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271 浴びるように他者作品を読む

自分がなくなりそうで怖かった

 よく書く人は、よく読む人だ。その逆ではない。
 若い頃、出版関係の仕事に就く前までは、「自分が自分が」的に、書くことばかりしていて、あまり読んではいなかった。そもそも遅読だから数をこなせない。当時、「速読」も流行していたけれど、自分にはとてもできないことだった。
 出版関係の仕事になると、自分が書くよりも他人の原稿を読む方が多くなっていった。資料としての文献も読む。議事録や雑誌も読まなければならない。さらにネット時代になっていくと、多くの人がさまざまな方法で書くようになったこともあって、読むことは増えていった。
 書くばかりの頃は、「他人の文章を読むと、自分がなくなりそう」と思い込んでいた。確かに、影響は受けやすい。おもしろい作品で出会えば、「そういう風に書きたい」と思ってしまう。あるいは、自分では真似ていないつもりでも、似たものを書いてしまう。
 さまざまな文章を読むようになると、文豪やベストセラー作家の作品ばかりではなく、いかにも固い研究者のエッセーや論文、官公庁の資料、法令など、無機質な文章も入ってくる。そこに、それほど書くのが得意ではない人の原稿も入ってくる。
 それ以外にも、自分で読みたいと思う作品も読むようになる。読むのに飽きるのかと思ったらそうではない。たとえて言えば、甘いのを食べたあと、しょっぱりものが食べたくなり、甘いのしょっぱいの、とやっていくと無限に続いてしまうのではないか。それに似ている。
 固いものが続けば、柔らかいもの。難しいものが続けばやさしいもの。とにかく読み続けるのである。
 その結果、自分の書く量は、読む量の何十分の一、あるいは何百分の一へと減っていく。
 それでいて、「あなたらしいね」と言われることが増えていった。
 他人の影響を受けまくっているはずなのに、むしろ自分らしさが浮き上がっていった。

しょせん、真似はムリ

 かなり以前から清水ミチコが好きなのだが、WOWOWでこのところ毎年恒例の武道館ライブを放送してくれて、必ず見るようにしている。「作曲法」のネタは特に好きで、単なるモノマネではない。アーティストの作品の特徴をつかみ、歌詞にそれを盛り込みながら歌い上げるのである。いかにも「それらしい」曲になっていくので、笑いが止まらない。同時に感心してしまう。
 他人の文章を真似ることは可能だろうか。そもそも、真似ようとしても真似られないのではないか?
 代作、ゴーストの存在はよく知られていて、高名な書き手の作品も別の誰かの手による「それらしい」作品だった、などといった話を希に聞く。私はそういう「文体を真似る」タイプのゴーストはしたことがない。似てないので自分でも呆れてしまうからだ。ライターとして他人名義の著書に関わるときは、編集者と組んで長時間のインタビューを行ない、その人らしさの伝わる文章を作ってはいくけれど、真似は私にはできなかった。ただ、同時に、私らしさも殺していくので、比較的中立な文章になっていくことが多かった。それを、著者は手を入れて、著者らしさを追加して完成する。
 真似しようとして「出来ない」部分は、自分のオリジナルってことになる。たくさんの作品を読み続けることによって、むしろ自分らしさが浮かび上がってくる。良くも悪くも。
 いまも、note、カクヨムで毎日、他者の作品を読んでいる。そのほかに本を読む。Xで流れて来た文章も読む。雑誌の連載も読む。相変わらず、読む文字数の方が、書く文字数より圧倒的に多い。それでいい、と思っている。もっとも、小説を書くときだけは、優れた作品を見ないように注意している。自分と比較してしまうと、がっかりするからだ。

自分らしさ、か。



 

 

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