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16 社会の持つ緩さと苦手な犯人捜し

『鹽津城(しおつき)』(飛浩隆著)読了

 以前に触れた「2022年文藝秋季号」に掲載されている『鹽津城(しおつき)』(飛浩隆著)を読み終えた。別々の話が一つになる。いや、完全に一つにはなっていないようでもある。いずれにせよ、私たちがいま生きている世界とはかなり違う世界での話である。その中で生きている(と思われる)人たちの息づかいを感じる。この人たちは存在している(と思われる)。自分たちのすぐ近くにいるような気もするが、とんでもなく遠いところにいるような気もする。不思議な体験をさせてもらった。
 何度か触れている『社会を知るためには』(筒井淳也著)は、まだ途中であるが、今日は社会の「緩さ」と「陰謀論」についてを読んだ。陰謀論は私も好きである。それは冒険小説であったり、SF小説などでもそうだが、「この世(あるいはこの事件)を生み出しているのはコイツだ」と辿り着けてしまう世界である。
 因果関係がはっきりしている。犯人Xが事件Aをやった、という関係性だ。しかし社会にはそこまでの緊密さはない、と著者は言う。フィクションの世界では、ここをハッキリさせてきちんと描かないと、そもそも物語として成り立たない。不条理なフィクションを除けば、基本的に事件Aを引き起こしたのは犯人Xだとわかる。それを突き止める物語はとても多い。ミステリーでは、これが基本的に成立することで娯楽性が高まっている。パズルのようなものだ。
 しかし社会は違う。

陰謀を暴く資格は誰にあるか?

 『社会を知るためには』(筒井淳也著)では、映画『カプリコン・1』を例にしているが、陰謀を暴くのはジャーナリストである。この図式はほかにもさまざまなフィクション、あるいはノンフィクションでも見られる。
 ジャーナリストとはジャーナル(ここでは定期刊行物といった意味だろう)に執筆している人。自分の見たり聞いたりしたことを記事にする。本来はなにかを暴く人ではない。自分ならではの見方で、世の中で起きていることを切り取る。それが結果的に暴く人となることもあるだろう。しかし、本来の役目は恐らく違う。
 いま記者会見をテレビで生中継することも多く、その会見会場にいて質問をしている人たちは、広義のジャーナリストである。事件Aを引き起こしたのは犯人Xだ、と突き止めようとする人もいるだろう。事件Aについてもっと深く見ようとする人もいるだろう。事件Aだけではなく、事件Bや事件Cといった要因についても調べていこうとする人もいるだろう。犯人Xだけではなく、犯人Yや犯人Zについても調べようとするだろう。
 そして、こうした努力によって事件Aの全貌が明らかになるかもしれず、ならないかもしれない。事件Aを引き起こしたのが犯人Xだと断定できることもあれば、できないこともあるだろう。
 そもそもそれをジャーナリストがやらなければならないのか、という疑問さえも最近ではよく感じる。ジャーナリストもまた、事件Aに深く関与してしまい、犯人側になってしまう可能性さえも危惧される。それは、ジャーナリストという存在が一種の権力者、特権を持つ者に見えるからかもしれない。

苦手な犯人捜し

「犯人捜しをするな」という人は多い。それが組織にとって不毛だ、と感じる人もいるのは事実だ。「そんなことより、やることがある」とすり替えてしまうのは問題も多いことだが、現実には世の中は、犯人不明、容疑不詳のままどんどん次へ進んでしまう。
 それに私も含めてだが、犯人捜しは苦手なのである。適当な材料から「あいつが犯人だ」と決め付けることはあっても、実際には、その人だけが問題ではないことが多いからだ。ブーメランのように自分に跳ね返ってくることも多い。
 だからといって、ミステリーでは、そんなに曖昧な状態なままで放り出すと、読者が怒るだろうし、そもそも刊行されない可能性もある。
 見ている側からすれば「こいつが悪いんだ」とか「やっぱりあいつが犯人だったのか」と「わかる」ことでカタルシスを得られる。それまでのプロセスでは、実際の世の中のように、なにがなんだかよくわからない。謎が謎を呼ぶ。それがスリリングであればエンタメとして優れている。
 社会は、明解な犯人捜しが難しい。「どうしてこんな世の中になってしまったんだ!」と嘆いたところで、いまの社会がこうなっているのは、これまで社会で生きてきた人たちが積み重ねてきた結果であろうし、どの時代の人も「どうしてこんな世の中になってしまったんだ!」と思ったに違いない。江戸時代から明治時代になったとき、誰もが「あー、江戸時代が終わってよかった」と思ったわけではないだろう。「こんな世の中になってしまって」と嘆いていた人も多くいただろう。
 犯人ははっきりしないのだ。ある面では犯人とされる人も出てくるが、「それだけではない」となることが多い。
 『鹽津城(しおつき)』(飛浩隆著)の世界も同様で、なにひとつ、はっきりとした原因はわからず、誰が犯人か、ということもわからない。この作品の世界で起きていることは、よくわからないのだ。この作品から全貌を得られるわけではない。それでも、独特の魅力的な人物と世界がある。それを味わうことができる。
 私はいつからか、ミステリーを読んだり見たりしなくなったが、犯人捜しをしないタイプの作品を好むようになった。よくわからなくても、楽しい作品は多い。
 社会とは、もしかすると、そういうものなのかもしれない。

 


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