港町の飾らぬ人々が織りなすひととき(仙崎・JR山陰本線)|終着駅に行ってきました#11
「おいしかったです」
中学生のその言葉に、それまで仏頂面しか見せなかった居酒屋の大将が、なんとも嬉しそうな笑顔をこぼした。隣で女将が、またおいで、と語りかけて、夜更けの長門市駅前の居酒屋が、やさしい空気に包まれた。
今回の旅は、中学を卒業したばかりのわが息子を連れてきた。終着駅の旅で、仙崎に行くことが決まり、軽い気持ちで「君も行くか?」と尋ねたら、「行きたい」と返してきたのである。
「誘っといてなんだけど、意外だな」
「一度、ミハラさんにも会いたいしさ」
「仕事だからそれぞれ勝手に動くし、つまらないかもよ」
「大丈夫、邪魔しない。仙崎でも適当にやる」
あと、やくもに乗りたいし、ものすごい早口で息子はそう言うと、もう一度、自分は適当にやるからさ、と言い添えた。
幼い頃は、一緒に鈍行列車の旅をしてきた息子だが、成長するにつれ、次第にひとりか友人とで旅に出るようになっていた。自分もそうだったしな、と理解したつもりでいた。だが、春から彼は、岡山にある我が家を出て、首都圏にある高校で寮生活を始めることを決めていた。一緒の時間を過ごす機会は、大きく減るだろう。仙崎に誘ったのは、そんな息子との旅を少しでも味わっておきたいという気持ちがあった。熱烈な「乗り鉄」の息子が、置き換えが決まった国鉄時代からの振り子式車両の特急に乗っておきたいという思いも、手に取るように分かった。
「俺は別にいいよ。連れといで」
ミハラさんに聞いてみると、いつものようにこだわりなく了解してきた。ならば、と息子と連れ立っての旅と相なったのである。
* * *
終着駅の旅に出るのは久しぶりだった。
縁あってこの連載をはじめることとなり、それらは昨年の初夏に単行本となった。連載もそこでひと区切り着いた形だったが、『ほんのひととき』の編集長氏は、続けてもよろしい。新たに作品ができたら持ってきなさい、と言うのである。
望外の喜ばしい話だったが、しばらく書くことを止めていた。作家ぶって勿体つけるつもりはないが、書けなかったのである。
言い訳だったら、たちまち100個くらい出てくるが、原因はひとつである。僕がお酒を呑むことをやめたからである。「終着駅に行ってちょっと一杯」がテーマの文章で、アルコールなしというわけにもいかないだろう、という話だ。
自分の意思でやめたのだから、「終着駅の旅に限っては、お酒も可」とすることもできた。だが、昨年、2回ほど終着駅を訪れた際には、自分が呑むことで、今より楽しくなるイメージが全く湧いてこなかった。旅が楽しくないなんて、書く書かない以前の問題である。
言うまでもなく、お酒にも、お酒を呑む人にもネガティブな感情は持っていない。僕自身に限っていえば、酒場で呑まずに、友人や知人と過ごすことは、苦にならない。だが、とにかく、純粋に個人的な理由で、作品の根幹に関わる部分を変えてもいいのかしらん、と考えると、なかなか書く気が起きなかったのである。
この件に関して、ミハラさんは、ひとつも意見を言わなかった。
「まあ、キミが書きたくなったら書きなよ」
コロナ禍の中、用心しいしい一緒の旅にも出ている。当然、彼も連載を再開したいはずだし、言いたいことがないわけなかろう。だが、普段はああしろこうしろと、箸の上げ下ろしにまで口を挟んでくるミハラさんは、いつだって一番大事なことは口にしない。
結局、僕が何をしたいか、なのである。
終着駅を訪れ、その先に広がる町を歩き、そこに住む人たちの話を聞く。そこでしか味わえないものをいただきつつ、一見の旅人として過ごしていると、ふと、人の暮らしに通底するような「よきもの」の姿が見えるように感じる時がある。
僕にとっては、奇跡のようなひとときである。
終着駅に行けば、旅に出れば、体感できるものではないだろう。そも旅先でもある種の紀行番組のように無理に「いい話」を聞き出すことはしていない。もちろん、よそ者の特権を生かして、幾分か積極的に話しかけてはいる。だが、あらゆる意味で、誰でも聞けるような話しか聞いていない。
それでもなお「ミハラさんと旅して、酒場に寄ること」で、僕は、この地で、この人に話を聞けてよかったと感じたことが、何度も、何度もあった。終着駅のある町でのひとときを描き出すことは、僕にとって、自分自身に、そして口はばったいが、読んでくださる方々に送るエールにほかならなかった。
なるほど、僕は、この旅行記を書き続けたいんだな。
理屈抜きの本音だった。そして「僕がお酒を呑むこと」は、少なくとも僕が書くことにおいての絶対的な条件ではなかった。
ならば、それでやってみようじゃないか、と腹を決めた。
もし、訪れた酒場で、僕が呑まないことで、しみじみとしたひとときとならず、ミハラさんや酒場にいる人たちに迷惑がかかるようだったら、仕方ない。改めていい方法を考えようじゃないか。あれこれ思い悩んだものの、何のことはない。結局「出たとこ勝負」に落ち着いたわけである。
ミハラさんが、そろそろ旅に行こうよ、仙崎がいいな、と誘ってきたのは、まさに、僕がその心持ちになったタイミングだった。
* * *
ディーゼルカーの車窓からは、先ほどから日本海が現れては消えてを繰り返している。
朝はやくに岡山を出て、5時間強。息子念願の特急を乗り継いで、益田で鈍行に乗り換えた。古めかしい単行列車は、勇ましいエンジン音には似つかわしくない悠然たる速度で、日本海沿いのわずかな平地を縫うように走る。
開けた窓から心地よく風が流れ込んでくる。それまで乗ってきた特急も、乗り心地から車内設備に至るまで古色蒼然とはしていたものの、優等列車たる「よそ行き」感があった。ぬくもりのある風に当たりながら、左右に揺られていると、旅に出たという実感が、ようやく体の隅々にまで行き渡った気分になった。
小さな駅で、それまで窓の外を凝視して歓声を上げていたふたりの男の子が、母親に手をひかれて降りてからは、車内もエンジン音と線路のジョイント音ばかりが聞こえるようになった。
わが息子は、窓の外をぼんやり眺めている。彼がまだ小さかった頃、家族でこの近辺まで遊びに来たことがあった。行き先も決めず、山陰本線に沿うように西へと進んで、益田で泊まった。翌朝、さらに西へと進み、偶然見つけた海岸で子どもたちを遊ばせていると、沖合にイルカがやってきた。
わが子らの喜びようを思い返しながら、確かこの辺りだったと車窓を見ていると、特徴あるシルエットの岩場が目に入ってきた。頂上に鳥居が据えられた岩の下に、砂浜が記憶と寸分違わず広がっていた。そして、あの時の僕たちと同じような構成の家族が、あの時の僕たちと同じように海を眺めていた。
あれは自分じゃないか。一瞬、走馬灯を見ている気分になって、海に目を向けたが、晴れた空のもとに広がる日本海は、どこまでも穏やかに波を立てているだけだった。
* * *
仙崎支線の起点、長門市駅に到着したのは、午後もずいぶんと回った時間だった。
仙崎駅行きの列車が出るまで1時間以上あった。途中駅はなく、距離にしてわずか2.2kmである。歩いても行けるが、終着駅との初邂逅は列車から降り立って、が理想である。ひとまず駅舎を出て、長い跨線橋を渡って宿に荷物を置いてから、再び駅前に戻ってきた。人影まばらなロータリーを見渡していると、道の向こうに、先乗りしていたミハラさんがいた。半年前に富士山麓の終着駅に行って以来である。うれしくなって手を挙げたが、ミハラさんは、広大なヤードに鋭くカメラを向けていて、こちらに気づく気配はない。
そうだった、ミハラさんとの旅はいつもこんな感じだったと思い出した。それぞれが自分のやりたいことをやって、酒場で一緒になるのである。感覚を取り戻した僕も、駅前の土産屋に入って、仙崎名物のかまぼこなぞを買い求めたのである。
店主としばらく話をしてから、店を出たところで、ようやくミハラさんと鉢合わせた。
「久しぶりです」
「息子くんは?」
そういえば一緒に来ていた、と思い出した。
探すことしばし、息子は駅のホームで、列車の写真を撮っていた。宣言通り、ひとりで旅を楽しんでいるようである。だだ、いつまでも放っておくわけにいかないだろう。少し早めだったが駅に入って、ミハラさんと引き合わせることにした。
「あ、はじめまして。ミハラさんですね」
「うん、はじめまして」
「終着駅の写真、拝見しています。味がありますね」
たちまちミハラさんの顔がほころんだ。家では気遣い皆無で日がな動画を見ている息子とは思えぬ如才ないひとことで、一気に距離を近づけたふたりは、たちまち鉄道談義に花を咲かせ出した。その様子を見ながら、僕はホームに滑り込んできた仙崎行きのディーゼルカーに乗り込んだ。
* * *
仙崎支線の道中は、拍子抜けするほど淡白だった。
ステンレス製の単行列車は、長門市駅を出発すると、軽やかなエンジン音でヤードの端を通り抜け、左に曲がって山陰本線と別れた。線路ぎわまで住宅が迫る中、今度は、大きく右へ曲がるともう仙崎駅である。わずか数分、目を引くような風景もない。
だが、仙崎駅のたっぷりとスペースをとったホームは、貫禄があった。戦後しばらくは、仙崎港で水揚げされた鮮魚の行商を営む女性たちで溢れかえっていたという。カンカン部隊と呼ばれた彼女たちは、ここから鉄道に乗って、各地へと向かったのである。
仙崎駅は、1930(昭和5)年に開業した。当初は、石炭や石灰石の輸送が盛んだった国鉄美禰線(現JR美祢線)の正明市駅(現長門市駅)から伸びる貨物支線の終着駅という位置づけだった。3年後、山陰本線が全通したことを機に同線の支線に組み込まれて、旅客輸送も始めるようになる。
駅のある仙崎は、日本海に突き出した岬にある港町だ。明治期には当地の企業が日本初の近代式捕鯨の操業を始めるなど、日本海側有数の漁港の町として隆盛を極めた。仙崎港は、戦後、海外に残された日本人を帰国させるための引揚港にも指定された。駅のギャラリースペースで開催されていた「引揚港 仙崎」展の解説によれば、人口9,000人あまりの仙崎の町に、1年間で、海外からの引揚者約41万人と、帰国する在留朝鮮人約34万人がやってきて港を利用したという。
港町として、賑わいを見せてきた仙崎の町だが、昭和30年代を境に人口が減りはじめる。人口減少の波は止まることなく、2010年には終戦時の半分以下の約4,300人となった。カンカン部隊もいつしか姿を消し、漁業生産額も2006年からの4年間で3割以上減少している。町の状態に合わせるように、仙崎駅を発着する列車も減っていき、1970年代には約20往復あったのが、今では定期運行は6往復のみとなっている。
* * *
ギャラリーを見学しているうちに、折り返しの列車が出発した。ベンチに座ってだべっていた学生たちも、やがてやってきた迎えのクルマに乗っていき、駅前には、まるで人影がなくなった。少し前から雲も出てきた。日が落ちる前に、少しでも町を見ておきたい。18時2分の終列車まで自由行動と決めて、おのおの駅を出た。
ロータリーの先に「みすゞ通り」と名付けられた、町のメインストリートがまっすぐ伸びている。みすゞとは言わずと知れた童謡詩人、金子みすゞである。大正時代に彗星の如く登場し、いったんは歴史に埋もれかけたが、近年再び脚光を浴びるようになっている。東日本大震災直後のテレビ番組で流れたACジャパンのCMで朗読された『こだまでしょうか』の作者といえば、知っている方も多いだろうか。
彼女は、子ども時代を仙崎で暮らしており、町を舞台とした作品も多く残している。道端の看板の説明によると、金子みすゞが子ども時代を過ごした実家を改装した記念館が通り沿いにあり、観光客向けの店も周辺にいくつかあるようである。
だが、通りを歩くと、両脇に並ぶ店のほとんどが閉まっていた。歩く人もまばらだ。とっかかりを見つけられない。仕方なく、海を見ようと港の方へ回ると、洒落たデザインの道の駅があった。センザキッチンと名付けられたそこは、同じ「駅」でも、仙崎駅よりはるかに賑わっていた。鉄道びいきとしては複雑な気分もあったが、寄らない手はない。併設された観光案内所に入ってみた。
応対してくれた女性は、パンフレットを持ち出して、沖合の青海島をめぐるクルーズなど、いくつかの観光ルートを教えてくれた。言うまでもなく、彼女はとても親切だった。だが、あくまで「観光」のための案内所だった。我々が夜を過ごすための地元の居酒屋については、自分の足で調べることに決めた。
「うーん、私は見たことないですねえ」
話の終わりに、ふと思いついて、イルカの話をしたら、そんな答えが返ってきた。隣にいた女性も交えての話を総合すると、どうやら、野生のイルカに会えるのは、ローカルテレビのニュースになるくらいには珍しい出来事らしい。
「ご覧になったんですか、それは貴重な体験ですね」
笑顔の彼女たちに見送られながら、僕はもう一度、みすゞ通りに戻った。
* * *
通りは、開いている店も、歩く人も、ますます少なくなっていた。時計をみると、終列車の時間が迫っている。明日また来よう、ときびすを返すタイミングで本屋を見つけた。
店内には誰もいなかったが、あかりはついている。扉も開いた。まだやっているんだろうと判断して中に入った。雑誌や単行本の棚をぶらぶら眺めていると、奥に郷土史のコーナーを見つけた。
旅先に限らず、個人経営の書店を見つけると、つとめて入るようにしている。品揃えに店主の思いが反映されていることが多いからだ。絶妙なセレクトの本棚をつらつらと眺めていると、店主たちと会話をしているような気にすらなることがある。本好きとしてはそれが楽しい。
仙崎の書店の『郷土コーナー』も、いい本屋さん特有の「分かっている」品揃えだった。見ていると、店主の本と郷土への思いが浮かび上がってくるのである。金子みすゞの童謡集が何冊か並べられていた。手にとってぱらぱらと読んでみて、自分が、彼女の作品集をまだ持っていなかったことに気づいた。
奥に声をかけると、店主と思しき白髪の男性がふらりと出てきた。何冊かの本を買うことにして、会計をしているとき、初めて金子みすゞの本を購入する旨を告げると、店主は、うんうんとうなずいた。
「いくつになっても、遅いなんてことはありませんから。いい作品は、いつ読み始めても、その時だからこそ、得られるものがあると思います」
彼で三代目だという書店の成り立ちには、同じく書店を営んでいた金子みすゞの家とも深く関係があったという。創業者である彼の祖母は、少女時代のみすゞ嬢も知っていたそうだ。
「当時はね、町は随分賑やかだったようです。この通り、クルマがすれ違えないくらい狭いでしょ。でも、私が生まれるくらいまでは、乗り合いのバスまで走っていたらしいんですよ。私の若い頃も、大勢、人が行き交ってたなあ」
店主は、そう振り返ると、昭和歌謡の名作詞家、大津あきらが生まれ育った地でもある、と話をついだ。確かに、仙崎駅にも彼の作品の数々が展示されていた。
「ここには、芸術家が育つような土壌があるんですかね」
「確かに、人が多くて、海や山の豊かな自然もあるっていう環境が、歴史に残る芸術家たちを育んだ面はあると思いますよ。それに、山口、長州って広げると、芸術家だけじゃなくて、歴史上の偉人を大勢輩出しているでしょ。おっしゃる通り、なんか、風土的なものがあるんでしょうね。郷土びいきになっちゃいますけど」
本棚の充実ぶりと、話の展開の滑らさに興味が湧いてきて、もしかしてご主人、郷土史の著作とかおありなんですか、と問うと、いやあ、私はここでひっそり本屋をやってきただけです、でもね、いいところですよ仙崎は、と、はじめて笑顔を見せてくれた。
* * *
外に出ると、うす暮れの中、息子が歩いているところに鉢合わせた。金子みすゞ記念館を閉館まで見学してから、町を歩いていたという。
「いい町だね。懐かしい感じがする。金子みすゞの作品もすごく、いい」
書店の店主と夜通し語り明かせるんじゃないか、と思わせる渋い感想を述べる彼と、急ぎ足で仙崎駅に戻ると、ミハラさんが待っていた。その背後には、ディーゼルカーがエンジンを唸らせて止まっている。
「どうしようか?」
町で目についた飲食店は、ほとんど閉まっていた。長門市駅に戻った方が一杯飲める店が多いだろう。だが、もう少し、この町を歩きながら、探してみたい気分だった。
「そうしてみようよ。長門市駅はタクシーでも戻れるし」
ミハラさんが同意し、息子もうなずき、終列車が出発して行った。
スムーズな意思疎通に幸先の良さを感じて、駅舎を出たとたんに、雨がぱらついてきた。小雨だし、と構わずに歩きだしたが、次第に本降りになってきた。上着のフードを被ればしのげる程度ではあるが、そぞろ歩くのは難しい。慌てて、スマートフォンで調べると、海沿いの街道に焼肉屋があった。
「ひとまず行ってみましょう。ダメだったら、その時、考えましょう」
得意の出たとこ勝負を提案し、写真談義を始めたミハラさんと息子の尻を叩くようにして、せかせかと海沿いの道に出た。
視界が広がった先の空には、雲の合間から差し込む夕日が、幻想的な風景をつくり出していた。ミハラさんが、おしゃべりをやめて、やおらカメラを取り出し「ちょっと撮ってくるわ」と浜辺に降りていく。そのプロっぽい姿を憧れの目で見ていた息子も我に返ると、カメラを構えてばたばたと追いかけていった。
しばらく待っていたが、撮影が終わる気配はなかった。天気雨は降りやまない。待っているわけにもいかないので、僕はひとり、焼肉屋に向かい、開いていることを確認し、店の人に声をかけて席をとり、ちょっと待っててください、とお願いして、顔を寄せ合って話しながらのんびりやってくるふたりを、店の前で待っていた。まさにパシリの風情である。
ひとり気を揉んで入った焼肉屋は、店の人にゆったりと話を聞くようなつくりではなかった。今さら無理はしたくない。しっぽりした居酒屋は長門市駅前に戻ってから探すことに決めて、僕は、食事に専念することにした。
夕焼け空の撮影を経て、ミハラさんと息子の間には『ベスト・キッド』のごとき緊密な師弟関係ができていた。
「俺、今回の帰りは出雲市からサンライズに乗る予定なんだ。寝台列車、好きだからさ」
「いいですねえ。ミハラさん、昔の夜行列車には乗ったんですか」
「うん、結構乗った。学生の頃には、北海道0泊10日旅行とかやったんだよ」
「なんですかそれ」
「ホテルに泊まるお金を節約するために、夜行列車か、そうじゃなければ駅の構内で夜を過ごしたんだ」
「大変そうですねえ」
「夜行も寝台車じゃなくて座席車ね」
「うわあ、すごいなあ」
混じりっけなしの敬意を向ける息子に、ミハラさんは再び顔をほころばせ、好きなものを食べなさいと鷹揚に告げ、息子は、お礼もそこそこに、メニュー表の一番上に書かれた特上カルビと特上タン塩を鋭く注文する。流れるような一連のやりとりを眺めながら食べる焼肉は、なかなかにおいしかった。
* * *
「終列車の時間、早いでしょ」
焼肉屋で呼んでもらったタクシーの運転手氏は、饒舌だった。全国の終着駅を訪れているのだと言うと、仙崎支線について話してくれた。
「仙崎に高校があるから、そこの学生は利用してますね。でも、長門市の中心地からだったら自転車でも行けちゃうんですよ」
町の人通り、少なかったです。と正直な感想を述べると、仙崎がひときわ賑やかだったのは、戦後すぐの頃だったんじゃないかな、と答える。
「引き揚げてきた人たちが、そのまま住むことも多くて、家もたくさん建ったんですって。今でも、結構、家が密集しているでしょ」
確かに、軒と軒が近い街並みだったな、と思い出していると、長門は焼き鳥の町でもあるんです、と話題を変えてきた。
「ここらへんは養鶏が盛んなんですよ。かまぼこを作るときに出る魚のあらが、餌として手に入れやすいことが、一番の理由だって話です」
長門市駅までのわずかな時間、運転手氏は、フルスロットルで地元情報を教えてくれた。降りる時に、仙崎のこと、ずいぶん知ることができました、と礼を言うと、照れたような笑顔で、どうぞ楽しんでいってください、と送り出してくれた。
「さて、どこにしよっかね」
ミハラさんにそう言われて、おすすめの居酒屋を聞きだす、という旅先でタクシーに乗る際の鉄則を忘れていたことに気づいた。だが、その失策もさほど問題はなさそうだった。まだ20時過ぎにもかかわらず、駅の周りであかりを灯す店はほとんどなかったのである。
どれにしようかと見回した矢先、息子が「あの店、いいんじゃない?」と指差した。
確かに、手づくりの提灯からのあかりが、いい雰囲気だった。だが、曇りガラスの引き戸やきれいに並べられた植木鉢などが、そこはかとなく、うちは常連向けの店です、と主張しているように感じた。勘である。エビデンスはない。でも、何しにきたとばかりに睨んでくる常連客に囲まれる可能性も、なくはない。
躊躇している僕をよそに、ミハラさんが「いいねえ」と嬉しそうに声を挙げた。すでに駅前で一杯ひっかける波平とマスオさんばりのいい笑顔になっているコンビに、異議を唱える気にはならなかった。
* * *
引き戸を開けると、案に相違して、客はいなかった。代わりに大将と女将がカウンター席に座って、小鉢の煮物を食べていた。店じまいするところだったに違いない。常連云々以前に、我々は招かれざる客であろう。そう判断して、戸を閉めようとした瞬間である。
「大丈夫ですよ。まだやっています。どうぞ、ここに座って」
女将がはっきりとした口調で言った。その言葉にとげはないし、裏もなさそうだった。大将も黙って小鉢を片付け、カウンターの向こう側に入る。
「あの、僕、お酒飲めないんですけど、いいですか」
「いいわよ」
「あと、彼、中学生なんですけど、いいすか」
「うん。お兄ちゃん、好きなもの頼んでね」
「はい、ありがとうございます」
女将の呼びかけに、息子が嬉しそうに答えると、ミハラさんが、小粋に瓶ビールを注文した。ふたりのこだわりのない様子を見ていると。さっきからあれこれ気を回している自分がみっともなく感じた。お店の気遣いを、まずは素直に受け止めた方がいい。僕も、カウンターの丸椅子に座った。
品書きを見ると、一通りのものは作ってもらえそうである。悩んでいる息子をよそに、ミハラさんと僕は、お造りを頼むことにした。
「お造り、おすすめってえと、何になります?」
それまで無言で立っていた大将に、ミハラさんが声をかけた。江戸っ子っぽい磊落さを出しているのは、早く店に溶け込もうという考えからだろう。
「おすすめなんてないよ」
間髪入れず無愛想な言葉が返ってきた。その口ぶりに、照れ隠しや軽口の要素はなさそうだった。
「あるものを出すだけだよ、うちは」
「あ、じゃあ、ひと通りお願いします」
機先を制された格好のミハラさんがもごもご言うと、大将は奥に引っ込んだ。いささか気まずい空気が流れ出した店内に、テレビのニュースキャスターの声が響き渡る。
「どうぞ」
女将がお通しを出してくれた。タチの塩焼きだと言う。気を取り直して口にしてみた。
「あ、うまいね」
思わずミハラさんと顔を合わせた。淡白な身の奥から溢れる滋味が、焼肉で八分目になった腹に、沁みわたった。
「タチって太刀魚でしょ。俺、東京の人間なんで、食べつけてないけど、うまいですね」
「そうでしょ」
標準語に戻ったミハラさんの言葉に、女将がうなずくと、店内の空気がふわりと緩んだ。
「あの、ここらへんって焼き鳥が名物なんですよね」
熟読していた品書きから目を離して、息子が質問した。
「そうなの。食べてみる?」
「はい。ぼんじりとねぎまをお願いできますか」
はーい、と女将が専用のコンロに火をつけて焼き始めたところで、大将が大皿を持って奥から出てきた。
「手前から、クロ、イサキ、アカムツ」
口調はぶっきらぼうだったが、盛り付けは丁寧だった。
ひとつずつ味わってみた。クロこと黒鯛はこりこり、イサキは幾分柔らかめ、そしてノドグロとも称されるアカムツはとろり。それぞれの食感と同じように、うま味もまた少しずつ異なっていた。歯ごたえを楽しめるようにだろう、クロは薄く、イサキとアカムツをやや厚めに切ってあるところが嬉しい。日本海の港町に来ていることを、舌を通して実感できた。
「うん、うちは、港から、直接仕入れているからさ」
うまいと告げると、大将は、ちぎっては投げる風の口調で、僕とミハラさんを見ながら返してくると、「鳥もさ、俺たちの息子の勤め先からさ、直接仕入れているんだよ」と、焼き上がるぼんじりとねぎまを凝視していたわが息子に向かって語りかけた。
うんうんと首を縦にふる息子を見て、女将が、ふふと笑った。
おすすめなんてない、という言葉は「どれもいいものだから」という下の句がはしょられていたんだな、と気がついた。大将は、口調がぶっきらぼうで、ほんの少しだけ、言葉足らずなのである。
なんだ、いい店じゃないか。息子とミハラさんの目の良さに感嘆しつつ、僕は本格的に腰を落ち着けることにした。
* * *
「おふたりって、ここで何年やっているんですか」
「45年。ここらへんの呑ませる店の中じゃ、一番長いんじゃない。俺たちが」
「昔って賑やかだったんでしょうね」
「そうだよ。工場勤務の人とかね、仕事終わりに来てくれたりしてね」
思ったことを正直に話している、と分かってから、大将との会話はぐんと気楽なものになった。女将と一緒で、言外の意味なぞ込めていない。だから、こちらも聞きたいことを正直に聞けばいいのである。
大将は、生まれも育ちも仙崎だった。
「仙崎も、もっともっと賑やかだったね。お宮の祭りも盛大にやっていたし。人も多かった。遊郭まであったんだ」
「仙崎駅も、賑やかでしたか」
「賑わうも何もさ、ここいらの中心が仙崎だったんだよ。あそこからみんな出発したんだ」
大将が強い口調で言わんとしていることは、分かるような気がした。仙崎は、かつて人も物も全てが集約するターミナルとして、盲腸線の終点に止まらない役割を担っていたのだ。
「そう、俺だって汽車に乗って高校に通ったんだよ。仙崎の駅からどこへだって行けたんだ。萩だって下関だって」
ふたりの若かりし頃は、昭和30年代だろうか。だとしたら仙崎の人口がピークを迎え、貨物輸送も健在だった頃である。大将の言葉を聞いていると、広いホームに学生たちが密集している様子が目に浮かんでくるようだった。
息子はすっかり女将になついて、長門の焼き鳥について教えてもらっていた。いつの間にか特製のパンフレットまでもらっている。さらに、焼き鳥だけでは物足りないようで、元気よく焼きそばを注文した。焼き関係は彼女の担当らしく、女将は手早くフライパンを温め始めた。息子は頬杖をつき、その手元を見ながら話しかける。
「僕と父は岡山から。奥のミハラさんは、東京から来たんです」
「あらそうなの」
「言うの遅くなって、すみません。コロナ禍で、遠方からの人を断るお店もあるのに」
僕が口を挟むと
「うちは大丈夫。来た人はもてなすんだ」
椅子に座ってテレビを見ていた大将が変わらぬ口調で言い放ち、女将がそうそうと相槌を打った。
会話がふと途切れた。テレビでは、ウクライナ情勢の報道が続いていた。解説者が事態の深刻さを訴え、キャスターが相槌を打つ。人によって人の命が奪われる現実に、いたたまれない気持ちになって、画面から視線をずらした。その先にある壁には、常連と思しき人たちの名刺や、電話番号を記したメモが所狭しと貼られている。色あせたものから真新しいものまで混在している様が、この店の歴史の厚みを物語っていた。
「常連さん、多いんですね」
「そうだね、大勢、来てくれたね」
また、少し間が空いて、テレビからの音が店に響いた。
「来てくれていたお客さんたちも、ずいぶん上に行ったよ」
不意に大将はそう言うと、人差し指を空に向けた。
「もうさ、俺たちも、やらなくてもいいんだろうけど。でも、お客さん来てくれるうちはって続けてるんだ」
焼きそばを頬張る息子をにこやかに見ていた女将が、今度は、小さくうなずいた。
* * *
翌朝はゆっくり起きて、息子とふたり仙崎へと赴いた。ミハラさんとは、昨夜、宿の部屋の前で別れた。今頃、我々が来たルートを逆にたどりながら東京に戻っているはずだ。
仙崎へは、趣向を変えて、バスで行ってみることにした。小型のバスは、高齢者で満員だった。彼らは賑やかにしゃべりあい、途中にある病院で、そろって元気に降りて行った。我々だけになったバスは、小さな集落をこまめに廻り、鉄道の何倍もの時間をかけて、仙崎駅前に止まった。
同じ風景のはずだが、昨日とは、ずいぶん違って見えた。郵便局も鮮魚屋も書店も開いているみすゞ通りを、地元の人たちが歩き、顔見知りどうしが挨拶を交わす。出会った人たちの話を聞いてから歩くと、かつての賑わいをしのばせる建造物が、そこかしこにあることに気づかされる。中心部にある八坂神社は境内も広く、ここで開催されてきた祭りの大きさは相当なものだろうと想像できた。
至る所に、金子みすゞの作品を記した銘板が飾られている。
潮の香りがかすかにする町の中で、それらを読んでいると、命あるものすべてに、等しく向けられたやさしい眼差しが、胸にしみた。
金子みすゞは、自ら命を断つことで、わずか26年の人生を終えている。下関で結婚してからの悲しい色合いを帯びた日々を知ると、故郷である仙崎を舞台にした作品群の美しさがいっそう際立ってくる。書店の店主が言ったとおり、この町で過ごした日々は、彼女の創作の源泉であり続けたのだろう。
金子みすゞ記念館には連れ立って訪問したが、もう少しいたいという息子といったん別れて、僕はひとりで、道の駅を再訪することにした。
敷地の奥にあるデッキに立つと、海が一望できた。曇り空の下、鈍い光を反射させている水面の上を、海鳥が悠然と飛び回る。隣の船着場から観光客を乗せた遊覧船が出港する。昼前の漁港は静まりかえっており、内陸側にある専用の港には、秋吉台から運ばれてきた石灰石を積む巨大なタンカーが停泊していた。
鰯や鯨を大量に獲ってはいないし、大陸を行き来する人で混雑してもいない。かつてを知る人たちからすれば、往時の賑わいぶりとのギャップは大きいのだろう。ずっと変わらずに存在してきているのは、様々なかたちで人に恵みを与えてきた自然だけなのかもしれない。
国立社会保障・人口問題研究所は、現在約32,000人いる長門市の人口は、2035年までに約37パーセント減少すると予測した。当然のように少子高齢化も進んでいる。その現状を受け入れ、過疎化を幾分かでも食い止めるためにも、地域を代表する観光地として、仙崎地区を盛り上げたい。この道の駅は、そんな思いでつくられた「交流拠点」だという。
土産売り場に入ってみると、平日の昼間にもかかわらず、人出があった。金子みすゞ記念館にも団体客が来館していた。観光地という新たな役割をまっとうするべく、仙崎の町は奮闘しているのである。
少し早い昼ごはんを食べることにして、息子と待ち合わせた。
「さっき郵便局の前で、居酒屋のおじさん見かけたんだよ。自転車に乗っていた」
笑いをこらえながらやってきた彼は、みすゞ通りでの邂逅を報告してきた。
「嬉しくなってさ、手を振ったんだけど、おじさん、前しか向いてなくて、全然こっちに気づかないままどっか行っちゃったよ」
来た人はもてなすんだ。昨夜のぶっきらぼうな大将の言葉は、約半世紀の間、前だけを見て居酒屋を続けてきた末にたどり着いた、夫婦の矜恃だった。その言葉は、今回、仙崎で出会った人たちの総意でもあるような気がした。彼らは、胸襟を開くまで時間がかかった。でも、その時、その場の出会いを大切にして、もてなしてくれていることは、最後に見せてくれた笑顔から、確かに伝わってきた。
戦後、仙崎港が引揚港に指定された際には、やってきた人たちのため、住民による炊き出しや病院を開放しての診療が行われた上に、応急のバラックでの収容が間に合わない分は民泊で補ったケースもあったという。そんなエピソードも、彼らの姿を思い起こすと、ただの美談ではなく、しっかりした手触りのある話として理解できた。
うん、君の言うとおり、いい町だ。昨夕の感想への返事のつもりで息子に向かってつぶやいたが、海鮮丼をかっ込んでいる彼の耳には届かなかったようで、その箸の動きはいささかも止まることはなかった。
* * *
昼過ぎに仙崎駅を発車するディーゼルカーは、当たり前のように単行列車だった。
車内は、我々の他には、数人の高校生とひと組の親子連れ、そして営業帰りと思しきサラリーマン風の男だけだった。列車は発車すると、行きと同じくあっという間に支線を走り抜け、長門市駅に到着した。列車自体はこのまま美祢線を走破して瀬戸内側に抜けるが、仙崎からの乗客は、我々をのぞいて全員がここで降りていき、新たに高校生たちがどやどやと乗りこんできた。
朝に乗った仙崎行きのバスが混んでいたのは、病院や集落をこまめに回る分、年配の人たちには利用しやすいからだろう。こと小回りのきき方に関しては、自動車に比べると、鉄道はいささか分が悪い。人口減によって大量輸送の担い手という役割がなくなった鉄道を利用する乗客が減ってしまうのは、仕方ない面もあるだろう。
今、仙崎支線には町をゆったり見学できるような時間設定の特別列車が運行されている。町と同じく鉄道もまた、ただ衰退していくに任せず、観光路線という新たな役割を自ら作り出そうとしているのである。鉄道に加え、新たに仙崎のひいきにもなった僕は、彼らのいずれの試みも応援したい気持ちになっている。
あれこれ思いを巡らせているうちに、うとうとしてしまった。気がついたら、列車は山あいを走っていた。
長門市を出た時は、立っている乗客がいた車内も、空席が目立つようになっている。僕が寝る前は、運転席の横で前面展望を堪能していた息子も、隣の席に戻っていた。
「何を聞いても、それはねって答えてくれるんだよ。あんな人、はじめてだ」
息子は、ミハラさんと一緒の時間を過ごせたことを素直に喜んでいた。ミハラさんも、昨夜、別れた際に、また会おうと約束していた。僕が見抜けなかった好もしい居酒屋も、ふたりはひと目で選び取ったのである。感性が近くて、相性のいいコンビなのかもしれない。
「僕さ、写真をちゃんとやっていきたい、と思うんだけど」
しばらく車窓を眺めていた息子が不意にそう口にした。
「いいんじゃない」
少し前に買い与えた中古の一眼レフを、彼は大事に使い続けている。最初の頃は、旅先の駅で見かけた列車を撮影するくらいだったが、いつしか、風景写真なども撮影するようになっていた。いい構図の作り方などを動画で研究してもいるようである。気持ちが入ってきたな、と見ていたが、この旅で、ミハラさんと出会ったことや、金子みすゞの作品と生涯を知ったことが、彼の中のスイッチを押したらしい。
「写真の仕事を目指すのって、今からでも始めて大丈夫かな」
「大丈夫なんじゃない」
物事を始めるのに遅いなんてことはないし、本気でやれば必ず得るものがある。書店の店主みたいに、言葉を継ぎたかったが、息子の心に届く言葉にするには、まだ、僕自身の貫禄が不足している気がした。あと5年くらい、お酒を呑まずに旅をして、紀行文を書き続けることができたら語れるのかもしれないが、そのころには息子は成人してしまっている。
ふうんと返事して、息子は、再び窓の外を眺め出した。トンネルに入って、窓ガラスに映し出されたその横顔が、やけに大人びて見えた。彼が親元を離れるまで、もうひと月もない。
日本海でイルカを見たのは、まだ小学生の頃だったな、と思い起こした。
「あのイルカ、遊んでる!」
浮かんではもぐり、予想もつかない場所から再び顔を出すイルカたちを見て、息子は大喜びしていた。沖合いで泳ぐ彼らは、我々と同じような家族構成で、遊んでいる子イルカたちを見守るかのように、親イルカたちがゆっくりと泳いでいた。
彼らは今も元気だろうか、子らは大きくなっただろうか。
人も魚も命あるものとして等しく存在する。仙崎の町で読んだ金子みすゞの作品は、そう語っていた。だとすれば、仙崎は港町として、生と死が渾然一体と交わる地であり続けてきたことになる。その地で僕が出会った人たちもまた、「上にいった」ものたちの記憶を抱え、どこかに諦観をたたえながらも、今あるものを受け入れ、自らの役割をまっとうしようとしているように見えた。
それらは、誰しもが体験し得る、いわば当たり前の生き方なのかもしれない。ただ、その「当たり前」をまっとうすることが、いかに困難かは、歳を重ねるほどに理解できる。諦めざるを得ないことは、いつでも何度でも、誰にでも起こり得るからだ。それでもなお、時に新たな役割を見つけ出しながら、生き続けることの尊さを、彼らの姿は雄弁に物語っているように思えた。
これから新しい世界に飛び込み、試行し、錯誤も重ねていくであろう息子と来ることができてよかったな。そう、素直に感じることができた。
「また、仙崎、行こうよ」
「いいねえ、楽しかったもんね」
僕の問いかけに、息子は笑顔で答えた。
* * *
厚狭のホームに降りると、空には青空が広がっていた。陰鬱な雲が広がっていた日本海側からやって来ると眩しく感じる光の中、跨線橋を渡ってJR山陽本線のホームに立った。地元の高校生たちの集団に混じって待っていると、瀬戸内の柑橘類を連想させる鮮やかな黄色の電車がやってきた。
午後は、息子のリクエストに答えて、彼のバイブルともなっているアニメ映画の舞台となった宇部新川駅に寄り道をすることになっていた。車内で早くもカメラを構えて、シミュレーションを始める息子を見ていて、ふと気がついて尋ねた。
「ねえ、ミハラさんってさ、写真を撮る時の心がまえとかって教えてくれた?」
息子は、ファインダーから目を離さないまま答えた。
「ううん、がんばりなってだけ」
ミハラさんは、いつだって一番大事なことは、口にしないのである。
文=服部夏生 写真=三原久明
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※この記事は2022年3月に取材されたものです。
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