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自分の担当クラスでいじめ問題が起きかけた話

昔、自分の受け持ったクラスでいじめ問題の前兆が起こりかけたことがあった。大学生時代に塾講師のアルバイトをしていた頃の話、小学六年生8人クラスでの出来事だ。

とはいっても程度は極めて軽微なもので、友人同士のじゃれ合いとして静観も全然あり得るくらいの温度感ではあった。ただちょっと、一方的で一人対多数の構図が気に掛かっただけ。そして顛末を先に語ってしまうと、この件は大事には至らず早々に沈静化することになる。

断じていじめ行為を肯定する意図はないが、ターゲットの生徒はいかにもというか、ある種の典型的な要素を持ち合わせていた節はあった。つまり、ちょっと浮いていたのだ。言動がトロい、鼻と口の穴を交互に指でいじる、頻繁に宿題を忘れてくる、発作のように頭を掻き毟る、ブツブツ独り言が絶えない、等々……。無論注意もするが、授業中の素行矯正には限度はある。周囲の生徒達にしても、それは悪意を孕んだ加害というよりは、我慢の限界による子供らしい憂さ晴らしという側面が強かったと思う。そして双方を御しきれていない僕の実力不足も原因の一端ではあった。

それにしたって実際、いじめの前兆と表現するにはあまりに大袈裟な、本当に些末な問題だったのだ。陳腐な悪口だとか、触れる程度に小突くこととか、世の教育現場ではごまんとあり触れた光景だったに違いない。

それは面倒事として僕から報告を受けた上司の態度からも察せられた。上司は助力こそ惜しまなかったものの、明け透けに怪訝な表情ではあったのだ。なんなら「学習塾はあくまで生徒の学力向上がパーパスであって、生活指導の場ではないよ」と、むしろ僕の方が釘を刺されたくらいだ。教育者の立場として明言は避けたものの、それが遠まわしの示唆ではあることは言うまでもなかった。領分を履き違えるなよ、と。

今にしてもその理念に思う所はあるけれど、筋は通ってはいるし一つ学びの機会ではあった。そして、そんな一連の最中でとある生徒との会話が特に印象に残っている。暴力とか暴言とか、ダメなことはどんな理由があってもダメだと指導した直後、「じゃあどうしろっていうの?」と問われたのだ。

じゃあどうしろっていうの? 

前述した事情から、それは反骨心による抗弁というよりは、もっと切実な訴えのように僕には感じられた。イライラして机を叩きたくなるこの感情の行き場はどうしたら良いんですか? 僕としてはこう答えるしかない。多少は我慢するなり、本人や大人への相談を経て穏便な問題解決を試みるべきだと(もちろん実際はもっと噛み砕いた言い回しをしている)。……難しいよなあ。要求していることのレベルが高すぎて、正直ちょっと不憫に思うくらいだ。なまじ不快感を被っている事実は理解できてしまうから。

だってそうだろう。大人でさえ感情の抑制とは一筋縄ではいかない課題だ。流石に暴力・暴言みたいな明らかに一線を越えた手段を取る人こそ少ないだろうが、しかし真の意味で、一体どれだけの大人が負の感情を適切に処理できているだろうか。

満員電車で舌打ちする人、不満を溜息や口調に表してしまう人、職場で愚痴や文句を憚りなく零してしまう人。それらは不機嫌ハラスメントを筆頭とする数多のハラスメント概念として槍玉に上げられ、ともすれば広義に暴力として認識されかねないのが現代の価値観だ。繊細化する人間社会のコミュニケーションにおいて、動物的・衝動的・野性的であることはハッキリと悪徳だ。その所作が直接罪に問われるまでは至らずとも、風潮としての許容度は年々厳しくなっていると感じる。

塾ではよく騒がしい小学生クラスを動物園と例えたりするが、ヒトの子供は生まれた時はみな動物である。そんな野生児を教育を経て「人間」へと成長させるためには、今やただ頭ごなしに暴力はダメだと叩き込むだけでは足りないのだ。感情や衝動に任せた言動を抑えること、時に不快感で身悶えするような時ですら冷静に正しい工程を踏むこと。その在り方の是非を問う間すらなく、負の感情に関する検閲の傾向は強くなっている。子供も大人も適応していくしかないのだ。

結局、貫禄ある上司の引き締め説教も加担して、教室は俄かに平穏を取り戻すに至った。けれど、じゃあどうしろっていうの? その問いに対して、僕は納得のいく伝え方ができなかったのが未だに心残りである。

それでも利発な生徒達ではあったから、令和に生きる若者として、僕なんかよりもよほど器用にコミュニケーション能力を会得しているだろうと。何年も経た今となってはそう願うばかりだ。

冷静になるんだ。