたらしい。
母屋の扉を開ける。中は展示スペースで、土産物も販売している。
「どうやって入ってきたの?!」
レジ付近にいた女性が驚いて声を上げた。今日は休館日。普段は人がいないのに、たまたまスタッフミーティングがあったので門を開けていたらしい。助かった。水は売っていなかったが、子供用のアイスキャンディーを売ってもらい火照った身体を冷やす。
日本人が来ていることを聞きつけ、ボランティアスタッフの方がやってきた。展示を見ながら、この辺りの土地の歴史や建物について詳しく説明してくれる。
「ここ竹南鎮中港には古くから道卡斯族が住んでいました。明朝末期頃から漢民族が移り住むようになって、原住民族の文化と交じり合いました。日本統治時代に建てられた建造物も残されているので、様々な歴史と文化を感じることができる土地です」
「中港は、名前の通り港町だったんですか?」
スタッフの方が「番社放送紙」と書かれた紙を広げた。中港陳家古厝が発行しているチラシで、裏に古い地図が印刷されている。
「昔はここから海に出られました。早期に開発が進んだ淡水、鹿港の2つの港の間に位置するということで中港という名前がついたそうです。中国福建省泉州との直線距離が他より近いこともあって、移民や貿易で栄えた重要な場所でした」
後に泥が蓄積して海への玄関口は塞がってしまったが、日本統治時代には鉄道が通り、交通の要所となった。その頃から中港は紙銭産業で栄えた。
「街には製造所が立ち並んで、ここに住む人々は子供の頃から家の仕事を手伝っていました。製造過程のなかで紙銭を乾かすために街中が紙銭の色に染まって、その様子から『金色中港』と呼ばれるほどでした。当時、ここの広場も紙銭でびっしり埋まったそうです」
三合院づくり*の中港陳家古厝の初代屋主である陳新安も紙銭産業を営んでいた。神様や先祖と繋がるための金色の紙銭が風に揺れて、まるで海のように波打つ景色を想像した。やがて紙銭の製造は人の手から機械に取って代わり、今ではわずか2、3軒の紙銭業者が手作りでの製造を続けているという。
戦争が終わり、やがて陳家の人々はここを離れた。誰も住まなくなった中港陳家古厝は屋根が剥がれ落ち、雑草が生い茂った。ここ番社に生まれ育ち、小さいころ家業である紙銭づくりを手伝った陳保成は、荒れ果てた生家の姿に心を痛めた。60歳になった陳さんは、家族と協議を重ねて修復を決断したという。
「ここは史蹟に認定されていないので、国から修復費用が出たわけではないんです。修復が終わったあとに協会を設立して、中港の文化を伝えるために展示やイベントを行っています」
平埔道卡斯族、清朝時代、日本統治時代、そして現代。台湾の長い歴史がぎゅっと凝縮されたような場所だ。突然の訪問にも関わらず、嫌な顔一つせず説明してくれたボランティアスタッフの方々の温かさと、この土地に対する愛着を感じた。
旅の始まりにして、名言と出会う
ボランティアスタッフの方々にお礼を言って再び自転車を走らせる。つい最近、古蹟に認定された日本統治時代の病院跡が近くにあることを教えてもらったので、そこを目指す。道中、国家三級古蹟に指定されている中港慈裕宮から広がる中港老街を通る。海の女神、媽祖を祀る中港慈裕宮は1658年に建造され、長きにわたり竹南中港に住む人々の心のよりどころになっているそうだ。
日本統治時代に建てられた泉松医院跡に辿り着く。
泉松医院は1929年に建設されたバロック式の病院兼住宅で、中港老街一帯を代表する大きな病院だった。てっきり泉松は日本人の苗字かと思ったら、台湾人医師、方泉松の名前だった。
院長の方泉松医師は台湾総督府医学校を卒業し、台南病院で1年間の実習を経て、地元の竹南に戻り泉松医院を開いた。方医師は毎日熱心に診療にあたり、暴風雨のなか夜間診療に出ることも拒まなかった。マラリアなどの感染症も恐れずに人命救助を第一に考え、また、貧しくて医療費を払えなかった人からお金を取らなかったそうだ。
方医師はいつも家族に、
「生不帶來,死不帶去,不必太計較(生まれるときは何も持たず、死ぬときは何も持っていけない。だから、細かいことを気にしすぎなくていい)」※筆者訳
と話していたという。
旅の始まりにして、重厚すぎる格言と出会ってしまった。
薬膳スープで旅の疲れを癒す
到着時にまだ営業していなかった竹南駅前の食堂で滋養をとる。
この真っ黒いスープを初めて見たときはびっくりしたけれど、味は意外とさっぱりしていて、漢方の成分が疲れを癒してくれる。お店の中は清掃が行き届いていて、老闆娘(女性オーナー)が忙しそうに食材を仕込んでいる。ここは60年以上も続く老舗のお店らしい。
話しかけてみたかったけれど、コロナのこともあったので遠慮した。隣のテーブルでは若い女性2人が中国語や台湾語ではない言葉で話している。駅の近くにインドネシアやベトナムの国旗が描かれた看板があったので、そのお店のお客さんかもしれない。台湾に住んでいると東南アジアの様々な言語を耳にする。文化と文化が交じり合い、また新しい歴史が紡がれていく。
コインロッカーから荷物を取り出し、今年全線開業100周年を迎えた海岸線に乗り込む。今日の宿泊先を慌てて検索しながら、更に南下する。行き当たりばったりの旅は始まったばかりだ。
>>>次回に続く
文・写真=岩澤侑生子
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