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民藝運動の父・柳宗悦と京都の手仕事

偉人たちが綴った随筆、紀行を通してかつての京都に思いを馳せ、その魅力をお伝えする連載「偉人たちの見た京都」。第8回は日本の職人たちの手仕事、「民藝」を世に広めた柳宗悦の『手仕事の日本』です。お寺の町であることから、仏具店をはじめ、家具店などが多い京都。そこで柳が見つけた、真に美しいものとは――。

 民藝運動の提唱者として知られる美術評論家・宗教哲学者のやなぎ宗悦むねよし(1889~1961)は、生涯を旅に生きた人でもありました。1916年の朝鮮・中国への旅に始まり、晩年に至るまで精力的に日本中を歩きました。

柳宗悦肖像写真2

柳宗悦肖像写真 1954年 日本民藝館

 1924年1月、34歳の柳は山梨県甲府で偶然、木喰仏もくじきぶつと出会います。木喰仏とは江戸時代後期の僧・木喰上人によって彫られた木彫仏のこと。この仏像に心を奪われた柳は、同年8月の佐渡を皮切りに、栃木、静岡、新潟、九州、四国、京都、長野など、約3年にわたって全国をめぐります。

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柔和な笑みが魅力の木喰仏 写真提供:清源寺

 実はこの一連の旅こそ、柳が「民藝」「手仕事の日本」を発見する旅となりました。行く先々で民衆が日常的に用いている道具の素朴な美しさに気がついたのです。1925年12月、調査のために訪れた和歌山で、柳はそれらの呼称として「民衆的工藝」すなわち「民藝」という新語を造り出しました。

 1948年、柳は20年近くの見聞をふまえ、青少年に向けて民藝品の美しさ、日本の手仕事の素晴らしさを平易に伝えるため一冊の本を上梓しました。それが『手仕事の日本』です。彼の著作物の中で最も多く読まれているものと言われ、現在でも版を重ねています。

 この本の中で、京都の手仕事はどのように紹介されているのでしょうか。織物、焼物、漆器、人形、染物、組紐、表具などの工芸に触れた後、柳は次のように語りかけます。

京都は名にし負うお寺の町であります。二千カ寺もあると聞きます。ほとんどすべての大本山がここに集まります。浄土宗の知恩院や百万遍、真言宗の東寺や智積院ちしゃくいん、真宗の両本願寺、禅宗の南禅寺や妙心寺や大徳寺、時宗の歓喜光寺かんきこうじ、天台宗の妙法院や延暦寺。加うるに由緒の深い寺刹じさつがどれだけあるでありましょうか。従ってそれらのお寺や信心にあつ在家ざいけで用いる仏具の類や数は並々ならぬものでありましょう。慨していいますと、江戸時代は仏教藝術の末期で、見るべきものが少なく、仏具もその影響を受けて、いたずらに装飾を過ごしました。門徒宗のお厨子ずしのごときは贅を尽したものが作られました。

しかし数ある仏具の中には簡素で健実なものがないわけではありません。真鍮製の燭台だとか仏飯器ぶっぱんきなどには雄大な感じさえするものを見かけます。あるいは漆器の経机きょうづくえや経箱、過去帳、または応量器おうりょうきだとか香炉台だとか、あるいはまた過去帳台とか位牌だとかに、しばしば優れた形や塗のものに廻り会います。いつも伝灯の深さが後に控えます。

 寺の町である京都には多くの寺院があり、その信徒たちも大勢住んでいます。そこで用いられる仏具は膨大な数があり、その質も高いと推察できます。しかし、柳は装飾過多な品は見るべき価値はないとします。むしろ、真鍮製の燭台やご飯をお供えするための器、読経の際に経典をのせる漆塗りの机、僧が食事をする際に使用する応量器などに美を見出しています。

中で興味深いものの一つは木魚もくぎょでありましょう。よく「玉鱗ぎょくりん」という文字が彫ってあるのを見ると、元来は支那から来たものでしょうが、今は和風になって色々な形のを作ります。向かい合う魚頭や魚鱗を彫りますが、あまり手の込み入ったものはかえって面白くありません、白木でも朱塗でも作ります。大型のを作る様などは見ものであります。胴のうつろを巧みに彫りぬきます 。

法事に用いる蝋燭ろうそくも見事なのがあります。特に赤蝋燭は美しく、上にやや開く形は姿を一段と立派にさせます。この蝋燭には二つの興味深い道具が添えられます。いずれも真鍮細工で一つは芯切鋏しんきりばさみであり一つは芯切壺しんきりつぼであります。両方とも真に美しい形のを見受けますが、特に鋏は先が四弁の花形をしたものがあって、見ただけでも使いたい心をそそります。

 木魚も胴に手の込んだ図柄を彫り込んだものは面白くないとします。シンプルな姿が一番なのでしょう。蝋燭に関連して、真鍮細工の芯切鋏、芯切壺という道具に注目します。特に芯切鋏の先にある花弁の形の美しさには心をそそられました。日本民藝館には先端が花弁の形をした芯切鋏も収蔵されています。

WEB用芯切鋏グリッド調整済

芯切鋏 真鍮 京都 昭和時代 1920~30年代 日本民藝館蔵

私はここで老舗鳩居堂きゅうきょどうなどがひさぐ香墨などのことも言い添えるべきでありましょう。筆、紙、硯、墨を文房の四友といいますが、これもわれわれの生活に交ることの深いものだけに、それぞれに技を示します。中でも筆と墨とにおいて京都は今も客を引きます。

 京都鳩居堂は香・書画用品・和紙製品の老舗専門店として全国的に有名です。江戸時代の1663(寛文3)年に寺町の本能寺門前に薬種商として創業。その後、香、筆、墨などの製造を行うようになりました。現在も、寺町通に面して店舗を構え営業を続けています。

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京都鳩居堂

木工具の領域を見ますと、京都出来のもので心を惹くのは「水屋」と呼ぶ置戸棚で、好んで勝手許かってもとで用います。形に他にない特色があり、洋式の模倣品よりどんなによいかしれません。もっともこれは関西の式といってもよく、大津や大阪あたりまで見られます。引戸や小引出の多いもので、しばしばその横桟には透彫を施します。つい先日までは鉄金具の引手で、ほとんど円形に近い肉太のものがありました。これらの棚や箪笥類をひさぐのは夷川えびすがわで、全町家具の通りであります。

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夷川通り

 夷川えびすがわ通りは京都市内を東西に走る通りで、南の二条通りと北の竹屋町通りの間にあります。この通りの烏丸通りから寺町通りの間は、柳の文章にあるような家具・建具屋街として、今も健在です。烏丸通りに接する夷川通りの入り口には「家具の夷川furniture St」と記した大きなサイン看板も立っています。

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京都は金物の技もよいとされます。刃物や鋏の類がよく、花鋏のごとき古流、池の坊、遠州流とそれぞれに特色ある形を示します。よい品になると、日本の鋏類の中でもとりわけ立派なものといえましょう。もとより銅器も鉄器も、色々にできます 。龍文堂のごとき鉄瓶や釜で名を得た老舗もあります。煙管きせるごときも京出来を誇ります。

 文中に出てくる龍文堂は江戸時代から昭和30年代まで存在していた鉄瓶てつびん鋳造ちゅうぞうの老舗です。戦前は高級ブランドとして知られ、夏目漱石の『吾輩は猫である』の一節にも登場していました。昔から梵鐘ぼんしょう擬宝珠ぎぼしといった社寺仏閣にまつわる品や茶の湯釜等の鋳造が盛んだった京都には高い鋳造技術があったと思われます。ちなみに、京都市内には釜座かまんざ通という名の通りが残っています。

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こういう風に挙げてくると、女の黄楊櫛つげぐしから、さては菓子型の類、庭をー掃く椋欄帚しゅろぼうきなどに至るまで、仕事のよいのを色々と拾うことができます。京都は今も手仕事の都といわねばなりません。

 柳宗悦は東京生まれ。家は華族ではありませんでしたが、父・楢悦ならよしが海軍少将まで務めていたため学習院に進学。1910年に学習院の学友だった志賀直哉、武者小路実篤らと文芸雑誌『白樺』を創刊、同人となります。

 柳は英国から来日した2歳年上の陶芸家・バーナード・リーチと交遊、さらにリーチの縁で濱田庄司(陶芸家)、濱田を介して河井寛次郎(陶芸家)とも親交を結びます。この人間関係が後の「民藝運動」につながっていくことになり、民藝運動が「友情」の運動と呼ばれる一因もここにあるわけです。

『手仕事の日本』という本は名もなき職人たちの手仕事、「民藝」が輝きを放っていたひとつの時代の証言でもあります。柳はこの本の「前書」で次のように記しています。彼の声が聞こえてくるようです。

地方に旅をなさる時があったら、この本を鞄の一隅に入れて下さい。貴方がたの旅の良い友達になるでありましょう。

出典:柳宗悦『手仕事の日本

文・写真 藤岡比左志 

藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。

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