見出し画像

48 コンテンツから貰える力

退屈を楽しむ?

 いかに楽しむか、というこちらの楽しみ方の前に、エンタメ系のコンテンツは、いかに楽しませるかに工夫を凝らしている。そこで、もっとも嫌われるのが「退屈」だろう。
 「どうか楽しく退屈なさってください」という「あとがき」が気になったのが、『新ジュスティーヌ』(マルキ・ド・サド著、澁澤龍彦訳)である。
 遙か昔に興味本位で読んだ『悪徳の栄え』のことは、すっかり忘れている。そもそも文字数が多すぎる上によくわからない。なんだかスゴイのかもしれないが、なにがどうスゴイのかもよくわからない。結局、学生だったあの頃、最後まで読まなかった気もしなくもない。
 一方で、澁澤龍彦の存在は気になる。どうやら多くの人が読んでいるようだし、古書店へ行くとかなりの確率で澁澤龍彦コーナーが昔はあった。「いつか読まなくちゃなあ」と思うものの、Kindleで購入している『高丘親王航海記』も、半分ぐらいまで読んで止まっている。ときどき読むのだが、なかなか進まない。
 しかし、「どうか楽しく退屈なさってください」と言われてしまうと、なるほど、退屈を楽しむのもひとつのエンタメであろう、と思わないわけではない。
 私たちは、退屈の楽しみ方をまだよく知らないだけで、もしかすると、退屈はエンタメの未知の分野なのかもしれない。
 というか、落語の「あくび指南」では、「退屈で、退屈で」という言葉が何度も出てきて、そのあとにあくびが出ることになる。何度か聞いているうちに、落語家が「退屈で、退屈で」の言い方にも工夫をしていることがわかってくるし、この「退屈で、退屈で」は、次のあくびを見せるための期待感へとつながるので、「あくび、来るぞ」とこっちはニヤニヤしてしまうわけで、すると、もう落語の術中にはまってしまっている。退屈も立派なエンタメなのだろう。

コンテンツ消費の結果

 飯を食えばエネルギーになり栄養になり、それが体や脳を活発にさせる。
 コンテンツを消費することで、私たちはなにを得ているのだろう。
 たとえば「退屈しない」どころか「ジェットコースターみたいに」おもしろさに振り回されるコンテンツは、こちらに残るのは「おもしろかった」という余韻であり、「おもしろかった」と一言でまとめられた記憶である。
 しかし、私の場合、おもしろいコンテンツほど、あまり覚えていない。コンテンツに浸っていた間は最高の愉悦だったのに、終わってみると、なにも覚えていない。
 むしろ、おもしろさを多少は抑えて、奇妙な味わいとか、不思議な時間や空間を挟みながら、ある程度は退屈も感じつつ進んでいくコンテンツの方が、記憶に長く残っていることがある。
 古い話だが、アナハイムのディズニーランドに行ったとき、潜水艦があった。「Submarine Voyage」というやつで、いまも存在している「ファインディング・ニモ・サブマリン・ヴォヤッジ」の原型となったもの。プールの中で、レールに乗って動く潜水艦型の乗り物に乗って水中を丸い窓から眺めるだけの、乗るまでのワクワクに比べれば、とんでもなく退屈なアトラクションであった。
 それでいて、その記憶は長く残っている。第一に「あれはもしかするとおもしろかったのかもしれない、英語がよくわからないのでつまらなかったのかもしれない、年齢がもっと低い頃だったら楽しめたのかもしれない」などと考えてしまう。第二に「どう楽しめばよかったのだろう」とこちらの問題としても受け止めてしまう。
「ゴメン、楽しみ方、わからなかった」というわけだ。
 私としては、幼い頃に行った「横浜ドリームランド」で似たアトラクションに乗ったはずだ、という記憶が甦ったのであった。「これが本家だったんだ」と感慨はあった。
 コンテンツがおもしろいときも退屈なときも、それを消費することで、なにかしら力を得る。おもしろ過ぎるコンテンツは力は発散されて消費した爽快感が残り、退屈なコンテンツはこちらにさまざまな思いを残して、それが日常を少し変化させる力になっていく。

『SPEEDBOY!』(舞城王太郎)を読み終わる

 『SPEEDBOY!』(舞城王太郎)を読み終えたのだが、この本がおもしろかったのか、退屈だったのかと問われると、とても答えにくい。そもそも、なんだかよくわからない。短編集、連作集のように、パートごとに話は変わっていくのだが、同じ主人公である。
 全体に覆っているのは、「孤独」だ。孤独であり孤立である。ただひとりの自分。それがとんでもないスピードで突っ走る。ただそれだけの話だ、と言ってしまってもいい。白い球を追う。黒い球と出会う。その謎は解明されない。そもそも、どうして鬣(たてがみ)が生えているのかもわからない。
 母の思い出。姉の思い出。謎の女性との出会い。同じように突っ走る連中もいるのだが、仲間なのかどうか。そこに友情は生まれない。
 ひたすら弧であり続けることによって、なにが起き、なにが得られるのか。この作品では、説明はない。合理的な解決もない。それでいて、妙におもしろい。
 わからない何かを読まされているこちらが、なんとなく愉快になっていく。明るい話ではないので、よくあるホラ話系でもない。オチはない。福井出身の著者は、この作品でも福井を舞台にするのだが、それは、日本地図上の福井という地域の孤独感にも通じているのかもしれない。
 そう考えれば、どこでどんな風に生まれても、人は孤独な道を突き進むしかないのかもしれない。いや、そんな教訓的な解釈はふさわしくない。
 この作品からは、漫画のような絵が浮かぶ。コマ割りまで浮かぶ。手塚治虫、あるいは大友克洋が描いたらどうなったかな、と想像する。この場面は絶対に見開きだとか、ここは巻頭カラー4ページだな、などと思いながら読んでいた。だが、私の感覚ではアニメではない。
 自分にとって、そのコンテンツがどんな方向を持った力となるのかは、消費してみなければわからない。それを含めたおもしろさであり退屈なのだ。
 
 


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?