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台湾に架かる希望の虹|寒露~霜降|旅に効く、台湾ごよみ(24)

旅に効く、台湾ごよみは、季節の暦(二十四節気)に準じて、暮らしにとけこんだ行事や風習などを現地在住の作家・栖来すみきひかりさんが紹介。より彩り豊かな台湾の旅へと誘います。最終回となる今回は、台湾と日本の複雑な歴史を紐解きつつ、レインボーカラーの旗のもとに集うプライドパレードの背景と希望について綴っていただきました。

ザビエルが見た十字架を背負うカニ

10月に入ると東北から吹き始める季節風「東北風タンパッホン」は、台湾各地にさまざまな気象をもたらす。北西部の新竹では「九降風カウカンホン」と呼ばれるからっ風が名産の干し柿やビーフンに吹きつける。台湾最南端の屏東恒春では、「落山風ルオスァンホン」という強い風が吹き始める。3~4千メートル級の中央山脈から、季節風が滑り台を降りるようにやってくるのだ。あまりに強い風のため、恒春では昔から目を病む人が多かったという。

海上を渡ってきた東北風は湿り気を帯び、基隆にじとじととした「基隆雨ケエランホオ」を連れて来る。ワタリガニのシーズンも到来し、基隆の友人が「そろそろ蟹の美味しい季節だよ!基隆に遊びにおいで」と連絡をくれる。

特に知られているのが「花蟹」、歌舞伎や京劇の隈取りを施したような柄の蟹で、日本ではシマイシガニという。特に甲羅のまん中に十字があるのが特徴で、十字蟹、キリスト蟹と呼ぶ地域もあるらしい。実はこの蟹の十字にはこんな逸話がある。

日本に初めてキリスト教を伝えたスペインのフランシスコ・ザビエルは、インド南部への布教の際、海の時化に巻き込まれる。荒れ狂う波のなか、ザビエルは船の上から十字架を海に向けて嵐が静まるよう祈るが、十字架の鎖がちぎれて海に落ちてしまう。その後、嵐は収まりザビエルはとある海岸に上陸する。凪いだ波の打ち寄せる浜辺でザビエルが見たのは、背中に十字架の模様を背負って歩いている蟹であった。ザビエルは感謝し、膝をついて蟹の甲羅に口づけしたという。

「霧社事件」が織りなす複雑な紋様

10月27日は、霧社事件が起こった日だ。

霧社地区に暮らすセデック(Seediq/Sediq/Sejiq)は、以前はタイヤル族の一部として統治者に「分類」されてきたが、2008年にその文化の独自性が認められ、台湾政府から第14番目の台湾原住民族(原住民は台湾における先住民の正式名称)として認定された。

伝説では、中央山脈のクププ山に生えている「プスクフニ」という大木の生えた岩石から男女二神が出現し、その後多数の子神が生まれた。しかし数が増えて土地が狭くなり、子孫たちは粟を植えることのできる土地を求め、トルク(Truku)・トウダ(Toda)・トグダヤ(Tgdaya)の3系統に分かれていったという。3系統の集落はそれぞれ、ときにはテリトリーをめぐって争うことはあったものの、祭りや儀式、タブー、顔の入れ墨などの習慣や戒律を規範する先祖代々の掟「ガヤ(Gaya)」を共有し、秩序ある共生を保ってきた。

このセデックの人々が、1930年~1931年の日本統治時代に起こった霧社事件の主役である。当時の呼び名は「セイダッカ」。日本に同化を強いられながら差別を受けていた不満が爆発、トグダヤ系統の6つの部落が結託して武装蜂起し、運動会をしていた小学校や派出所、駐在所を襲って日本人を中心に130人以上を惨殺した。日本軍はその報復として、敵対する集落から「味方蕃」と呼ばれる動員をかけ、空爆や山砲、最終的には化学兵器まで導入し、蜂起側を壊滅に追い込んだ。

日本が台湾を植民地としていた時代、台湾総督府の原住民族への囲い込みは、電気の通った鉄条網をはりめぐらせ、塩などの食料品や生活必需品を断ち飢えさて範囲を狭めていく残酷なもので、降伏した部落を「味方蕃」として他の「敵蕃」と戦わせた。この戦略を「蕃をもって蕃を制す」という。

そもそも1903年に、日本軍の計略により100名以上のセデック族を宴会に誘いこんだブヌン族の人々が、酔っ払った所に奇襲攻撃を仕掛け数人を残して皆殺し、激烈な仇敵の感情を遺したことがあった(姉妹が原事件)。以後も日本の総督府はたびたび、こうした部族間の感情を利用し、ついには霧社事件へと発展する。

霧社事件勃発後、日本の総督府は報復のため同じセデック族のトウダ(Toda)を「味方蕃」にし、蜂起側のトグダヤ(Tgdaya)を狩らせたあと、生存者の収容所を襲わせてさらに200名以上を殺害させた(第二次霧社事件)。また事件の後、蜂起側を川中島(清流部落)に収容し、彼らのもともとの土地はトウダの人々に与えた。川中島に強制移住させられた蜂起側6部落の人々は、拷問・殺害、マラリアで亡くなるひとも少なくなく、人数は6分の1まで減ってしまう。

またその後、太平洋戦争では20名以上の若者が「高砂義勇軍」として南方に赴き、半分以上が戦死した。一族の汚名を晴らす、そんな想いで義勇軍に参加した青年も少なくなかったろう。川中島の奥の方、山のそばにある共同墓地には南方に送られたまま帰らなかった青年のための小さな墓がある。石を積んだ質素なもので、一族を霧社事件で失い、また戦争で子供を失ったお父さんの建てたものらしかった。

第二次大戦後、日本が敗戦して台湾から去り、中華民国国民党の時代にはいると、蜂起側のリーダーだったモナ・ルダオは「抗日」の国家的英雄として祭りあげられ、同じ敵(日本)と勇敢に戦ったという国民党の宣伝に利用された。余りにも悲しく不名誉な出来事として記憶されていた霧社事件において、自分たちが「英雄」の子孫であるという物語は少なくない希望と誇りを蜂起側のトグダヤの人々にもたらした。

しかし逆に、日本の「味方蕃」として戦い、トグダヤの土地を得たトウダの人々は「民族の裏切り者」という汚名を着せられてしまう。映画『セデック・バレ』で再び日本でも知られるようになった霧社事件だが、日本時代から長い時間をかけて積み重ねられてきた分断と遺恨が、いま現在にいたってもセデックの人々の心に重くのしかかっていることは、余り知られていない。

もうひとつ、日本人とセデック族の関わりとして余り知られていない事に、キリスト教伝道者であり「原住民医療の父」と呼ばれる井上伊之助の話がある。井上は高知県生まれ。神学校在学中に、台湾花蓮で樟脳工場の技術者として働いていた父親が、タロコ族(セデック族とルーツを同じくする)との労働紛争で出草(首狩り)に遭い亡くなった。

井上は、信仰によって父の死への怒りと悲しみに立ち向かうため、台湾の山地で公医として医療を施しながら伝道をはじめる。霧社事件のあと、トグダヤの生存者のマラリアを治療するために川中島へとやってきた井上は、政府から「事件参加者を毒薬で殺せ」と要求されるが、きっぱりとそれを拒否した。井上伊之助の信仰と愛による献身は、セデック族をはじめ原住民部落の中で広く知られているという。

「原住民が武装蜂起して多くの日本人を殺し、日本は徹底的に報復した」

そう単純に語られがちな霧社事件だが、知れば知るほどに複雑な紋様がくみあわさった繊細な織りものを眺めるようで、「誰から」「どんなふうに」歴史を見るかでその様相は全く異なってくることに改めて思い至る。

希望の虹が架かった日

ところで、セデック族には死んだ後に虹の橋を渡って祖霊のもとに帰っていくという言い伝えがある。虹といえば、毎年10月の最終土曜日(今年は29日)に台北で行われるのが、東アジア最大規模のプライドパレード「台湾同志遊行」だ。街中にレインボーの旗がはためき、わたしも毎年どこかの区間を歩きに通っている。台湾は2019年にアジアで初めて同性婚を法で認める国となったこともあり、約20万人が参加するほどの盛り上がりを見せる。

じつは、30年以上続いてきた台湾の同性婚運動が実を結ぶのを後押しした悲しい出来事がある。2016年の10月16日、台湾大学で長年フランス語を教えていたフランス人教師、畢安生(Jacques Picoux)さんが、自宅のアパートから飛び降り67歳で自ら命を絶ったのだ。

原因は、35年連れ添った同性のパートナーを前年に癌で失くしたことだった。当時、癌の末期にあったパートナーは延命措置をしないよう希望し、畢安生さんもそれをよく理解していたが、畢安生さんを除く家族の決定により延命措置が施され、畢安生さんはパートナーの希望を叶える術を持たなかったばかりか最期に立ち会うことさえできなかった。加えて35年もの長いあいだパートナーと築いてきた財産を相続することも叶わず、畢安生さんは絶望のどん底に追いやられた。

俳優でもあり、映画人らとも親交の深かった畢安生さんの死はマスコミに大きく取り上げられた。そこから同性婚法制化についての議論が再び高まり、2019年の同性婚に関する特別法が施行されるにいたる。それ以降は、多くのカップルが登記し周囲に祝福されて結婚している。

大きな犠牲を払いながら、少しずつ前に進もうとする台湾社会。2019年のあの日、日本の国会に当たる立法院で特別法が成立した日のことは忘れない。朝から降り続いていた雨が止み、代わりに涙がその知らせを待っていた人々の顔を濡らして、見上げた空には虹がかかっていたのだ。

文・絵=栖来ひかり

<参考図書>
セエデク民族』シヤツ・ナブ〈Siyac Nabu〉著(台灣東亞歴史資源交流協會)
台湾同性婚法の誕生――アジアLGBTQ+燈台への歴程』鈴木賢 著(日本評論社)

『旅に効く、台湾ごよみ』は今回をもって最終回となります。二十四節気七十二候×2年のあいだお付き合いいただき本当に有難うございました。どうぞ新連載でも宜しくお願いします。(栖来ひかり)

栖来ひかり
台湾在住の文筆家・道草者。1976年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。台湾に暮らす日日旅の如く新鮮なまなざしを持って、失われていく風景や忘れられた記憶を見つめ、掘り起こし、重層的な台湾の魅力を伝える。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(2017年、西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路~記憶のワンダーランドへようこそ』(2019年、図書出版ヘウレーカ)。

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