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276 フィクションはどこまで許されるか

許せるところと許せないところ

 私が読んできた小説で、フィクションとはいえ「これは許せない」と思ったことはほとんどない。小説は、いわば魔法をかけられているから、読者はどこかで著者と共犯関係になってしまう。読者としては「おもしろく読みたい」し、著者は「おもしろく読んでほしい」。利害は一致している。そのためか、私は誤読、曲解の常習者なので、先日、浴びるように読むと書いているけれど、精度は批評家や研究者とはまったく違う。

 つまり、実は私は作品にそこまでの精度は求めていない派なのである。これは失礼な話かもしれないのであまり書いてはいけないとは思うけど、たくさん読む=片っ端から忘れる、である。私はどんどん忘れて行く。ただそれでも記憶の崖っぷちに引っかかっている言葉は残っているので、それだけが拠り所となる。こうしたnoteなどに書く時「確か、あの本に引用したいフレーズがあったはずだ」と思っても、まあ、見つからない。いまは電子書籍はマーカーやメモ機能があるけれど、付箋を貼ったりしていた頃だって、しばらくすれば見つけ出せなくなっていた。
 ところが、つまらないところで引っかかったとき、読んでいても、そういう「どうでもいいところ」だけは記憶に残ってしまう。
 これは本ではないけれど、先日最終回だったドラマ「イップス」は、東京03などと組んでいる脚本家オークラ氏の作品ということもあって、ちょっと期待が大きすぎた。そして最終回。これまでの回はすべて倒叙ミステリー、つまりドラマの前半で犯人の行動を見せてしまうスタイルだった。ところが、最終回は違う。いや、形式としては倒叙っぽいのだがどうもふわふわしていて、それはやがて明らかになる。つまり、このドラマのこれまでの回をすべて前振りとしてしまう試みだった。残念ながら、それは気持ちはわかるけれど、むしろ普通のサスペンスドラマ。どうにもならぬ。
 ここまではドラマとしてはよくある光景なので、私だってなにもnoteにわざわざ書き残さない。問題は「捜査令状」である。この最終回、重要なポイントで、警察は家宅捜索をする。証拠を押収する。それを刑事が部下に「やって」と頼むだけでやっている。捜査令状は取っていない。違法である。この刑事はいずれ懲戒にかけられるに違いない。だいたい、容疑者を絞り込んだ段階で謎解きをいきなり始めるなんて乱暴すぎる。容疑者に、全員、ぶち殺されていたかもしれないし。
 だから、こういうところは、私はなんだかかえって記憶に残ってしまうのだ。こういうところがなければ、さらりと「まあ、終わりましたね」と受け止めていたはずなのに。

15分で民法の相続の争点を

 一方、今朝の朝ドラ「虎と翼」では、わずか15分のドラマの中で、戦後民法(現在もほぼ踏襲)における「相続」で起こり得る争点をすべて洗い出してしまった。
 遺言の件。遺言の真偽。偽の遺言であったと断定されたとたん共謀した人たちは相続の権利を失う件。相続の権利のない人による理不尽なパワハラ(祖母、長男の嫁など)。遺留分(配偶者と子の場合は全財産の2分の1)。今回配偶者と子が相続人なので祖母は関係ないし。長男の嫁も関係ない。ところが、こうしたいわば外野席の人たちは、とても無責任に当事者を煽っていく傾向がゼロではない。そこには、「悔しい」とか「当然の権利じゃないか」といった一種の「正義」とか「義憤」が混じる。
 さらに、家庭裁判所においては、「調停」がある。ドラマはこのあと恐らく調停を見せるだろう。家裁が出来たとき「傍聴できないのか」と寿司屋のオヤジが度鳴っていたけれど、家裁の特徴はこの当事者同士の調停にあるのではないか。実に面白い※。
 当然ながらドラマの制約の中では、リアルだけではなく、フィクションとしてのいわばファンタジーも入ってくる。だけど、ここでつく嘘は私としては許容可能な嘘な気がしている。「そんなことあるか!」と突っ込んでもいいけれど、なんだか大人気ない。だから、突っ込まない。この違いはなんだろうね。見る側の引き込まれ方の違い、といってしまったらそれまでだけど、この何カ月か毎日のように見て来た中で生まれた信頼が、それを許すのではないだろうか。

※追記。その後調停には行かずに解決してしまった。これもまた伏線なのだろうか。


ドアを描いた。

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