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25 このnoteはフィクション?

なぜ書くの?に答えはない。

 毎日noteに書くこのスタイルは、結果的にこうなったというよりはむしろ、何の気なしにやっているのであって、それは朝、目が覚めて、夜、眠るような平凡なルーティンのひとつなので、一種、細胞の求める生物的な活動だと言える。
 そして、最初からそうなのだが、これをフィクションとして書いている。毎日、ここにこうして書いている自分はリアルな存在でAIでもないし架空の存在でもない。なにを書くのかは、このマガジンのタイトル「微睡みの中で恋をして」にあるように、微睡みの中で決まっていく。
 もちろん、いくつかのキーとなる部分は前日か前々日あたりにすでに決まっていることもある。しかし、基本的に見出しを3つ入れることにしているので、それがすべて決まるのは微睡みの中、あるいはこうして執筆している時に決まっていく。
 今回は、昨夜WOWOWで録画していた映画『夜、鳥たちが啼く』を見ていて、その中で「なぜ書くのか?」といった問いがあったからそれを巡って書くことにした。
 この映画は、城定秀夫監督。佐藤泰志原作。高田亮脚本。山田裕貴と松本まりかの演技が見物の作品として見た。城定秀夫はピンク映画を多数監督していることもあって、絵の作りも独特。R15指定になっていたが、それは暴力ではなく性描写によるものだった。
 映画の中身には不穏というか不安というか、安定しない世界が描かれていて、最後までそれは続く。この映画は、映画単体で鑑賞することが許されず、どうしても原作者の小説家・佐藤泰志の存在が大きく影響してしまう。1990年に41歳で自殺した作家。その後、再評価されて2022年にこの映画が生まれている。しまった、先に原作を読むべきだった、と思ったがもう遅い。
 映画の中で「なぜ書くの?」と問われても主人公の作家はあまりちゃんと答えられない。恐らくその答えを探すために書いているのだろう。ただポツリと「自分を終わらせるため」みたいなことも言うのだが、それは少しウソくさく感じられる。
 以前からここでしばしば取り上げている「2022年文藝秋季号」は、そもそも特集が「私小説」(オートフィクション)だったので購入したのだった。
 これまで自分として私小説を書いたことはない。本来、自分のことから書くべきだ、と考える人もいるだろうが、そもそもなにかを書こうとしたときに「物語」の構築に魅せられた部分が大きく、フィクションのことばかりを考えてきた。だから「私小説」について知りたくなったのだ。

観察者によって変化する実像

 以前にも書いたかもしれないが、「実像を浮き彫りにする」みたいな小説を書くことは恐らく不可能だ。著者という観察者によって実像は歪められるからである。歪めないとしても、実像は影響を受けてしまう。簡単に言えば、実像の前に著者が立てば、その影が実像の色合いを変えてしまう。
 私小説になると、それは自分自身を描くことになる。自分で自分を観察することで、実像を描くことは可能だろうか? それはたぶん、画家の描く自画像に似ているだろう。あるいはセルフポートレートに似ているだろう。あくまでも「似ている」だけで、私小説も自画像もセルフポートレートもすべて実像ではなく、ある面を捉えているか、あるいはまったくの虚像を写し取っているかだろう。
 さらに手のこんだ方法を考えるとすれば、比較的客観的な視点を設置する。たとえば本人を観察できる場所にいて、あまり近すぎない立場の人。その人から見た自分を描いてもいい。
 自分の前に置いた鏡に映る自分を描くのではなく、防犯カメラに映り込んだ自分を描くようなものだろう。
 しかし、それはいわば本人確認としては有効でも、実像を捉えているかといえば、ある瞬間を切り取ってそれらしく見せているだけかもしれない。
 映像に残されていれば「動かぬ証拠」と言えるかといえば、それは過去のある時点での断片に過ぎないので、アリバイになるかもしれないが、その時になにを考えてそこにいたのかを描き出すことにはならない。

病院を破壊したミサイル

 微睡みの中で、そんなことを考えいたとしても、タイマーで点いたテレビから、ガザ地区の病院がミサイルで破壊され500人以上が亡くなったのではないか、といったニュースが聞えてきたとたん、自分の実像など、どうでもいいことではないかと思えてしまう。
 災害でもそうだし戦争でもそうだが、一度にたくさんの人たちが死傷していく世界があって、自分はその世界ではないところにいまはいて、微睡みから覚醒していくところだ。
 いくら想像力を発揮しても、私はいまガザ地区の病院にいる人の視点で物を見ることはできない。そのような病院に行ったことはないし、ミサイル攻撃を受けたこともない。なにひとつ、自分の細胞と結びつけられるものを探せない。それでも、事態は起きている。戦争はそこにある。
 『社会を知るためには』(筒井淳也著)を読み終えた。「偶然が重なりあう悲劇」の項で、近松門左衛門作『堀川波鼓』を例に、不可解な怖さを提示しつつ、「状況の偶然」による悲劇は、誰にでも起こり得ることを示唆していた。この作品の構造が、やや映画『夜、鳥たちが啼く』を想起させる。しかし、この映画は近松のような悲劇(惨劇といってもいい)にはならない。
 自分もアクセルとブレーキを踏み間違えるかもしれない、という不安は、多くの人が少しは考えたはずで、『社会を知るためには』(筒井淳也著)は、アンソニー・ギデンズ(イギリスの社会学者)の研究を紹介している。多くの人が不安にかられ過ぎずに、安心して生きている実態について本当に安心しているわけではなく「ギデンズは、私たちはそういった不安を物理的に、あるいは心的に遮断しているに過ぎない」と言う。物理的遮断は、不安になる情報に触れないこと(たとえば病院に行かなければ病人を見ずにすむ)。心的遮断は、心の中で特定の情報を遮断すること(忘れる、鈍感になる)。
 私小説で自分のことを描けば、この遮断を少なくとも自分に対しては行わない、それどころかもっと詳細に観察することになるだろう。映画『夜、鳥たちが啼く』の主人公のように、不安で不穏な日々を過ごすことになるかもしれない。
 このnoteはそういう目的ではないから、やはりフィクションなのである。
 
 
 
 

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