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読書と哲学

読書会と哲学カフェに参加して感じること。

読書会はビブリオバトルもあれば、リードフォアクション、紹介型もさまざまな形がある。純粋に本を知るという目的もあるだろう。本を通して、人を知るという目的もあるかもしれない。トークトレーニングとしてもあるかもしれない。比較的目的が持てるような気がする。

一方で哲学カフェもオンラインで体験した。2、3体験したが、どうやら自分には会わないような気がする。検討するモヤモヤするは、納得できるが、問題を解決するために悩むという考えでないとなんだか、疲れる。議論のための議論に往々にしてなっている場合がある。それって答えを出す思考なの?って感じてしまう。

デスカフェもオンラインで体験したが、問いがない、もしくは具体的でないとなんとなく主催者も参加者もよく分からないモヤモヤを抱える。それが目的といえば、そうなんだが・・

自分たちでもやったが、問いを具体的にすることやタイムの区切りが大切だと感じる。よくわからない感じにならないためにも・・。問いが大切だと思う。もちろん誘導的なのは問題外だか・・。

考えるとは・・

梶谷真司『考えるとはどういうことか』では下記の如く述べています。

知識だけ学んで問うことがなければ、思考はどこにも行かず、育つこともない。知識もなしに問うばかりでは、思考は方向を見失う。知識はそこからさらに問うてこそ意味があり、問いは知識によってさらに発展する。だから哲学的に考えるためには、答えのある問いとない問い、閉じた問いと開いた問いの両方が必要なのである。(144頁)

と知識と問いのバランスを述べている。知識のための知識でもなければ、問いのための問いではない。故に議論のための議論でも無かろう。自らが問い考える行為のためにも他者は必要であるし、他者の感覚や視点を持つことで地平は広がる。しかし、それもまた問題解決思考ではあると個人的には思うのです。

ビジネスでも・・・

山口周さんの『独学の技法』では下記の如く述べています。

ビジネスには人間や世界のあらゆる側面が関係してきます。だから、どんな問いであっても、人間や世界をより深く理解するきっかけになるのであれば、それはどこかでビジネスへの示唆へつながってきます。その「問い」がシャープであればあるほどに、答えはなかなか見つからないものです。しかし、長い期間にわたって、そういった「問い」に向き合い続けていれば、やがてその「問い」に対する、答えやヒントに気づく瞬間に出会うはずです。(153頁)

問いは、問うことそのものためでなく、「答えやヒントに気づく瞬間に出会う」ためにあると当たり前ですが、問題解決思考であり、より大きな問題であれば、時間はかかりますが・・・

「問い」を持つことで人間や世界に対する理解や関心が深まるとき、それは間違いなくビジネスに関連する「ものの見方」についても新しい刺激を与えてくれるはずです。(154頁)

と「ものの見方」についても新しい刺激を与えてくれると述べています。

ブッダの思考

ブッダが物事をどのように考えていたか?を問う時、必ず出てくるのは「毒矢の喩え」だと思う。

思考のための思考、何も生み出さない思考というものに対して、ブッダは否定しているともいえる。問題解決的考え方であったと言えよう。

後世の大乗仏教になると、浄土論や死者論が増えていく、その善し悪しは別としてある種の観念的な部分がないとは言えないが、基本問題解決思考であり、禅であり、浄土教であり、法華系であり、現実の問題を無視して出来上がったものでない。苦しさと向き合い解決を模索する精神は、維持されてきたのだと思われる。

と長々、考えを述べてきたが・・・私のどうしようもない、情緒のない、自分を肯定しようとしているのかも知れない。(この情緒なのさを嫁さんに怒られているのは・・・言うまでもない(笑))






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