見出し画像

24 意図せざる結果の中で生きる

『社会を知るためには』(筒井淳也著)で知る記述と説明

 前からここに記しているように『社会を知るためには』(筒井淳也著)を読んでいる。いまは半ばを過ぎて終盤である。「第五章 変化のつかまえ方」だ。あとは第六章とあとかぎ、読書案内となる。本書は、次に読む本につながるべく、多くの書籍を紹介してくれているので、次は統計関係を読むかもしれない。
 ともかく、さっき読んだところで「記述」と「説明」について詳しく書かれていた。「社会学研究者というのは、言ってみれば社会についての医者のようなもの」とし、「記述」は医者に対して自分の症状を細かく伝えることに近い。研究者は、私たちのようなざっくりした記述(頭がいたくて鼻水が出る、など)から、検査し測定し分析して処方することになる。
 『創造の方法学』(高根正昭著)からの引用でさらに詳しく説明しているが、そこに「記述的と言われたら侮辱」とのフレーズが出てくる。そして「記述」とは「現実の現象の正確な観察と記録」とまとめる。さらに「説明」とは、起きている現象への疑問を発し、結果と原因を論理的に関係させることだとする。このため正確な記述がなければ、信頼できる説明は存在しない、と言う。ここまでが高根氏の考え。
 そして筒井氏は「必ずしも記述と説明の区別ははっきしとしたものであるわけではない」とも。それは、説明を尽くすことで、私たちは納得することもあるからだ。「なるほど、そうだったのか」と。
 とはいえ、以前に引用したように著者は、──社会は「知れば知るほど『わからない』もの」とし、社会は「決して思い通りにならない」なおかつ「動かす余地が、いくらでもある」とする。これを端的に「意図せざる結果」「緩さ」と表現する──のである。

ドラマ『三体』と「家、ついて行ってイイですか?」

 ドラマ「三体」は10話まで見た。11話以降は11月にならないと放送がないので、この話がいったいどうなっていくのかさっぱりわからない。しかし主人公の物理学者の抱えているプレッシャーは相当のものだと理解できる。それは、上記の「記述」と「説明」でより理解できた。
 研究者というものは、より正確な記述を求める。その上で説明までもっていきたいのである。ドラマの上では、記述しようにも手掛かりは少なく、判然としないことだらけで、その渦中に巻き込まれた主人公は研究者であるだけにかなり苦しいはずだ。そういえば笑った顔をぜんぜん見ていない。
 彼につきまといバックアップしている刑事は喜怒哀楽がはっきりしており、しかも記述とか説明とかそんなことはどうでもよく、犯人を見つけ出せればいいのである。このシンプルな生き方は、行動力の面で主人公をかなり助けている。と同時に、見ている私をも助けてくれている。ホッとするのである。
 それにしても雲を掴むような話で、本当に30話見ればちゃんと決着がつくのだろうか。それとも「意図せざる結果」で終わるのか。
 ところで、私は「家、ついて行ってイイですか?」をよく見る。毎回、数人の家へついて行き、家の中を見て話を聞く。ドキュメンタリーというほどではないが、「探偵ナイトスクープ」の街角で人に聞く「調べてください」よりは深い。場合によっては最初の訪問から数年後にまた訪問することもある。
 この番組ではいつも「家族」を考えさせられる。ひとり暮らしの人の家へ行ったとしても、そこにはどことなく家族の影がある。遺影があったりアルバムがあったりするといった直接的なものばかりではなく、当人の生活スタイルや言葉の中にも、見えない家族を感じさせる。
 記述としてなにかを結論づけるほどの詳細さはない。むしろ見えないところの方が多い。それでいて「意図せざる結果」に満ちている。そしてもちろん「緩さ」もある。「緩さ」は救いである。

家族のあり方と意図せざる結果

 私はマンションで暮らすようになって30年ぐらいになる。同じ建物の中にはさまざまな家族が存在している。もちろん経済状況もさまざまだ。
 『社会を知るためには』(筒井淳也著)は、記述と説明の例として日本の家族について触れている。父系、母系、そして墓の話。さらに親子の関係。これが近年大きく変化をしている。一般的には「少子高齢化」であり、「晩婚化」どころか「生涯未婚率」といった言葉もよく聞くようになった。それが経済と密接に関わっている。
 実は私の娘も未婚ですでに40代であり、親(私だ)と同居している。「仲がよろしくていいですわね、オホホ」と言われそうなぐらいだが、同じマンションにはやはりそれぐらいの年齢になった息子と同居している親たちがいる。つまり私の周囲に限って珍しいことではないのである。
 これが、庭付き一戸建てで部屋数が十分にあるならともかく、集合住宅で生活のスタイルが違う者との同居は、さまざまな軋轢とストレスを生み出す。その詳細をここに記述することはないけども。
「家族の変化の記述は、意図せざる結果のオンパレードです」と『社会を知るためには』(筒井淳也著)。なるほどと納得する。そして「社会の説明は、記述と密接に関連しています」となるのだ。
 確かに社会の場合、いま直面する問題の原因を特定できたとしても、原因を変えることが容易ではない場合があるだろう。不可能な場合もある。意味がない場合もあるかもしれない。
 ドラマ「三体」のVRで表現される文明の隆盛と滅亡の姿を見ていると、たとえ原因がわかったとしても、それを修正する間もなく滅びることもある。そして人間にはそれぞれ寿命があり、家族というつながりは、それぞれの寿命と密接に関わっている。
 意図せざる結果だとしても、個人のレベルでは、「それがなんだ」と言い放つこともできるし、その中で生きることで得られる楽しみもゼロではないだろう。そう思うことにしよう。そこには「緩さ」もあるはずだから。
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?