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26 家族と疑似家族

『社会を知るためには』(筒井淳也著)読了

 ようやく『社会を知るためには』(筒井淳也著)を読み終えたのだが、終盤に大切なことがいくつかあって、これまで触れられていなかった部分について少し書いておきたい。
 「日常生活の怖さ」について、前回近松門左衛門作『堀川波鼓』の例について触れたが、ここにある脇の甘さは、いまはSNSなどで激しく糾弾されることだけど、誰にでもあり得ることであり、注意してもなお足りないかもしれない。それが日常生活に潜んでいる怖さだ。
 そこから逃れるための「安心安定」こそが、家族の基本的な役割なのかもしれない。さらに安定を求めると、ひきこもり(こもりびと)になるしかないかもしれない。家族は安定を感じるための最小限の装置だった時代があり、いわゆるホームドラマにはそれがよく表現されている。テレビ普及期にホームドラマがよく見られたこともあって、そのバリエーションはいまのドラマにも色濃く残っている。
 『何曜日に生まれたの』は、野島伸司脚本によるドラマで、このドラマのおもしろさは、家族と疑似家族の組み合わせにあった。ここに登場する家族は、売れない漫画家とその娘(こもりびと)、超売れっ子作家とその妹(病院にいる)、編集者であるシングルマザーとその子、その妹。この3組の、家族ではあるのに、どこか物足りなさもある家族(いまの時代はよく見られることだ)が、漫画家の娘を主人公としたマンガを生み出すために、一種の疑似家族を形成する。
 この疑似家族は、古くは野島脚本の『ひとつ屋根の下』、向田邦子『寺内貫太郎一家』であるとか、橋田壽賀子『渡る世間は鬼ばかり』にとてもよく似た構造をとっている。さらに『何曜日に生まれたの』では、主人公の同級生たちが多数登場する。部活とマネージャー。これもまた疑似家族の一種である。
 高校卒業から10年間引きこもっていた主人公が、作家の創り出した疑似家族に「安心安定」を感じたことで、新たな人生を始める。

「生と死」を柔らかく受け止める

 ドラマの基本は生と死だ。悲劇も喜劇も、生(生まれる、生きている実感を味わうなど)、死(死ぬ、死ぬような目に遭うなど)を扱う。それは現実に深くつながっている。そのとき、家族は、ドラマの発端になり同時にこの激しすぎる生と死を柔らかく受け止めるためのクッションにもなり得る(もちろんならないこともある)。
 最近のニュースでも、家族発の悲劇はとても多い。まるで家族がいるから酷いことが起こるかのように見えるけれど、悲劇から気持ちを遠ざけてくれるのも家族(あるいは疑似家族)である。
 疑似家族は血縁は関係なく、責任の所在もマチマチである。「今日からおれを、お父さんだと思って」とか「あなたを妹のように思う」といった言葉で象徴されるような、一般的には「仲の良さ」であるとか「友情」などの「情」や「利害」で結ばれた関係である。そのため、家族に比べると、疑似家族には選択の余地があり、わがままのようだが、自分の勝手で組み合わせ自由にできる(もちろん相手のあることなので、それが必ずしもうまくいくわけではないが、それもまたドラマだ)。

相場感と責任

 責任とか義務についてとても厳しく意見を言う人もSNSでは多い。しかし、この社会における責任とはそんなに厳密なものだろうか。
 親の責任、子の義務、会社の責任、社員の義務、政府の責任、国民の義務。確かに、その関係性の中で社会は作られているので、ある程度の範囲で「責任はここにある」とか「これはあなたの義務だ」と言える。
 『社会を知るためには』(筒井淳也著)では、こうした責任について「特定の国や時代によって異なる『相場』があって」「私たちはその相場感覚に照らしながら責任の有無も判断」する、としている。
 家族(あるいは疑似家族)が「安心安定」を提供してくれるのは、このいわば責任についての相場感がある程度揃っていて理解されている関係だから、と言えるだろう。
 不幸にもまったくそれがない家族では悲劇が起こりやすくなる。映画『夜、鳥たちが啼く』で、主人公は結婚を持ち出さず「このまま」を維持しようとする。旧来の家族を信じていないし、責任についての感覚も違うからだろう。映画『フェイブルマンズ』で母は父の友人のもとへ行ってしまう。それもまた「安心安定」を求めた結果なのだろう。
 誰もが求める「安心安定」だが、誰かがそれを得たときに、誰かがそれによって傷つくこともある。傷ついた者は自分のクッションを求めて家族や疑似家族を求めることになる(かもしれない)。映画『夜、鳥たちが啼く』では「傷のなめ合い」と表現していたが、それも一種の「安心安定」だ。
 ドラマとしては「落ち着くところに落ち着く」のであるが、それは「解決」や「結論」ではなく、とても緩くて脇の甘い世界である。それぞれの脇の甘さを許容できる世界であり、いずれそれも我慢できなくなる可能性を持っている。『何曜日に生まれたの』のエンディングは一見ハッピーだが、主人公の求めた「安心安定」が保たれる保証はどこにもないのだ。
 それは、私を含めて、いまこの時代に生きているすべての人に言えることだろう。


 
 

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