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【カタリ】第4章_ほころび (全7章)

第3章_5人のカモ<<

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 5坪ほどのマンションの1室からスタートした真美術出版舎は、王子神谷駅から1分ほどのオフィスビルに引っ越した。

 15坪の事務所がワンフロアに1室という造りのビルだった。真美術出版舎は8階と7階の2フロア分を借りて、今までの事務所機能は8階に移した。これまで黒澤1人だった編集部には週に数日、業務委託でデザイナーが出社するようになった。彼と黒澤は画集のデザインとは別に企業広告のコンペに出品したり、商品のパッケージデザインの営業をしたりと、新しい業務に挑戦し始めた。本人から直接話を聞いたことはないが、いくら利益が大きいからといって、騙り商法をいつまでも続けるわけにいかないと、黒澤は分かっているのだろう。奏だって同じだ。

 7階は黒澤専用のフロアで、1日の大半はそこに籠るようになった。奏がカタリになって半年も経っていなかった。

 いくら覚悟を決めたとはいえ、奏の心は何度か折れそうになった。しかしその度に、浜元と交わす他愛ないやり取りが奏の心に平安をもたらした。毎日、みんなに対して浜元が冗談で言う「アカーン! そんなんは、アカンよ」というツッコミは、真美術出版舎の空気が明るさを保つためには欠かせないものだったし、奏がカタリをしているときの姿を、隠さずにすむ無防備な関係は、「友達」に似ていた。

 6月の初旬だったろうか、出勤途中にあるゴミ収集所に、つややかなブラウンの皮張りの、大きな1人がけのソファが捨てられていたことがあった。人が座る部分のちょうど真ん中が直径15センチほどくぼんでいて、そこに子猫がすっぽりとはまって丸くなって眠っていた。ピーナツバター色の背中は朝の光につやつやと輝いていて、白い腹がふわふわと上下している。奏は子猫を撫でてみたかったが、起こしてしまいそうでそのまま数分見つめていた。後ろ髪を引かれながら出社すると野辺や黒澤にそのことを話したが、彼らはまったく見ていなかった。浜元はその日、珍しく遅刻してきた。

「すんません!」

「どないしてん」。黒澤が言うと、野辺が笑う「寝坊かいな」。

「いえ、ちゃうんです、でも、いや、すんません」

「何やねんな、もう」

 浜元には珍しく歯切れの悪い口調だった。どこか照れているように見えたので、お腹でも壊しているのかと奏は思った。昼休みは浜元と一緒になった。ずっと子猫のことが気になっていた奏は言った。

「浜さん、ちょっとこっちから遠回りして行きません? 実は朝、ゴミ収集所の所にね……」

「せやねーん! 子猫やろ」

 浜元は奏が言い終わらないうちに、言った。こんなにうきうきした声を出す浜元は初めてだ。

「棚絵さんも見はったんですね? ソファの真ん中にスポってはまってんねん。かわいかったわ。起こしたらアカンと思って、写メも撮れへんかってん。まだいるやろうか」

「浜さんも猫が好きなんですね。ていうか、今日珍しく遅刻してきたのって、子猫を見ていたからですか?」

「言わんとってくださいね」

「言いませんよ。ていうか、私もジッと見ちゃってたんですよ」

「あれは見てまうよ。あの小っちゃい肉球とか見ました? もう、のいのいのいのい~って感じやんか」

「何ですか、その変な擬音」

「あの子らは、どこでも平和な顔して寝てまいよんねん。自由やわ。それが子猫流やねん」

「それが子猫流って、ドキュメンタリー番組のサブタイトルみたいに言わないでくださいよ。どうします? 今行ったら、代わりに尋常じゃないほど大きな猫が寝ていたら」

「それもおもろいよ」

「そして、鬼の形相で睨んでくるんですよ」

「そしたら、そっと写メとって逃げますわ」


 2人が笑いながらゴミの収集所に着くと、すでにソファは回収された後だった。しばらく2人は無言で立ちすくんでいた。普段から少し猫背気味の浜元が、さらに背中を丸めたように見えた。慰める言葉を懸命に探す奏の横で、浜元は顔を上げると言った。


「アカーン! しょんぼりしたら、アカンよ。パーッとから揚げ食べに行きましょ。はよはよ」

「はよはよ」。奏も笑いながら繰り返した。あの日の浜元の様子は、何度思い出しても微笑ましい。

 また、梅雨が中休みしてよく晴れたある日のことだ。帰国して1年がゆうに経ったこともあり、奏はふとした拍子に不安と罪悪感に飲みこまれそうになっていた。自分の気分を分類した7つのうち、この日は「繊細すぎる日」であり、疲労がたまっていたことも原因の1つだ。昼休みに浜元と一緒に外に出ると、浜元は言った。

「シンドそうですね」

「せやねん、です」

「もう、エセ関西弁だけは勘弁して! そしたら、今日は天気もええし、荒川で弁当でも食べません?」

「いいですね、ありがとうございます」

 ほぼ無言で浜元の後に続き、荒川の土手に行った。大人が1人寝転がれそうな大きな平たい岩を見つけると、浜元が言った。

「コンビニ弁当でよかったら、何か買うてきますから、ちょっとここで待っといてください。茶色くてビチャビチャした料理は止めといたらええんですよね?」

「ありがとうございます、サラダスパゲティとか、ちらし寿司とか親子丼とかだと助かります」

「分かりました。明るい色のものやね」

「ありがとう」

 浜元が来た道を戻っていくと、奏は岩の上に腰を下ろした。靴を脱いで、中央で体育座りをする。

 20メートルほど先に、川の流れが見える。耳をすませば、せせらぎが聞こえる。川向うの土手の先には建物が並び、空が広い。小鳥のさえずりを聞いているうちに、いつの間にか脚を伸ばしていた。救急車のサイレンが遠くに聞こえる。トラックを誘導する笛の音が続くと、風が吹き、さわさわと音を立てて草を撫でていく。川岸を、お団子ヘアの50歳くらいの女性が歩いていくのが見えた。ラベンダー色のワンピースを着て、ブルーのストールを片手に持っている。

 寝転ぶと視界は空だけになった。全体的に薄らと雲がかかっているが、ところどころ、青が透けている。空気がゆったりと流れている。流れは奏を包み込み、皮膚の内側に充満していた不安を溶かして、押し流していった。喉の奥には変わらず鉛が詰まっているようだが、それでもずいぶん全身が軽くなった。顏だけ横に向けると、川岸を別の女性が歩いていくのが見えた。スーパーのビニール袋を下げている。人がそれぞれの日常を生きている姿を、こんなふうに遠くから眺めていると、奏はさっきまでの自分と切り離されたような感覚を覚えた。カタリではない、何にも追われていない、自分。束の間の安堵を味わいながら、いつの間にか大の字になっていた。

 近くで人の気配がしたので起き上がると、浜元が笑っていた。

「ちょっと微笑んでますやん。倒れてるんちゃうかと思って一瞬焦ってもうた。僕のエネルギーを返して」

「えへへ」

「何が、えへへやねん」

 その後は昼休みが終わるまで、何も言わずに放っておいてくれた。沈黙が苦にならない距離感が、心地よかった。

 浜元と店にランチを食べに行くと、浜元はいつもハーブティを注文していた。奏はいつもブラックコーヒーだ。耳の後ろで天然パーマをブロッコリーのように束ねている背の高い浜元と、華奢な奏が並ぶのを見ると、たいていの店員さんはハーブティを奏のほうに置く。奏はその場で間違いを正すが、その度に浜元は微笑んで、「意外とこういう、いい香りのものが好きですねん」と場を和らげる。

 浜元は他人と丁度よく距離をとりながら穏やかに愛情を注ぐ、優しい人なのだと思った。カタリをしていてつらくないですか? 口を衝きそうになる問いを、何度も飲みこんだ。きっと浜元にも事情があるのだ。つらいと言わせて、その後奏に何ができるというのか。

■縁

 7月のある週明け。奏は出社後すぐに、ある70代の男性画家にフォローの電話をかけた。前の週の金曜日に営業をして、その場で承諾をもらっていた「権威系」の洋画家だ。

 ほがらかな性格の人だったので、話はスムーズに進んだ。しかし週末を挟んでしまったため、気が変わっていないように念入りにフォローする。ノリがいい人の中には、翌日には気分がコロリと変わって、別人のようになる人がいる。話しやすいからといって油断はならない。

 電話のむこうで、画家の対応は先週と変わらなかった。しかし、契約書など届いていないと言う。わざわざ速達で送ったのだ。予定では先週の土曜日には届いているはずだった。念のため住所を確認し再送したが、火曜日になっても水曜日になっても同じことを繰り返す。聞けば平日の昼間は銀座の社交クラブで過ごしているというので、そちらへ契約書を持参することにした。目の前で印鑑をついてもらうためだ。

 作家とは資生堂ビル付近のカフェで待ち合わせをした。社交クラブの成り立ちや、他にどんなメンバーがいるのかといった世間話も含めて、20分ほど話をした。彼はきっとウェイトレスに会話を聞かせたいのだ。奏は「先生」と呼びかけ、「素晴らしいお作品」だの「高名な評論家が絶賛している」というマニュアル通りのキーワードを、ウェイトレスに聞こえるようなタイミングで使った。

 しかし、いよいよ契約書を取り出す段階になると、画家は印鑑を持ってくるのを忘れたと言う。「構いませんよ。では、サインをください」と奏が言うと、作家は絵に書き込むのと同じ、筆記体のサインをした。

 こんなものが何の役に立つって言うの。奏は舌打ちとともに書類を破り捨てたかったが、感情を隠して新しい書類を目の前に出した。

「先生のサインが入ると、書類も途端にアート作品に見えますね。ありがとうございます。でもここに本名とご住所をご記入ください」

 奏の冗談に作家も笑ったが、アトリエと自宅がいくつかあるので、住所がわからないと言い訳をしていた。こんなことは想定内だ。あらかじめ控えてきた住所を奏が取り出して、社交クラブに一緒に行って確認しようと提案すると、その控えを見ながら渋々記入した。

 ソニー通りのあたりで画家を見送ると、奏は時計を見た。まだ昼前だ。毎日、営業電話を何本もかけ続けるのは大きなストレスだったが、1日2本の歩合給を獲ると決めている以上、営業の時間が奪われてしまうのもまた、苦痛だ。普段ならまっすぐ会社に戻るところだが、この日の奏は、そのまま適当な画廊に入って行った。


 理由はよくわからない。よく晴れた夏の午前中、空気がキラキラと眩いからかもしれない。銀座に流れる時間が、華やぎながら、どこかゆったりしているからかもしれない。カフェで談笑していたり、何の役にも立たないくせに維持費ばかりかかりそうな小型犬を連れて散歩したりする、何にも追われていなさそうな人たちに感化されて、心の蓋が開いたのかもしれない。

 3つ目に入ったギャラリーは、ハーブティ専門店の横の、狭くて少し急な階段を上った先にあった。最初はハーブティの看板が目に入り「浜さんが好きそうなお店だな。教えてあげたら喜ぶだろうな」という気持ちで店先に近づいていった。財布には1800円あるから、奏にも手が届く値段ならお土産に買って帰ろう。入口横にある階段を上ったのも、軽い好奇心だった。そのビルは縦に細長く、一階に一室という造りだった。開け放たれたドアの向こう側がギャラリーだった。

 ペパーミントの香りのする白と明るいオレンジを基調としたミニマムな空間で、奥は一面がクリアなガラス張りになっている。窓の前に正方形の真っ白いテーブルがあり、背が高くてガッシリした若い男性が座って本を読んでいた。

 健康的に輝く肌はほんのりと日に焼けている。がっしりしているので、空色のカットソーも、白地にブルーのストライプがかかったサマージャケットも爽やかに映える。切れ長のアーモンドアイが単行本のページから上がり、優しい視線が奏に向けられた。

 瞳の奥から知的な力強さが伝わる。きりっと一文字に結ばれた口がほころぶと整った白い歯が見えた。天然なのだろうか、ゆるくカールのかかった前髪を後ろへ流しており、耳の数センチ上まで刈り上げている。アートというよりはスポーツ選手といった雰囲気だが、この場にとても合っている。

 パーテーションで仕切られた隣のスペースからは、パソコンを叩く音が聞こえてくる。白い壁には、10号ほどだろうか、縦50センチ強で横45~50センチ強ほどの油絵が15点ほど展示されていた。モネのような印象派が中心で、中には水彩画もあった。全体的に明るい色使いの、おだやかに安定した、優しい絵だった。奏はカタリになる前、美術館に足を運んだり、こんなふうに小さなギャラリーを覗いたりしていた。いつの間にか雑誌すら見なくなっていたが。

 作品の下にはそれぞれサイズとタイトル、作家名が書かれている。ともすれば絵よりも先に、そういった詳細を見ようとする自分を、奏は必死に抑えていた。自社または他社の企画で見たことのある名前だったら、すぐにタイトルを書き留めて、会社に戻るやいなやすぐに電話をかけるだろう。

 また、見たことのない作家でも、所属団体名簿から連絡先を割り出すことなど容易いのだ。名前を頼りにNTTの番号案内に根気強く問い合わせ、連絡先を割り出したことだってある。どちらにせよ、名前を控えたら営業をかけてしまう。

―― 先生! 今、銀座で展覧会をされていますよね。私、本日勉強会の前に偶然、引き寄せられるようにあのギャラリーに入りまして先生の作品を拝見したんです。特に右から3番目に展示されていた○○という作品がとても心に残っています。時間が経つのも忘れて見入ってしまったので、もう少しで遅刻してしまうところでした。興奮が冷めないまま勉強会に参加しましたら、フランス人の有名評論家であるジェイコブ・マルコビッチ先生が『日本にも真心を描こうとしている作家がいる』、と言って先生のお名前を挙げられたんです。思わずジェイコブ先生に、『私はつい先ほどその作品を偶然、生で見てきたんです』って申し上げましたら、ジェイコブ先生は大変喜ばれまして、『偶然だなんて、棚絵、君は幸運の女神がついているんじゃないの?』とお笑いになったんです。そして、そういういい作品に触れる豊かな体験をこれからも積極的に持つようにと、他にも大勢いる前で誉めてくださったんです。先生の素晴らしい作品のおかげで、図々しくも私、ちょっとだけ得意だったんですよ。

 そう言って、電卓を片手に照れくさそうに笑うことだろう。奏はカタリになる前と今とで絵の観賞の仕方が変わった。毎日他社の雑誌の図録を見続けていると、お金を出しそうな雰囲気の作家というものが、絵の雰囲気から、なんとなくわかるようになってきたのだ。もちろんすべて正解するわけではないが、マチエールという、絵の具の塗り方や厚みなどによって変わる絵肌や、デッサンといった技術的な点ではなく、嗅覚で察知できるようになっていた。今目の前に並んでいる絵からも、その美味しそうな匂いが漂ってくる。まるで狩りでもするかのように絵を見て回っている自分に気づいたとき、奏は言い知れぬ淋しさを覚えた。

 神様、以前の私に戻してください。同じ額のお金を稼ぐことができるなら、カタリの仕事はすぐに辞めます。ふと、涙腺が感情にこじ開けられそうになった。奏はギャラリーを飛び出そうとして、バランスを崩した。その拍子に腰を何かに強くぶつけた。

「痛!」。前のめりに転んだので、壁の角に両手で捕まることができなければ、そのまま階段を転がり落ちたかもしれない。

「大丈夫ですか!」

 男性は本を放り出すと窓の前から駆け寄って来て、床に座りこんでいる奏の肩を抱きかかえた。転んだ拍子にバッグから携帯電話やリップクリームや名刺ケースが飛び出したようで、ギャラリーの中央に転がっている。入口付近には小さなテーブルがあり、他の展覧会のハガキがきちんと並べられていた。その角にぶつかったのだ。

 ハガキは乱れ、束が2つほど床に散らばっていた。

「あ、はい。大丈夫です」
 そう言いながら、床に散らばったハガキを集め始める奏を、男性は止めた。
「申し訳ありません。ぶつけてお怪我をされたんじゃありませんか? お立ちになれますか?」

 差し出された腕につかまりながら奏は立ち上がった。しっかりと体重をかけたはずなのに、その前腕は少しも揺れなかった。腰の他に、壁に正面からぶつかったときにヒジも打ったようで痛かったが、アザになる程度で、別にたいしたことはないだろう。携帯電話も割れていないようだし、服だってなんともない。

 パーテーションの奥から、騒ぎを聞きつけて40代と見える女性も出てきた。男性から状況を聞くと、奏に深く頭を下げた。

「誠に申し訳ございません。ヒールでいらっしゃるし、捻挫をしているかも知れません。念のため病院にお行きになってください。誠に恐縮ですが、こちらにご請求いただけませんでしょうか」

 名刺を取り出す。男性が私の携帯電話を拾ってくれた。

「電源は入りますか? 本当にすみません」

「はい、大丈夫です」

 ここまで丁寧に対応するなんて、彼らはどれだけ高額な商品を売っているのだろう。

 ふと浮かんだ思いを奏は振り払った。真美術出版舎の外では、他人の善意を素直に受け止めたい。

「水沢さん、やっぱりこのテーブルは退かしましょう」

「そうしましょう。ただでさえ階段が急なのに、危ないわよね」

 奏は先ほど集めたハガキを数枚持っていることに気が付いた。女性に渡そうとして何気なく見ると、アルバイトを募集している。毎週土曜日と月に一、二度、突発的に人が要るようだ。

カタリと関係ない時間を持ちたい。そう叫んでしまいそうだった。

「あのう、このタイミングで、なんですが」

 心配そうな顔で奏を覗き込む2人に、奏は笑顔でこう言った。

「ここでアルバイトさせていただけませんか」

 これが神門大樹ごうど いつきとの出会いだった。

■神門大樹

 奏は毎週土曜日に銀座に出勤するようになった。

 ギャラリーでは主に店番と、問い合わせ対応が奏の仕事だった。問い合わせといっても、展示料金や取扱いのある作家に関するものは、オーナーの水沢に取り継げばいい。奏は駅からギャラリーまでの道順を説明したり、展示中の作家が来ている時はその相手を、彼らが食事に出ている最中に来客があれば電話で伝えたりするといった程度だ。

 10時から18時までの実働7時間。時給千円で、池尻大橋からは片道30分、320円をかけて通った。銀座と池尻大橋間は、渋谷を境に鉄道会社が変わる。そのため1駅目の池尻大橋までは、2分しか乗らないのに初乗り料金の125円がかかる。奏はそれを浮かせようと、晴れた日はスニーカーを持参して渋谷から20分ほど歩いて帰った。運動にもなったし、気分転換ができてよかった。

 奏が初めてギャラリーに行った日に店番をしていた神門大樹は、お婆様がときどき展示しているのが縁でアルバイトをしている、25歳の大学院生だった。

 将来は弁護士を目指しているという。仕事は主に大樹から引き継いだ。奏が出勤の日で水沢がギャラリーを留守にする日は、大樹が水沢の代わりに出勤した。7月の土曜日はほぼ大樹と一緒だった。奥沢の実家に住む大樹は、涼しい季節は1時間半ほどかけて自転車で通っているそうだ。雨の日と夏場は電車を使うらしく、駅までの数分を2人で他愛ない話をしながら歩いた。奏はその時間が徐々に楽しみになっていた。

 ギャラリーでは、平日は美術関連の自費出版をしている小さな出版社に勤めていると言っていた。我ながら未練がましいと自分でわかっていながらも、アメリカの大学に留学していて、家庭の事情でやむなく中退したことも話していた。

 大樹は奏の大学のことや、仕事をしているのにわざわざ週末も働きたい理由や、家のことについて詮索しようとしなかった。奏の不器用さは大樹に伝わっていた。明るく安定している日ばかりではない。

「今日は、ちょっと、お先に失礼します」

 仕事後に普段は一緒に帰る奏がこう言えば、話しやすいように水を向けてくれるか、快く先に帰した。身体が大きく穏やかな性格の大樹は、一緒にいると奏をまるで大型犬の傍にいるように安心させる。また、奏は知識量も人としての器も、何ひとつ適わない大樹を尊敬していた。

 奏が大樹に感じる居心地のよさは、ちょうどいい距離を保ち続けてくれるからだけではなかった。柔らかな物腰や、勉強に打ち込むストイックさ。また、それを継続できるほど、精神を安定 させている芯の強さに引かれた。

 そんな7月の下旬、大樹に食事をご馳走になった。ギャラリーと駅の中ほどに、小さな神社へと続く細い路地がある。奏はこの路地に入るのは初めてだった。神社には橙色の照明が灯り、表通りの喧噪から切り離されたような静かな雰囲気だった。

 大樹が奏の半歩ほど先を歩く。いつもながら背筋がピンとのびていて、淡いピンクのポロシャツがエレガントに映える。神社の手前の左手にその店はあった。木造りのテラスには小さなテーブルと、ウイスキーの樽が置かれている。大きな木のドアを開くと、女性の店主が大樹を笑顔で迎えた。顔なじみのようだ。店は小作りで、カウンターの他にテーブルは4つ。2組ほど先客がいる。2人は最も入口に近いテーブルに案内された。

 席につくと飲み物を聞かれた。ウイスキーが豊富に揃っているそうだが、奏はまったくわからなかったので、大樹に任せた。

「僕も全然詳しくないから、お店の人に教えてもらおう」

 店主は可愛らしい雰囲気の人だった。奏が印象をそのまま伝えると、店主は明るい声で笑いながらお礼を言った。

「あの人は音楽に精通しているんだよ。ここのお店はこの界隈の音楽好きが集まる場所でもあるんだって」

 そう言うと大樹はテーブルにメニューを開いた。無農薬野菜の創作料理のレストランだった。奏は新鮮なサラダを数種類とニョッキを選んだ。先ほどの店主が目の前のグラスにハイボールを注ぐ。

 大樹はトワイスアップという飲み方を選んだ。ウイスキーのグラスに――大樹はアイラシングルモルトが好きだという――常温の天然水を同じだけ注ぐ。店によってはそのまま一晩寝かせるそうだ。

「以前あるバーで、これがウイスキーの香りを味わうのに、最も適した飲み方だって聞いてから。それ以来はまっているんだ」

 そう言うと大樹は少し照れくさそうに笑った。細めた目尻と、普段は一文字に結ばれている口の角が上がる。大樹が笑うと、いたずらをした子どものような表情になる。

「では、お疲れさま」

 そう笑ってグラスを合わせる。とても照れくさかったが、ウイスキーは柔らかくて甘く、とても飲みやすかった。目の前に運ばれてくる色とりどりのサラダを眺めていると、奏の脳裏に留学先での食生活が蘇った。1年前まではいつもシンプルに整った清潔な部屋で、タイラーと微笑み合いながら、新鮮な野菜をたっぷり食べていた。

「どうしたの?」

「あ、ゴメンなさい。ボーっとしてましたよね? 野菜がきれいだなって、つい見とれてしまって」

 奏は少し慌てて答えると、大樹は声をあげて笑った。

「不思議な子だね。つくづくそう思う」

「そうですかね」

 大樹は笑顔で頷くと、少し高めのまろやかな声でこう言った。

「そういえば僕は、奏ちゃんを初めて間近で見たときに、『この人は腹に何かを持ってる。ただの美人じゃない』って思ったんだよね。そして、こんなふうに一緒に仕事をするようになって話す機会が増えるごとに、美人でぶっ飛んでて繊細だなって思うようになったんだ。あとね、ついでに言うと君はテヘペロが似合わない」

 テヘペロとは、「てへへ」と照れ笑いをしながら「ペロッ」と舌を出す動作のことだ。何かをお茶目にごまかす時などに使う。大樹の言葉を聞いて、奏は思わず声をあげて笑った。

「ありがとうございます。初めて言われましたけど、テヘペロが似合わないっていうのは、ある意味で最高の誉め言葉です」

 まるで数年ぶりに笑ったように感じた。全身の力が緩んだ。そのとき初めて、奏はどれだけ全身に力がこもって入っていたのかに気付いた。 大樹とは会話を重ねるほどに、呼吸が合うことを実感する。積み上げるように新しく知っていくというよりも、すでにあったものを確かめていくというほうが近い。奏はいつもアートについての話を避けていたが、お酒が入ってリラックスした頃、ふと口を衝いた。

「本当は私、大瀧おおたきはじむさんの作品が好きなんです」

「本当はだなんて、変な言い方をするね」

 大樹が微笑むと、奏は胸が締め付けられた。好きな絵をただ好きだという基準だけで見ていたい。今はもう、雑誌で目に入る絵でさえカタリに紐づけて見る癖がついている。

「確かにそうですよね。でも、なんとなく大樹さんにはこんな言い方をしちゃいました」

「展覧会を見に行くこともあったの?」

「はい」

 奏は高校生のとき、シエロと現代美術やファッション関係の展覧会を、美術館や小さなギャラリーに見によく行っていた。もともとは2人が共通して読んでいたファッション雑誌で、美術館を背景に撮影していたり、近代美術館の売店で取り扱われている個性的な雑貨を見かけて惹かれていた。また、ファッションセンスに定評があるミュージシャンやクリエイターなどの多くが、「休日にはギャラリー巡りをする」とコメントしていたことで、興味を持った。

 実際に初めて足を運んだのは、ラフォーレ原宿の6階にある「ラフォーレミュージアム」だった。複数のクリエイターや美術家がTシャツに、それぞれのデザインをプリントした展覧会だった。

 東横線沿いにある高校から、放課後2人で見に行ったのだ。シエロはともかく、奏は内容よりも展示を見に行っていること自体に興奮して いたが、その後も雑誌やネットで調べていろいろな展示に足を運ぶうちに、現代美術が好きになった。観賞していると、作品が奏を発想できる限界の外側に連れていってくれるような感覚になった。いつの間にか鈍っていた心が解き放たれて、想像力という翼で自由に羽ばたく瞬間の心地よさは、他の何者にもかわることができない。

■宿り木

 大瀧 一という現在アーティストを知ったのは、渋谷の大型書店の美術書コーナーだった。前衛的と言える油絵に、一発で魅了された。力強く自由でありながら、繊細なあたたかさを感じた。店頭にあったチラシにより、近く現代美術館で大瀧の個展が開かれると知り、シエロを誘ったのだ。彼女も二つ返事だった。奏は大樹に、その日のことを話した。

 冬の初め、冷たい雨が街中をザブザブと洗い流しているような日だった。バスを下りた途端、美術館の屋根に掲げられている、ピンクのネオンが目に飛び込んできた。大瀧の活動拠点である地名が書かれていた。2人のテンションは一気にマックスまで高まった。

 作品は時系列に沿って展示されていた。とりわけ、大瀧が目の神経を患っていた間に制作した作品群が奏を魅了した。彼はデビュー直後の数年間、手術を繰り返しながら常に失明の可能性を医師に突きつけられていたそうだ。その時代の作品群は、黒で塗りつぶしたような大きな油絵から始まった。その奥に1点だけ、深い緑で描かれた小さな風景画があった。光の加減かと思い何度も確かめたが、そうではなかった。作品群の最後に1つだけ、深いところで世界のあり方が異なっていた。まるで、ほんのわずかに光がさしたようだ。

 壁の奥に進むと、今度は壁一面に、大きなコラージュ作品が展示されていた。素材のほとんどを占める、腐りかけているような大量の落ち葉を見ていると、まるで樹海の中で下を向いて歩いているような錯覚に陥った。見たこともないコーヒーショップのロゴが印刷された紙コップや、誰かが履き捨てたような片方だけのスニーカー、煤けたヌイグルミや、まるで引き千切られて散らばっているようなネックレスの欠片から、生々しい匂いや湿度が伝わってきた。

「これは私の勝手な想像なんですけど、例えば絶望して項垂れながら森の奥深くへ向かっていた人が、そんなときでも目に映るものの美しさに気づいて心を奪われてしまったっていう気がしたんです。あのコラージュからは、どんな状況や心境でも生きているっていう現実とか、表現者の“業”とかが伝わってきて、魂が奮えました」

 奏の話を大樹は、笑顔で頷きながら聞いている。

 次の作品を見るためにはエスカレーターで下りることになっていた。移動していると、ちょうどエスカレーターが折り返すあたりに設置された大きなソファで、若者が数人、仰向けでグッタリとのびているのが見えた。奏には彼らの気持ちがよく理解できた。さらにフロアを下りると、とても大きなサイズの油絵が展開されていた。視覚をテーマにした抽象画が多い。奏は圧倒されるというよりも取り込まれるような感覚に陥った。見るというよりも、体験しているといったほうが正しかった。

 そのうち奏は、美醜を判断するのは感覚や感情で、網膜が捕らえているのは情報なのだと思った。例えば何かが起こったとき、皮膚の外側で実際に起こっている現象とそれに反応して皮膚の内側に起こる現象との2つがあって、それらは必ずしも合致しない。自分がどう選択するかで、見える世界は変わるのかもしれない。絵の前で奏がそう言うと、シエロが頷きながらこう返した。

 今ものすごく辛い思いをしていて、目の前の景色がどんなに絶望的に見えているとしてもさ、身体が見ている風景って実はずっと変わらず美しいのかもしれないよね。

 会場を出る頃には2人とも、あまりのパワーにあてられて朦朧としていた。出口からロッカーまでの途中にミュージアムショップがあり、そこでリュックを背負った小学生の女の子が2人、大瀧の書いた絵本を覗き込んでいた。黄色いレインコートを着込んだ背中があまりにも幸せそうで、なんだか涙が出そうになった。

 饒舌になった奏が話し終えると、大樹は笑顔のまま言った。

「実は僕も大瀧さんが大好き。雨の日じゃなかったけど、その展覧会にも行ったよ」

 大樹はその展覧会の名前を挙げた。奏は一瞬、声が出なかった。

「うわぁ、なんだか運命を感じますね」

 茶化したが、奏は勝手にそう感じていた。ふと大樹が言った。

「そうだね。というか、本当に運命を感じてたりするといいな」

「え? どういう意味ですか?」

「俺は感じてるので、奏ちゃんのほうがね、必然的な出会いって思ってくれると面白い。そして、嬉しい」

「ビックリした。今まで僕がそう言っていたから、バカな棚絵は本気にしただろう? っていうことかと思いました。そしてさらに、それをブラックジョークか本心が探れよっていう意味なのかと」

 奏がそう言うと、大樹は笑った。

「勘ぐりすぎだから。それでもいいけど、僕はそこまで底意地悪くないかな」

 奏も笑った。

「私にとって必然だったような、穏やかな確信があるんです。上手く伝わるといいんですけど、見えなかっただけでずっと前から同じ部屋にいる人っていう確信です」

「よくわからないけど、わかる気もする。不思議な人だね。でもまさか、危険な位置に机を置いてしまったっていう不手際が、こんな展開を生むとはね」

「不思議なようであり、自然だなって思います。こんなふうに素の想いを大樹さんに普通に話していることも」

「そうだね。話すっていうことは、心の一部を相手に預けているということだもんね」

「そうですね。確かに、そう」

「なんだか今までにない関係を築けるかもしれないって思うな。奏ちゃんとは、流れるように仲良くなっていく感じが自然すぎるんだけど、上手くつながるときってこういう感じなのかな」

「そっか」

「すべては流れだよ」そう言うと、大樹は微笑んだ。「僕は、奏ちゃんは何か大きなものと闘ってる感じと負けていない感じがして、それを見ていてモチベーションがあがるんだよね。僕は奏ちゃんの宿り木になりたいなと思うんだよ」

「宿り木って?」

「大きな樹の枝に、丸いボールのようにツルを絡ませて生えている木のことだよ。丈夫だし、食べられる実をつけるから、鳥が越冬するときの巣になるんだって」

「そっか。鳥にとって、吹雪の夜でも安心して眠ることのできる、居場所なんですね」

「奏ちゃんが立ち寄って、飛び立つのを見送り、また待つイメージ。なんとなくそうなるんじゃないかって勝手に思っているんだけど」

「そうしたら私が弱いと宿り木に依存して立ち上がれなくなるかもしれないので、自分の尺度で強くあれば幸せですね。同じところに止まり続けられたら、枝が曲がるので」

「それでもいいんじゃない?」

「最初それでもいいって言いますけど、結局は曲がるんですよ」

「同じ所によらないようにするのも宿り木の役目だと思うよ。だって僕が倒れたら、奏ちゃんも面白くないかなって思うから。ここで無理すると関係が崩れる。それでもいいって言って、奏ちゃんを受け入れたら、本当にそうしないといけない。そうならないようにするまでに時間をかける必要があるんだと思う」

「そうかも。なんていうか、恋愛感情っていう性欲に目がくらんでいるときの男の人が見せる包容力って、言葉半分くらいがちょうどいいのかなって思うんです。実は私けっこう感情の起伏が激しい面があるんですよね」

「なんとなくわかる。基本的には温厚そうだけど目の奥が鋭いから」

「大樹さんは、いろんなタイプの人に慣れていると思うんですけど、慣れていない人は、それでもいいって言ったとしても、ついてこられないような気がするんですよね」

「なんか、背中から冷水を浴びせかけるような言い方をするな。大胆で繊細だよね」

「すみません。私、自意識過剰なのかも知れません」

「そこがいいんだけどね。自意識が邪魔なら、カカシと話せばいい」

 奏はただ素直に話した。相手からお金を引っ張り出すための釣り針を言葉尻に1つも仕掛けない会話は、とても久し振りだ。

 店を出ると少しひんやりとした風が路地を抜けていった。いつの間にか雨が降ったようだ。奏と大樹は表通りまでの道を数分かけて歩いた。とても静かな時間だった。

 ふと大樹が口を開く。

「奏ちゃんは優しいね」

「はい!? 私が?」

「優しいよ」

「ありがとうございます。そんなふうに言われたことないです」

「厳しいけど、優しいさ。柔道とかもそうだし、格闘技やスポーツ全般にいえるけど、強い人ほど、シンプルで直球なものだよ」

 そう言うと大樹は、大きな手で奏の肩をそっと掴み、抱きよせた。「ハグしてもいい?」。奏の顔が大樹の冷えた頬に触れる。心臓が破れそうなほど激しく打っているが、とても安心する。吹雪の中でも、宿り木の枝に守られながら、いっとき翼を休める鳥たちの気持ちがわかったような気がした。奏は大樹の背に手を回すと、そのまま顔を押し付けた。大樹も熱い両腕に少しだけ力を入れて、奏を包んだ。

 2人は付き合うようになった。自分でも驚くほど、自然な流れでそうなった。奏にとってのおだやかな確信は、一緒に過ごすほどに確かなものとなっていく。

 付き合ってからも大樹の人としての安定感は変わらなかった。毎日傷だらけで狩りに出ているような奏にとっては重要な拠り所になった。かといって、奏が大樹に依存することはなかった。奏が借金に追われているのは奏が選択した結果であって、大樹には関係がないからだ。奏にとって大樹は、不思議な人だった。例えば車を借りてドライブに行ったとき、ドライブインで大樹は何も言わずに奏の分もメロンパンとコーヒーを買って来た。

「名物なんだって。一緒に食べない?」

 そう嬉しそうな顔をして、財布を取りだそうとする奏を笑いながら制する。また、大樹の友達も含め数人で遊んでいるときなどに、お菓子か何かをもらった場合も、必ず大樹はみんなとわかち合った。

 物に限らず時間や労力もそうだった。何の見返りも期待せず、当たり前のこととして、他人に自分の持っているものを分けていた。そんな大樹の親切さに奏が慣れるまで時間がかかった。何かを提供したわけでもないのに人間関係が成立することが、奏には信じがたかったのだ。そのうち何かを売りつけられたり、勧誘されたりするのではないかと思って警戒したことも少なくなかった。カタリになる前は奏にとっても当たり前のことだったのかもしれないが、以前はどうだったかなど、もう覚えていない。

 大樹と会うことで、奏がカタリであることを実感することがあった。バイト先ではないギャラリーで絵画鑑賞をしたとき、奏の見方は作品の魅力ではなくて、それを描いた人が顕示欲によってお金を払うかどうかだった。ギャラリーを出た後にお茶を飲んでいても、大樹の言う絵を奏が覚えていないことが多かった。絵の構図や雰囲気を覚えている大樹に対して、奏はその作家の所属団体や名前ばかり覚えて、作品はほとんど見ていなかった。

「奏が独特の見方をするのは、自費出版の編集者だからなのかな?」

 そう言って苦笑することがあった。もしかしたら大樹は奏の知識の偏りに疑問を持っていたかもしれない。一方で、大樹と付き合っていくうちに奏は、人との関わりを大切にしている大樹からあたたかなものをたくさん学んだ。奏の周辺を朝霧のようにゆっくりと満たして、呼吸するごとに少しずつ内臓に染み込んでいくようだった。

「後で電話するね」

 別れ際に大樹がかけてくれる一言が、奏にとって御守りのようなものだった。しかしあたたかな潤いは、奏の心に隙をつくる。それが弱さとなり、お金を追うとき邪魔になることが少なくなかった。大樹に会った翌朝などは特に、奏の皮膚の内側で警鐘が鳴り響いていた。このまま大樹との付き合いを続けていくと、奏はカタリで稼げなくなるだろう。自分を偽らずにカタリとしてお金を稼ぎ続けるためには、まず誰よりも自分を騙しきる必要がある。迷っている人間には、誰も大金を払わないからだ。

■初めての展覧会

 奏は大樹と付き合うようになってから、カタリの現場で意識を切り替えるのに今まで以上にエネルギーが要るようになってしまった。シエロと話した後も同じだ。背中に冷たい滴が突然ポタリ、垂れるように、後ろめたさと疑問が奏の足を止めようとする。

 カタリになって半年以上が経った頃、借金は6千万円から5千万円近くまで減ったと佳澄から聞いた。雄一郎が振り込む金額は月によって変動するものの、少しずつ大きくなっている。佳澄は電話しているようだが、奏は雄一郎と1度も話していない。話せば責めてしまいそうで怖いのだ。現実として尻に火はついたままだ。無理やりにでも頭を切り替えるしかない。

 前にも軽く触れたとおり、真美術出版舎で企画するコンテンツには画集の他に展覧会がある。会場は安価で借りることのできる公的な会場であるにも関わらず、参加費用は10万円から、人によっては2、30万円。

 参加者は50~60名で開催期間は1週間だ。出展品のサイズは縦91センチ×横60.6~91センチの30号までの作品に限られている。持ち運びがしやすいし、小作品であれば参加者の数を多くできるという理由からだ。

 とはいえ、中にはサイズの大きな作品を出展したいといって聞かない作家がいる。これは先ほどの分類で言うところの「謙虚なふりしたムッツリ権威系」と「権威系」に多い。自分だけは特別な扱いを受け、誰よりも目立ちたいという気持ちが強いのだ。

 こういった場合はすべて引き受けていては切りがないので、契約にかかる時間が短くて済み、かつ金払いのいい太客から3名まで、50号(縦116.7センチ×横80.3~116.7センチ)を上限に出展を受ける。彼らが決断に時間がかからないのは断るときも同じだろう。特別に優遇するに越したことはない。一方で、支払が遅れがちな「謙虚なふりしたムッツリ権威系」の作家から1名選ぶこともある。次の企画が始まるときのために恩を売っておくのだ。

 作品は開催の2週間前までに会社へ送ってもらう。配送料はこちらで持ち、梱包は作家に委ねる。半数近くの人は、こちらが手配した運送会社をキャンセルして、わざわざ美術保険をかけて送ってくるが、そうでない人もいる。

 展覧会の開催の前2日間は搬入にあてている。それまで会社で保管した作品を、真美術出版舎の男性陣3人に加えて外部の2、3人に手伝ってもらった。派遣会社に登録したり求人広告を出稿したりするのではなく、たいてい黒澤の知り合いに来てもらっていた。つまり作品の搬入と搬出は素人が行っていたのだ。

 実際に展覧会が始まると、社員は1日交代で現場に行った。というのも同時進行で画集の営業もしていたため、誰かは会社に居て通常どおり営業電話をかけたり、問い合わせに対応したりする必要があったからだ。問い合わせは美術館への行き方がわからないという人や、展覧会において自分の作品の反響を気にするものが大半だった。それはそれで大変だったが、展覧会場に行っても気の休まることなどなかった。電話はどんなに長引いたとしても最中は1対1で済むのだが、展覧会場には作家たちが同時に複数来ている。その全員が自分を特別だと言ってほしがって、担当めがけて群がってくる。

 展覧会場には他の作家も集まっているので、普段よりも声のボリュームに気を付ける。目の前の人を誉めているところを他の作家に聞かれて、ヘソを曲げられては面倒だからだ。また、どの作家にどのテンションで電話をしていたのかも間違わないように、ポケットにメモを忍ばせていた。展覧会をする前までは、カタリ営業から解放されると喜んでいたものの、蓋を開けてみれば会社で営業電話をかけているほうが楽だった。

 カタリになって7カ月が経った10月のある日。奏は会社に1人残って留守番をしていた。他の3人は港区の美術館で、展覧会用の搬入作業をしていた。奏が留守番を任された主な理由は営業の他にもう1つ、作家への丁寧なフォローがあった。最近テレビで悪徳商法の対策を取り上げた番組が放送された影響で、契約を破棄ようとする作家が多くなっていたのだ。クーリングオフが可能な8日間に、消印の付いた内容証明郵便でその意思を表明された場合は受けるしかないが、たいていの場合はキャンセルの電話がかかってきた。作家にしてみれば文句の1つも言いたいのだろう。

 もちろんこちらにも考えがあった。キャンセルの電話を受けたら、そこで再度営業するのだ。相手の顕示欲をくすぐる誉め言葉を浴びせながら、契約を破棄したい理由を丁寧に聞き取る。そしてそれを1つ残らず論破する。もともと煽てられて契約をした人たちだ。断る理由を潰されると遂行する理由しか頭になくなる。そうなると物事を実に都合よく解釈してくれるので、中には契約に至ったときよりも、より信頼関係が強固になる場合も少なくなかった。クーリングオフはその期限を過ぎれば効力がなくなる。

 この日は電話もほとんどなく静かなものだった。用心のために奏はドアに鍵をかけて、悠々と贋作画廊や美術界を舞台にしたサスペンスのマンガ本を読んだり、大樹やシエロとLINEを交わしたりしていた。搬入途中の人からの連絡にすぐ対応するために、その日は営業電話をかけなくてもいいことになっていたのだ。3人は会社と美術館を行き来して、展示作品や什器、ガムテープなどのこまごまとした物を運びこんでいた。

 午後2時頃、浜元が担当している作家から電話があった。契約書を紛失したのでFAXしてほしいという。作家の元へは挨拶文、契約書、企画パンフレットを1セットに発送する。普段その作業はすべて野辺がしていた。それらのストックは本棚の横の小さな棚に仕舞われていて、必要に応じて誰でも取り出していいことになっていた。とはいえ、ほとんど野辺と黒澤の私物入れのようになっていて、奏はストックが入っている引き出しを実際に開いたことはなかった。

 一番上の引出しにはパンフレット、その次に契約書のストックが入っていた。作家によって分割回数が異なるので、配送するときに黒澤が手で記入しているのだが、3回や6回などある程度決まっているものは書き溜めていたようだ。その書きかけの契約書と一緒に、宅配を受け取るときに使うのだろう、三文判も無造作に入っていた。契約書は角がバラバラに重なった状態で放り込まれている。奏は契約書を取り出すと角を揃えて、引出しの角にもピタリとセットした。

 パンフレットも同じように乱雑に仕舞われていた。引出しから取り出すと、底に2つに折りたたまれた書類があった。顔写真が透けている。履歴書のようだ。開いてみると数人分の中に奏の履歴書もあった。それぞれコピーも重ねられている。

 何かいけない物を見てしまった気がして一旦はそのまま戻した。しかし気になってしかたがない。遅かれ早かれこの仕事を辞めるときが来る。その後も履歴書が会社に残っていたらマズいことに発展するかもしれない。まだその兆しもなく人間関係も良好だから実感が湧かないだけだ。今の内に処分しておこうか。こんなふうに会社に1人で残るチャンスはこの先あるかどうかわからない。やるなら今しかないだろう。

 奏は意を決して引き出しから自分の履歴書を取り出すと、通勤バッグの一番下に隠した。まるで胃袋を素手で持ち上げられたような強い違和感があり、振動が高鳴った。

 画集に絵を3点掲載するといって、120万円の契約をとったときと同じくらい緊張した。奏にとっての最高額である。黒澤の指示により額を決めたのだが、奏が3ケタを超える契約に挑んだのは初めてで、眩暈がするほど緊張した。その後も3ケタを提示することはたまにあるが、額の大きさに怯んで、103~107万円あたりを細かく刻んでいる。

 18時過ぎ、黒澤から事務所に電話があった。

「お疲れさま。何か変わったことあった?」

「いえ、何もありません」

 契約書をFAXした件は伏せることにした。いつになるかわからないが、黒澤が履歴書の紛失に気づいた場合、何かの拍子で今日のことを思い出さないとも限らないからだ。

「わかった。どうもありがとうね。僕たちはこれから食事をして適当に帰るから、棚絵さんはもう上がってください。事務所の鍵は持ち帰ってもらって大丈夫だから」

「ええー、鍵を持ち帰るのって緊張しますよー」

「大丈夫。失くさんとってな」

「がんばります」。軽口を言い合って笑いながら、奏は戸締りをして会社を出た。奏は家に帰るとすぐに通勤バッグの底から履歴書を取り出し、ハサミで切り刻むとフライパンの上で燃やした。

■現金と飛ぶ男

 給料日である10月の末日。会社の経理を任されていた野辺の行方が、急にわからなくなった。朝の時点では誰もが、昨晩飲み過ぎたか何かで、寝坊でもしているのだろうと思っていた。昼になっても携帯の電源は切れたままだったが、それでもまだそう信じていた。

「だらしないなあ。このまま無断欠勤するつもりやろうか」

 黒澤は少し呆れていただけだった。しかし昼ごろ、「飯のついでに銀行で記帳して来よう」と言いながら、通帳を準備しようとすると、みるみる顔が青ざめていった。通帳は普段、野辺デスクの引き出しに保管されており、黒澤も共通の鍵を持っていた。引き出しを開けると、通帳が見当たらないと言う。会社の重要書類や印鑑は、下のフロアにある小型金庫に保管してある。黒澤は踵を返すと、下のフロアに向かった。奏と浜元も後に続こうとすると、黒澤は振り返り、このまま昼休憩に入るように告げた。

 1時間後、昼休みから戻ると2人は7階の事務所を覗いた。しかしドアには鍵がかかっていた。8階に戻ると、そこに黒澤がいた。こちらに背を向けて機械的に電話をかけ続けている。野辺のデスクや普段使っている引き出しはすべて開かれていて、机の上に書類が何枚も広げられていた。歯を磨き終えた奏が席に戻ると、ちょうど黒澤の電話が終わった。黒澤の表情は、普段の好々爺然としたものとはまるで違う、鋭いものだった。奏も浜元も薄々勘付いていたとおり、野辺は会社を勝手に自主退社していた。それだけでなく、通帳ごと会社のお金を持ち逃げしたようだ。

「あいつ、金を持って飛びよった」

「飛んだ、というと?」

 奏が呟くと、浜元が答えた。

「急に、無断で行方をくらませてしまったんですよ」

 黒澤の様子から少なくない額だろうと察しがついた。野辺と黒澤とは同郷で、とても長い期間、付き合いがあると聞いていた。絆は深く野辺は黒澤の右腕だと信じていたので、心配して見守ると同時に、不謹慎だとわかりながら心のどこかで事件を面白がっていた奏も、裏切られたと知ってショックを受けた。

 奏と浜元はいつもどおりカタリの電話をかけることにし、黒澤も奏たちに背を向けて、再び電話をかけ始めた。その背中から黒澤の鬼気が伝わってきた。

 始めの2、3本は地元の共通の友達にかけたようだった。電話口では普段の黒澤に戻っており、「もしのんさんを見つけたら連絡してな。でも、のんさんには気づかれんようにしてや。サプライズで喜ばしたいことがあるねん」と締めくくった。何気ない世間話をしていたようだったが、共通の友達の状況を把握するために撒き餌をしているようにも感じた。4件目にかけた電話は今までの口調とは少し違っていた。地元の先輩なのだろうか、取引先なのだろうか、硬い口調から黒澤がとても緊張していることが伝わった。電話相手の名前を黒澤が口にしたときに、それまで粛々と営業していた浜元が肩をビクリとさせた。

 浜元はちょうど次のカタリ電話をかけようとしていたところだったが、「河原さんは無いわ」と呟くと、そのまま受話器を置いた。その後、資料を見るふりをしながら黒澤の様子を伺っている。奏も同じだった。黒澤の電話が終わった時に、浜元が声をかけた。

「社長、あの人を出すのはないわ。危な過ぎるで」

 浜元の忠告を黒澤は鼻で笑った。こちら振り向いて浜元を見つめる。その鋭く冷え切った視線は奏が初めて見るものだった。

「そうか?  足りひんぐらいちゃう。持って飛ばれた金額は800万やけど、他に貸しとった分がまだ50万くらい残ってねん。回収するために働かせとったけど、完済前にこんなことしやがって。俺の精神的苦痛も大きいわ。のんさんは前科があるから、簡単にはパスポートを作られへん。せやから絶対に国内におる。金が底をついたら都心に稼ぎ口を求めて出てくるのはわかっとるけど、その前に絶対に俺が捕まえたんねん」

 奏はそれまで黙って自分の仕事をしていたが、思わず口を挟んだ。

「あのう、警察には届けないんですか?」

 黒澤の視線が奏に向けられた。黒澤は奏の存在を忘れていたようで、目が合ったときにふと我に帰ったような表情をした。「ああ、そうやな」そうつぶやいて、頭を揉みながら黒澤が続けた。

「警察に行ってもお金が戻ってくるわけではないねん。それに、長年友達だと思っていた人から裏切られた俺の心の傷は、普通にのんさんが見つかっただけでは埋められへんのよね。でもまあ、そら最終的には警察に行こうと思うよ。なんだか棚絵さんにまで怖い思いというか、不安な思いをさせてしまってごめんな。机の上とか散らかしちゃったから、電話に集中しにくいかもしれないね。でも大丈夫だから、今日はいつもどおりに仕事してくれたら嬉しいです」

 そういうと黒澤は微笑んだ。奏と話している間は、言葉も少しずつ標準語に戻る。きっと余所行きの黒澤なのだろう。浜元も奏も返す言葉がなくただ3人は見つめ合っていた。ゆっくりと深呼吸をすると黒澤はそのまま事務所を出て行った。下のフロアにこもり、引き続き野辺の包囲網を張り巡らせるのだろう。

 その日はそれ以降、野辺のことについて言葉を交わす機会はなかった。19時になり、浜元と奏は一緒に事務所の外に出た。一緒に帰るのは初めてといえた。いつもは冗談ばかり言って笑っている浜元が、今日は昼から口数が少なく、帰り道は珍しく黙り込んでいた。奏も混乱しており、言葉が見つからないまま並んで歩いた。

 そろそろ駅が見えるという頃になって、浜元は重々しく口を開いた。彼の背後に、燃えるような夕日を浴びて、くっきりと影を浮かび上がらせた、杉の木が何本も並んで見える。寒いくらいに冷えた夕方の風が、奏の頬を乱暴に撫でた。

 奏が黙っていると、浜元は言った。

「もしかしたら、そろそろ潮時かも知れませんね」

「うーん、野辺さん、このまま戻ってこないんでしょうかね」

「戻ってこおへんと思いますよ」

「私たちだけで、売上を維持できるでしょうか」

「潮時って言ったのは、従業員の数が減ったから営業に支障があるっていう話ではないんです。さっきね、野辺さんを探すために社長から電話をかけてた人がおったでしょう?  あの人、けっこう危険な人なんです」

「危険って?」

「まあ、言葉の通りです」

 いつもはあっけらかんと話してくれる浜元が、二度もはぐらかしたことが妙に気になった。

「野辺さんが立ち寄りそうな場所ってどこか思い当たらないんですか? 浜元さんも大阪時代から仲がよかったんですよね」

「いえ、僕は何も知りません。そもそも僕はこっちに来て初めて会った人やし」

 いつだったか野辺と浜元の3人で昼食をとった日に、会社を設立した経緯について野辺が話したことを思い出した。もともと黒澤がデザイン事務所を立ち上げたかったそうだ。その資金を集めるために、黒澤は3年を目途にカタリの仕事を続けることにしたという。

 業務委託のデザイナーが来る前から黒澤は実際にデザインコンペにも参加しているようで、大阪から集まった野辺と浜元は、黒澤の夢を応援するために手伝っていると言っていた。その話を聞いたとき、両親を支えるためにがんばっている自分と2人の気持ちが重なって、とても励みになったことを覚えている。特に野辺は黒澤の才能を絶賛していただけに、奏は今回のことが淋しかった。

「そうだったんですね。てっきり長い付き合いなんだって思ってました。仲よしだし」

 奏がそう言うと、浜元は首を横に振った。先ほど黒澤の話からなんとなく予想はついていたが、浜元によると野辺は黒澤から借金を重ねていたようだ。それを回収するために黒澤は野辺を雇い、給料から返済額を天引きにしていたのだと言う。野辺にお金が必要だった理由はわからない。パソコンを頻繁に買い換えていたり、IT機器をよく買っていた。好きなアーティストが来日すると言っては頻繁にライブ会場に足を運んでいた。それなりにアクティブで羽振りのいい生活だと思っていたが、すべて借金だったのだ。

 浜元はずいぶんと自堕落な生活をしていたようだとは言ったが、具体的な内情までは知らないようだった。

「クスリと風俗っていう話も兄貴から聞いたことありますけどね。ホンマのところはわからん。あ、兄貴って言うてもた」

 そう言うと浜元は力なく笑った。

「大丈夫ですよ。もう1年近くも一緒にいる仕事仲間じゃないですか、何も聞きませんでしたよ」

 何か込み入った事情があるのかもしれない。奏がそう言うと、浜元は肩をすくめた。

「そこちゃうねん。うーん、この話を聞いても明日ちゃんと会社に来てくれます?」

「来ますよ。私にはお金が必要だし。他に行くあてもないし」

 奏が笑いながら言うと、浜元は言った。

「頭の回転が速い棚絵さんは、もしかしたら気づいていたかもしれないんですけど、俺、本当は浜元じゃなくて黒澤なんです」

「え、どういうことですか?」

「俺、黒澤社長の弟やねん。会社が軌道にのるまでは支出を抑えたいっていうのもありますけど、うちって非合法スレスレの仕事でしょ? 情報が漏れないように身内で固めたんですよ。僕が本名を隠して営業していたのも、同じ理由です」

 奏は後頭部を鈍器で殴られたような衝撃で、軽い眩暈がした。身を護るために本名を隠す必要まである仕事だったのか。奏も履歴書を処分しておいて本当によかった。とはいえ奏も1年近く働いているのだ。痕跡はいたるところに残っているだろう。

■優しいごはん

 野辺が姿を消してから、契約書の作成も含め、今まで野辺が担っていた仕事はすべて黒澤が行うことになった。平行して新しい事務担当者を探しているようだったが、なかなか信頼して任せられる人に出会えないようだった。また黒澤は、野辺のことを警察に届けず、個人的に探し続けているようだ。

 浜元は黒澤を心配してるようで、黒澤が感情的になって自分の首を絞めないように、気を配っていることが痛いほどに伝わってきた。彼らが実の兄弟だと奏が知ったことは黒澤には伏せられているようで、黒澤は奏の前では以前通りだ。とはいえ、裏の顔はわからない。微妙な緊張感が霧のように奏たちを包み、全身を締め付ける。

 比例して、奏のカタリ営業の調子は日に日に悪くなっていた。自作のマニュアルのおかげでどんな調子のときでも目標契約数には達していたが、作家との会話を契約に切り替えるタイミングが鈍りやすくなったし、クロージングの追い込みをかけているときも、雑念に阻まれることが増えた。

 一方、家では佳澄との関係性が微妙に変化していた。大掃除以来、大きな言い合いはしていなかったが、佳澄が奏の顔色を伺っているのは伝わった。朝、奏が出勤する頃に佳澄はまだ寝ているようで、2人が顔を合わせる事はなかった。夜は奏が帰宅する頃には佳澄が夕食を済ませていたので、たいていはテーブルに料理がラップをかけて置いてあった。メニューはいつも、作り置きのキャロットラペとコールスローと煮物だった。毎日作ってくれているようだった。

 秋口に差しかかったある日、深皿にカボチャを煮たものが入っていた。野辺が飛んだ直後だったこともあり、疲れ切っていたので、ほっこりと甘いものが嬉しかった。

「ありがとう」

 奏が言うと、お茶を片手にソファから立ち上がろうとしていた佳澄は、目を見張った。佳澄が再びソファに腰を下ろしたとき、テレビでは外国人が日本の豆腐職人の技術を見学しており、歓喜の声をあげた。「おいしい」。奏が呟くと、佳澄は申し訳なさそうに笑った。

「揚げ物だけは買うことにしているの」

 視線の先には、竜田揚げの小皿がある。過去に揚げ物の最中に転倒してやけどを負ったことが何度もあったので、祖父が亡くなり、奏も留学して佳澄が家に1人でいる時間が増えて以来、雄一郎が揚げ物を禁じたのだという。

「そうだったんだ。それはお父さんの優しさだね」

 佳澄は何か言いたげだったが、黙ってお茶をすすった。奏も黙って頷いた。佳澄は照れているのかもしれないと思うようにしていた。事実などそれほど重要ではないのだ。奏が愚痴を拒否するたびに佳澄は「ただ頷いて聞いてほしいだけなの。それが優しさよ」と言うが、正直なところ愚痴など聞きたくない。ネガティブな指摘が続くと聞かされるほうは疲弊する。張り詰めた生活の中の、たった数時間だ。方便でもいいから、相手の良いところを見つけて、楽しそうに話してほしい。それだけで、どれだけ心が休まることか。

 家には奏が子どもの頃とは違う、わずかな緊張感が漂っていたが、それぞれの生活リズムを尊重した生活は楽だったし、整った家に奏は居心地の良さを感じていた。佳澄は、玄関先やキッチンのテーブルやシンク、洗面所の窓といった小さなスペースを、こつこつと整理整頓し掃除を続けているようだった。きちんと掃除された場の清々しさは、何気ない瞬間に、ふと気付くものだ。奏はまるで佳澄から置き手紙を受け取るように、整った場を使って暮らしていた。

 野辺の一件で奏のモチベーションが明らかに下がっていた。また、付き合って4カ月になる大樹の存在も、少なからず影響している。

 今では朝、会社を辞めたいと思うことも少なくなかった。ベッドの中で鉛のように冷えた手で携帯を掴み、欠勤の電話を入れようとする。それを止めるのは、やはりお金への切実なこだわりだった。家の借金を返して再び留学する資金まで貯めるには、一般的な昼の職業でちまちま稼いだところで、とても届かないだろう。

 そもそも、ただ生活していくだけでもお金がかかる。住む場所を確保し続けるにもお金がかかるし、お金がなければ電車に乗ってお金を稼ぎに出かけることすらできないのだ。家の中でただ寝ていても律儀にお腹が減るし、喉も乾く。人間は水だけである程度生き延びられるというが、水も無料ではない。借金に追われ続けていると、生き続けることが最大の無駄遣いのように思える瞬間があり、それが辛い。

 でも、悠長に悩んでいる時間にお金は出て行く。その間は仕事の手が止まり、稼げないというだけで損失なのだ。立ち止まる時間をもつにも、お金がかかる。奏にはそんな余裕などない。

 ろくにあかない目で、身体を引きずって乗り込んだ通勤電車の中。息苦しくて人の隙間から天井を仰ぐ。吊り広告のコピーにも惰性で開くSNSにも、判で押したように前向きな言葉が氾濫している。

―― あなたさえ諦めなければ夢は逃げない。

―― 頑張り過ぎないで。あなたは今のままで、じゅうぶん素敵なのだと気付いて。

 思わず逃げるように、目をつぶる。電車が揺れて前後左右から人の圧迫がさらに強まる。同じだけ奏も相手を圧迫しているはずだ。気持ちの揺れと罪悪感は日に日に大きくなっていく。常に振り切っていなければ稼ぐことはできないが、この一線を越えれば、もう戻れなくなるのではないか。まだ今なら引き返せるのではないか。

 月曜日は特にシンドかった。大樹と週末を過ごしたあたたかい記憶が鮮明に残っているからだ。

 大樹は母を早くに亡くし、父親とお婆さんとの3人暮らをしている。お父さんは多忙な様子でまだ会ったことはないが、お婆さんとは挨拶を交わしたことがある。奏が遊びに行くと出かけているか、家にいる場合はたいていリビングの奥で絵を描いている。右ヒザが悪いといって、「このままでゴメンなさいね」とキャンパスから顔をのぞかせて声をかけてくれる。小さくて優しそうなお婆さんだった。目も相当悪いようで、ぶ厚い老眼鏡をかけていても、数メートル先のものがおぼろげにしか見えないのだという。それでもヒザの調子のいい日は杖を鳴らして、友達と一緒に出掛けていくそうだ。

 そんなふうにお婆さんとは4、5回ほどキャンパス越しに言葉を交わした。2人がバイトの後に一緒に帰ると、お婆さんはすでに眠っていたが、キッチンのテーブルの上に2人分の食事とお菓子をいつも乗せておいてくれた。そのことを思い出すので、最近ではより一層「母性本能・応援系」の作家への営業を後回しにしていた。

 新しい企画の営業が始まると奏は同業他社の雑誌を見て、掲載ページの多い順から「スピリチュアル・直感系」と「権威系」、「謙虚なふりしたムッツリ権威系」、「グローバル志向系」という順に電話をかける。あらかた営業し終えると、そこから4分類と自分の気分とを組み合わせて営業をする。もしくは、その多くが「限定、新規、オリジナル、グローバル」といった言葉や特別扱いに弱いとされる、近畿地方の某県の人に狙いを定めて効率を重視して営業をする。

 営業期間も後半にさしかかってくると、お客さんを選んでいる状況ではなくなってくる。俗に「太客」と呼ぶ資金力のある作家はもちろん、攻撃欲をかりたてる客や罪悪感を抱かずに済むような客は残っていない。新規開拓と同時に「母性本能・応援系」の作家に営業せざるを得なくなってくるのだ。
 奏は自分の契約履歴を遡ると、連絡に間が開いている人から順に電話をかけることにした。2人目までかけたが、いずれも留守番電話に切り替わった。「母性本能・応援系」の作家にはご老人が多いのだ、病院やカルチャーセンターに出かけているのだろう。

 奏は焦りと安堵が入り混じった気持ちでマグカップからお茶を飲み、機械的にボタンを押す。

 早く出て即契約してほしい気持ちと、どうかこのまま出ないでほしいという気持ちが入り混じる。数秒呼び出し音がすると、女性の明るい声がした。奏は固く目をつぶると、いつものように名乗った。

「真美術出版舎の棚絵と申します。コト先生のお宅でいらっしゃいますでしょうか」

「もう、先生じゃないって言っているのに」

 相手はそう言うと、ふふふ、と笑う。「ごぶさたしております」と奏が言い、世間話が始まる。奏はいつものように横目で時計を見ると、会話を始めた時刻をメモする。話題を切り替えるタイミングは身体に染みついている。

「あら、棚絵さん、ちょっと元気がないんじゃない? お風邪でも引いたんじゃなければいいけど」

 母性本能・応援系の作家は、電話でしか話したことのない奏の微妙な変化に気づいて、心を寄せてくれることが少なくない。旅行に行ったといって記念の絵ハガキを送ってくれたり、家で採れた果物を送ってくれたりするのも、こういう人たちだ。この日、奏がしぶしぶ電話をかけたコトもそんな作家の1人だ。少し高い声でまろやかな話し方をする。彼女の水彩画にはあたたかな人柄がにじみ出ている。本当なら多額の掲載料を払ってこんな画集に載せる必要なんかない人。そうだ、大樹と出会った日に、ギャラリーの真っ白い壁に展示されていた絵に似ている。本来はあんなふうに、ギャラリー全体から守られるように丁寧に展示されるべき、優しい絵だ。

「あの、はい、ちょっと風邪をひきかけていまして。どうしてわかっちゃうんだろう? ちょっとビックリしました。でも、なんだか、コト先生の声を聞いたら元気になってきた気がします」

 コトと話していると、全身に込めていた力が抜けて、安心してしまいそうになる。コトはいつものように、近所で見かける猫の話や孫の話をした。勝手に小さな子どもだとずっと思っていたが、どうやら奏と年が近いようだ。「孫も最近、風邪気味なの」というところから、今も一緒に住んでいることがわかった。息子さんは帰りが遅いので、お孫さんの面倒は小さな頃からもっぱらコトが見ていたらしい。孫は20代の後半にさしかかっているようだったが、コトにとっては小さな頃から変わっていないようだった。

「棚絵さんって20代の前半くらいかしら?」

「はい、21歳です」

「そうよね。お声の感じがうちの孫より若いもの。ねえ、棚絵さん、変なことを伺うようですけれど、そのくらいのお嬢さんたちは、普段どんなごはんを好んで召し上がってらっしゃるの?」

「そうですねえ、私は少し偏食気味なのですが、普段はキャロットラペとかコールスローとか、あと野菜炒めばかり食べています」

「あら、健康的でいいじゃない。ご自分でつくっていらっしゃるの?」
「お弁当は自分で作りますが、家では母が料理してくれています。あと、外食の場合は、洋食が多いですね」

「そうなのね。その、キャロットなんとかいうのは、どういうおかずなの?」

「キャロットラペです。千切りにしたニンジンに、オリーブオイルと塩コショウ、お酢、パセリのみじん切りを混ぜて30分くらい寝かせるんです。これにニンニクを入れる人もいれば、塩コショウの代わりに砂糖を入れる人もいるみたいです」

「ラペね、ありがとう。初めて聞くおかずだわ。にんじんにドレッシングをかけて、しんなりさせる要領かしら」
「はい、そうです。一度作ったら、数日はもつそうですよ」

「なるほど、華やかでいいねえ。お嬢さんたちは、ラペが好きなのね。そうなると、やっぱりあれかしらね、お婆ちゃんの料理はお口に合わないかしら」

「え? どうなさったんですか?」

「いえね、最近うちの孫に彼女ができたの」

「おめでたいことですね」

「そうなの。とても幸せそうでね、楽しそうな孫を見ているとなんだか私も嬉しくて。彼女さんをときどき家につれて来てくれるんですけれどね、とても感じのいい、優しそうな方なの。だから、遊びに来てくれると聞くと嬉しくて、ついいつものクセで煮物や味噌汁のような和食を作っちゃうんだけれど、若いお嬢さんですもの、本当はもっと、流行のお料理のほうが嬉しいんじゃないかって少し心配しているの。うちは女の子がいないものだから、わからなくて」

 奏は、大樹のお婆さんが作って置いていてくれる晩御飯を思い浮かべた。普段は煮物を食べつけないが、気持ちが嬉しくて残さずにいただく。そういえば、はじめの頃は揚げ物や肉が多かったが、最近は野菜中心の和食が増えており、最近はうさぎの形に切ったリンゴが添えてあることがあった。

「私、あまり和食が好きではないんですけれど、最近お友達のお婆さまの料理が切っ掛けで、少しずつ好きになってきたんです。これってなんて言うんでしょう、かぼちゃとかにんじんの角が丸く削られていて……」

「面取りかしら。野菜の角を、皮をむくように削るの。そうすると煮くずれせずに、味が染みこむのよね」

「そうなんですね。舌に触れた感触がやわらかくて、食べやすいんです。自分で煮ものをつくらないのでわからないのですが、そういう手間をかけてくれたことが嬉しくて。冷めても、あたたかく感じます。それに、淡い味付けがとてもおいしいんです。なので、いつもペロッといただいちゃいます」

「そうなの。素敵ね」

「なので、彼女さんもきっと喜んで、感謝しながら食べていると思いますよ。特にふっくら甘く煮てもらった豆が大好きです」
「ありがとう。そう聞けて嬉しいわ」

「ただ、豚の角煮とか煮魚全般はまだ苦手なので困ってしまいますが。特に頭がついていると、ちょっと」

 奏がそう言うと、コトは楽しそうに笑った。「怖いのね?」。奏が頷くと、コトはまた笑った。「言われてみると確かに怖いかもしれないわね。教えてくださって、ありがとう」

 時計を横目に、7分から10分ほどで、いつものように会話に切り込みを入れる。架空の美術団体を騙り、架空の評論家を騙り、どれだけ権威のある画集であるかを簡単に騙る。「母性本能・応援系」の作家に響くのは、「あなたが参加してくれると、どれだけ周囲が幸せか」というワードだ。これは奏の本心でもある。コトと話していると、どれだけ幸せを感じることか。コトは奏の話を最後まで聞き、快く契約をしてくれた。1ページ18万円の掲載料金を月々2万円、9カ月に渡って振込み続けてくれることになった。

「なんだか有名な方ばかりで、別世界のお話しのようだわね。でも、棚絵さんはいつも真面目にお勉強していて偉いね。またいろいろ教えてくださいね。お話ししていて楽しかったわ。どうもありがとう」

 電話を切ってからも、しばらくコトの声が耳から離れなかった。

 ホワイトボードの契約数欄に「1」を大きく書きこんで、黒澤に報告する。「コトさん、アガりました」。契約に至ったことを意味する用語が、いつの間にか自然と口から出るようになっている。黒澤に分割数を伝え、契約書を作ってもらう。ちょうど昼休みだったので散歩がてら奏がポストに投函することにした。これまで野辺が担当していたことでお金に関する業務以外を、今はそのときに手がすいている人が協力し合って行っていた。

 午前中に契約に至ったのは、コトの1件だけだった。エレベーターを待っている間に何気なく住所を見る。

「へえ、コトさんって奥沢に住んでるんだ」

 何度か大樹の家に遊びに行ったことがあった。そのときの風景が呼び起される。駅前を自由ヶ丘に向かって伸びる自由通りを、2人はふざけて「Free Way」と呼んでいる。道に沿って植えられているイチョウを何度も見上げた。付き合い始めた頃は青々としていた葉が、今では鮮やかな黄色に色づいている。書店に貼ってあるポスターまで思い出せる。その先にある大きな神社では、揃ってお参りしたこともあった。

 エレベーターで1階に下り、ビルの外に出る。昼を過ぎたばかりの陽はやわらかく、11月の終わりにさしかかっているというのに、どこか春の始まりのようだった。普段はコートのポケットに両手を突っ込んで歩くのだが、この日は背中に陽のあたたかさを感じながら、両手を自由に動かして歩いた。
ポストの前まで来た。投函しようとして、ふと宛名が目に入る。

 嫌な予感がした。

 社内のデータベースを検索する際にはいつも、名前の欄に「コト」とだけ入力していたので、苗字を意識することがなかった。神門コト。ありふれた苗字ではない。地域によって特定の苗字が集中する場合があるが、東京にもありえるのだろうか?

 予感は煙のように纏わりついて離れない。投函する前にスマートフォンで地図のアプリケーションを立ち上げる。検索スペースに、コトの住所を末尾まで入力する。すぐに周辺地図が表示された。入力した住所が示す位置に、印がついている。画面の上に親指と人差し指を当て、二本の指で押し広げると、奏の背中を冷たいものが走った。それは、ほかでもない大樹の家だった。

 奏は思わず膝から崩れ落ちた。お婆さんとのやり取りが走馬灯のように脳裏によみがえる。すべて、コトだったのか。どうして気づかなかったんだろう? 玄関にもリビングにもトイレにも、どこか懐かしさを感じるあたたかな絵が飾られていたじゃないか。耳に馴染む声だって、実際に聞いたことがあったのだから当然だ。

 数分後、奏は迷った挙げ句そのままポストに投函した。

 3日もしないうちに、コトからの返信が届いた。

「いつもありがとう。昨日、キャロットラペを作ってみました。おいしかった。素敵なおかずを教えてくださってありがとう。どうぞよろしくお願い致します」

 淡いラベンダー色の一筆箋に、きれいな文字でそう書かれていた。契約書は何一つ記入漏れがなく、所定の位置に捺印もされていた。 

 それ以来、奏は大樹の家に遊びに行くのを、できるだけ避けた。会っていなければ会いたいと強く思うものの、大樹の顔を見るだけで心苦しい。新しい職を見つけられず、時間だけが過ぎた。奏は相変わらず借金に追われていた。求人サイトに掲載されている一般的な会社の給料では、アルバイトをかけもちしなければ暮らせない。

 正月は奥沢の実家に呼ばれていたが、長期休暇に入った途端に奏は高熱を出して寝込んだためキャンセルした。佳澄と四六時中顔を合わせるのは息苦しいし、冬休みも何かしらアルバイトをしようと思っていたので残念だったが、コトと顔を合わせずに済んだ安堵感のほうが強かった。

 付き合い始めて半年が経とうという2月の下旬。週の中ごろに2日かけて降った記録的な大雪が、週末まで残っていた。車通りは表面がすっかり乾いていたが、端にかき集められた雪の塊は、昼間に表面が溶けるものの夜に再び凍ることで強固さを増し、黒光りした小岩のように見えた。銀座駅からギャラリーまでの歩道も、人を挟むように、シャーベット状の雪が5センチほど積もっている。出勤するときには陽を反射して煌めいて見えたが、帰りには見るだけで体温を根こそぎ吸い取る。大樹と奏は夕食を食べて帰る約束をしていた。シャッターに鍵をかけるときに大樹が「うー、さび」と言って以来、日本橋のタイ料理につくまでほとんど口を利かなかったのは、冷え切った外気のせいだと奏は思っていた。

 料理を注文するときも、普段に比べると口数が少ない。大樹はお通しのチキンスープの碗を両手で包みこみながら、ようやく言った。
「ちょっと相談があるんだ」

 活気にあふれた店内とはうってかわって、笑顔がない。こんな大樹を初めて見る。切れ長のアーモンドアイを少しうつろに伏せ、視線は奏の目と手元をゆっくりと行き来する。普段に比べると少しだけ元気がないが、それでも瞳には力強い光が宿っている。

「どうしたの?」

「いや、俺も最近知ったんだけどさ。婆ちゃんが、僕たちがいるギャラリーだけじゃなくて、他の、割と大きな展覧会に出展することが増えてきたんだよ。他にも美術雑誌によく載ってるんだって」

「すごいじゃない!」

 奏はスープの熱に舌を引っ込めながら答えた。大樹はベビーピンクのシャツにネイビーのジャケットを羽織っている。冬でもほんのりと焼けた顔は、少し硬い表情のときでさえ、快活さを周囲に放つ。奏は耳を傾けた。その無防備な鼓膜に、大樹の話が突き刺さった。

「それがさ、何かに騙されているかもしれないんだよね。展覧会に出展料がかかることがあるのは俺も知ってるんだけど、たった1作品出すだけで10万単位で費用を請求されていたんだよ。これってちょっとおかしいと思うんだよね」

 奏は耳を疑った。店内は室温が急激に下がったようで、奏の全身をヒヤリと覆う。太ももや背中、腕に鳥肌が立ち、自分の鼓動だけが皮膚の内側に響く。大樹は奏の目をまっすぐに見ている。奏もそらすわけにはいかない。何か上手い相槌はないかと考えているうちに、大樹は話を続けた。

「しかも美術雑誌って言っても、書店に並んでいるのを見たことがないような、ニッチな雑誌ばかりなんだよな。その掲載料も婆ちゃんが払っているんだって」

「なんていう雑誌なの?」

 絞り出すように奏が言うと、大樹は携帯を取り出した。そこにはグローバル・アートが出している画集のほか、奏がカタリ営業の際に参考資料にしている、同業他社の雑誌が数冊写っていた。幸い、真美術出版舎で出した画集は写っていなかった。

「これで全部?」

「いや、他にもあるらしいんだけど、大事にしまいこんでいるみたいで。また今度見せてもらうことになってるんだよね」

「そうなんだ」

「奏は美術系の自費出版をする会社で働いてるだろう、何か知らないかな? そもそも雑誌に掲載するときって、作家側が10万も支払うものなの?」

 奏は頭が真白で、どう答えたのかよくわからなかった。きっと、自分のところは画集を作っている会社なので、雑誌のことは詳しくないが、自費出版では掲載料を払うことが珍しくない。そういう内容をしどろもどろに答えたと思う。すべて言い訳だ。

「でも、話しによると応募した覚えもない団体から受賞したっていう連絡が来て、婆ちゃんは載せざるを得ない形になっているんだって。俺はまだプロの弁護士じゃないから、実際にどんなケースがあるかすべて把握してるわけじゃないんだけど、これって詐欺じゃないかと思うんだよ」

 奏は、持っていた水のグラスを落としてしまうのではないかと思った。大樹は弁護士を目指して大学院にまで進学しているのだ。こんなに重要なことを、どうして忘れていられたのだろう。奏はあまりにも無防備に、危険な綱渡りをしていたのだ。

「わかった、ちょっと調べてみる。お役に立てるかわからないけど」

「ありがとう。僕もあたってみるよ。担当者からの手紙も全部とってあるって言ってたから、今度一緒に見てもらえないかな」

「もちろん」

 幸い、奏がコトに手紙を書いたことはない。しかし、契約書を郵送するときには毎回、封筒の外側に担当者の印鑑をついている。さすがにコトも封筒までは残していないとは思う。それに写真を見たところ、契約している会社は他にも複数あるし、奏と結びつくことはないだろう。そうであってほしい。

「要は、お婆ちゃんが二度とそういう会社の営業に引っかからないようにすればいいんだよね?」

 そう奏が言うと、大樹は少し目を見開いた。

「営業?」

 奏は何も言えなくなってしまった。もしかしたら従事者にしかわからない用語を使って、墓穴を掘ってしまったのだろうか。奏は指先に意識を集中した。ここで迂闊に下を向いたり指先を動かしたら、動揺が伝わってしまうかもしれない。

「なるほど、確かにそうだね。組織的な動きだから、向こうの認識としては営業なんだろうね。僕としては婆ちゃんがその営業に引っかからないようにするだけで済ませるつもりはないよ。場合によってはその会社を訴えようとも思ってる。もし悪意のある営業だったら、すべてではないにせよ、今まで払った分は取り返してやりたい」

「でも、掲載したことは事実なんでしょう? 仮にその会社がいかがわしい会社だったとしても、契約書に印鑑をついたらもう無理なんじゃないの?」
「いや、特定商取引法っていうものがあって、婆ちゃんの場合みたいに電話勧誘販売で契約したものは、クーリングオフできるよ。それに、過去の支払いに関して返還請求をすれば、やり方次第ではお金を取り戻せる可能性もあるんだよね」

 奏はこれ以上何も言わないほうがいいと直感した。リアクションをすればするほど、ボロを出してしまうだろう。大樹はまだ奏を疑っていない。しかし、相手が出したボロに気づかないはずがない。

「もし婆ちゃんが騙されてるとしたら、俺が放っておくわけないじゃない。同じような目にあっている人は他にもたくさんいるだろうから、被害届を出して、訴訟を起こして多くの人の目に晒すよ。そのことで潜在的な被害者の何人かは、自分も渦中にいるんだって気づいてくれるだろうし、対処法の啓発にもなるから」

「ちょっと、周りに聞いてみる」

 そう奏がつぶやいたのと同時に、大樹が言った。

「他人からお金を騙し取るような卑劣な奴らを、許しちゃいけない」

 普段はたいてい微笑んでいる大樹の目に、冷静な怒りの青い炎が見えた。奏は下を向いた。自分でろくに調べもしないで誉め言葉に踊らされて、容易に騙されるほうにも問題があるよ。そう思っていたが、言えなかった。ただ小さく震えていた。

■野辺の足跡

 翌日、浜元は朝からどこか上の空で、机の角に脚をぶつけたり、かかってきた電話を保留しようとして、誤って切ってしまったりしていた。奏は体調でも悪いのかと思っていたが、一緒に昼を食べているときに、その答えがわかった。いつもの喫茶店で、奏も浜元も直径30センチほどの大皿に山盛りのナポリタンを食べていた。普段は飲みこむように食べる浜元が、スパゲティを数本ずつフォークに巻きつけながら、なかなか口に運ばない。

「ハマさん、どこか体調でも悪いんですか?」

 奏がそう言うと、ようやく浜元は呟くように言った。

「さっき社長から聞いたんやけど、のんさんが見つかったそうです」

「ええ! よかったじゃないですか」

 奏の明るい声とは真逆に、浜元の表情は暗い。

「それが喜ばしいことじゃない、っていう顔ですね」

「のんさんが飛んだあの日、社長はすぐにのんさんの実家に事情を話して、根気強く捜査網をはったんです。地元の友達に連絡をとったり人に依頼して、実家周辺とか東京でのんさんが立ち寄りそうな場所の様子を頻繁に探ってみたり。そうしているうちに、昨日の夜、大阪でのんさんと会うことができたそうです。ただ、そこには社長が捜索を依頼した、河原さんという男性の力添えが大きいんです」

「黒澤さんが電話をかけていた人ですね」

「そうです。僕ね、河原さんは、ヤバいと思うてたんですよ」

「前に、のんさんの捜索を黒澤さんがその人に頼むって言ったときも、ハマさんは同じことを言っていましたよね」

「ええ、まあ」

「河原さんって、何をしている方なんですか?」

 奏のほうをチラリと見ると、浜元は手元に目を落とした。猫背気味の浜元はよく背中を丸めているが、今はどこか縮こまって身を守っているように見える。浜元はモスグリーンとベージュのボーダーのニットを着ている。静かにフォークを置くと、その袖口を指先でつまみながら、言葉を選ぶように話し出した。

 浜元によると、河原は黒澤と同じ大阪の出身で、黒澤と野辺にとって中学・高校の先輩にあたる。昔から素行が悪く、不良少年として有名だったそうだ。大人になるにつれ暴力的な行動はなくなったが、一方で反社会的な集団との交流が頻繁になった。その人脈を後ろ盾に、今では東京を拠点に、限りなく違法に近い――ときに違法な――ビジネスを展開しているという。黒澤や野辺の進学や、それに伴う引っ越しなどで一時は河原との交流が途絶えていたというが、数年前に黒澤が東京の繁華街で偶然再会して以来、付き合いが復活しているという。

「最初は社長も、まあ、地元の先輩やし邪険にするわけにもいかないというんで、つかず離れずの距離を保つ、って言うてたんですよ。でも、あることから、急速に距離が縮まっていったんです。お互い後から知ったそうなんですけど、カタリ系の出版社の先駆けみたいな大手出版社があるじゃないですか。河原さんはね、あそこの営業利益をシノギにしていたんです。グローバル・アート出版社も河原さんのフロント企業みたいなものだったみたいです」

「そんな偶然、あるんですね」

「キナ臭い話は多かれ少なかれ、どこかでつながっているんですね。社長がグローバル・アート出版社から独立したときに、河原さんの世話になったみたいなんですよね。僕らって結局は同じお客さんを複数の会社で同時に取り合うでしょう? 最初は、競合他社から圧力をかけられた場合に備えて、何かあれば河原さんの事務所の人に力を借りて回避するっていう口約束をして、月々数万円を支払っていただけだったみたいです。でも、今回みたいに借りをつくってしまったら、後々面倒なことになるんじゃないかと心配していたんです。特にウチは、こういう非合法スレスレの仕事ですから」

「黒澤さんが大阪から上京したのは、大学か何かで?」

「いえ、社長は一浪しているんですが、関西の芸大を出ているんです」

「そうでしたか。では就職で上京したんですね」

「まあ、言うたらそうですね。兄貴が24歳で大学を卒業したんやから、今から7年前ですか。もうそんなになるんやな……。実は音楽関連のデザインを多く手掛ける広告代理店のデザイン部を第一志望として就職活動をしていたんです。でも、いよいよ最終面接やという段階で交通事故に遭って、左目の視力が著しく低下してしまったんです。そのため、就職を逃してしまいました」

「事故に? 今はもう大丈夫なんですか?」

「今もメガネかけてますでしょ、あれは左目にしか度が入っていません。今も梅雨時なんかには首やらヒザやら痛むと言っていますけどね」

 黒澤のフレームの細い眼鏡をかけた童顔が浮かんだ。ふっくらとしているのは、事故の影響であまり運動ができないからかもしれない。

「そうでしたか、それは大変ですね」

「その後1年ほどアルバイトをしながらデザイン事務所に就職活動をしていたのですが、道が開けなかった。そんなとき、たまたま全国規模で求人していた東京のグローバル・アート出版社に就職したんです」

「25歳くらいの頃ですか」

「ええ。本来は制作部門を希望していたんですが、まだデザイン部は確立されていませんでしたから、暫定で配属された営業で、めきめきと頭角を現したみたいです」

「お若いのに、すごいですよね」

「棚絵さんのほうが若いじゃないですか」

「グローバル・アートだけでなく、この業界って、だいたいこのくらいの年齢層が営業しているんでしょうかね」

「いえ、僕も正確にはわからないんですけれど、バラバラみたいですよ。僕らくらいの層は入社してはすぐに辞めていくみたいで、40代後半の現役営業もたくさんいるみたいです。長く続いている人には独立する人も少なくないみたいですけど」

「そうなんですね。ちなみに、グローバル・アートには今、デザイン部があるんですか?」

「いえいえ、その後もアウトソーシングし続けているみたいですよ。もしかしたら最初から、社内に専門の部署をつくるつもりなんかなかったのかも知れませんね」

「もしかしたら、黒澤さんは働くうちにそれがわかってきたんでしょうか。独立の背景には、自分の会社でデザインをしたいという気持ちがあったって、のんさんも言っていましたもんね」

「あとはお金ですね。自分で稼げるようになると、会社に引かれる分がアホらしくなったんちゃいますか? 何割引かれていたかはわかりませんけど、1割だとしても、少なくない額ですからね」

「グローバル・アートに黒澤さんは、何年くらいいらしたんですか?」

「4年半くらいです。確か僕が25歳のときやから。兄貴が29 歳の終わりにグローバル・アート出版社から独立して、約半年で真美術出版舎の基盤をつくったんです。そして、30歳の春に真美術出版舎を立ち上げました。棚絵さんが面接に来てくれた年の前年のことです」

「なんだか、すいぶん昔のような気がしますよ」

「そうですね。当時僕は地元の居酒屋でバイトしてたんですけど、兄貴は僕を大阪から呼び寄せて、他にはすでに進学で上京していて、遊び仲間だったのんさんを誘って、真美術出版舎をスタートさせました」

 13時を過ぎると、喫茶店内には客が半分以下になった。奏たちの会話の他にはテレビの音と、食器を洗う音が淡々と響いている。すっかり冷めてしまったナポリタンを無言で食べると、2人は店を出た。

 商店街を並んで歩きながら、奏は聞いた。

「黒澤さんとのんさんとは、ずっと交流があったんですか?」

「のんさんは、兄貴よりも5年ほど先に上京していました。その間は、盆や正月に帰ってくるときには遊んでいたみたいですが、頻繁に連絡を取り合っていたわけではないみたいです」

「そうだったんですね。のんさんは東京で何をしていたんですか?」

「のんさんは映画製作の専門学校に通いながら、肉体労働のアルバイトをしていたそうですが、道半ばで中退してブラブラしていました。兄貴が上京して一緒に遊ぶようになったのは、この頃だったと思います。あの、ここからは聞かなかったことにしてほしいねんけど……」

「わかりました。そもそも、別に言う相手もいませんし」
「後でわかったことなんですが、のんさんが専門学校に通っている間、六本木だったか歌舞伎町だったかで偶然、河原さんに出会ったそうなんです。共通の知人がいて、その人のツテで会ってみたら、河原さんだったと言うんですね」

「へえ、世間は狭いっていうけど、実際にあるものなんですね」

「僕たちがこうして歩いていて、街角で昔の同級生なんかにバッタリ会うよりも、もしかしたら狭いのかも知れませんよ」

「どういう意味ですか?」

「のんさんね、前に薬物に少しだけはまっていたみたいなんです」

 映画や小説の中だけの話だと思っていた。奏が驚いて声を上げると、浜元は自動販売機にスマートフォンをあて、缶の紅茶とコーヒーを買った。コーヒーを奏に勧める仕草をしたので、奏は頭を下げた。

「そこで数年ぶりに再会した河原さんの、後輩の手引きで薬物を購入していたみたいです。どの程度はまっていたのかはわかりませんけど、その半年後にのんさんは逮捕されて、1年間服役していたみたいですよ。釈放されたものの、なかなか就職できずにいたようで、地元に帰ろうかと思っていたときに、兄貴が誘って真美術出版舎に参加したという流れです。のんさんは営業職には向いていないと言うんで、事務職を担当していました。ただ、仕事はきっちりしますが、プライベートでは無計画で金銭的にもルーズだったみたいで、兄貴に借金を重ねていたんですって。解雇もせんと一緒に仕事をしていたのも、給料から天引きして借金返済に充てていたからなんです。僕からしたら、いくら昔馴染や言うても、そういう気質の人に通帳を預けていたのは兄貴の杜撰さとしか思えませんけどね、持ち逃げされて初めて大慌てって、どれだけのんきやねん」

 驚きのあまり、奏は言葉が出なかった。持ち逃げされたお金も、黒澤が野辺に貸し付けていたお金も野辺本人と家族から、河原の計らいにより満額戻る目途がついたそうだ。それだけでなく、友達に裏切られた精神的苦痛を訴えた黒澤に、野辺はそれなりの誠意を示したのだと浜元は苦笑しながら言っていた。それなりの誠意とは、お金だった。正確な額は教えてもらえなかったが、黒澤が友達に裏切られた苦痛で精神を病み、通院すると想定した医療費。同じ理由で黒澤が働けない場合の給料と、見込まれる会社の収入。また、今回のトラウマにより新しい人員を雇い入れることができず、野辺が担っていた業務を既存のスタッフが引き継ぐことになる。その分人件費が発生するので、黒澤が野辺に支払っていた給料と同じ額を。それそれ、向こう10年分もらい受けるそうだ。

「持ち逃げされた分だけで800万円って言っていましたよね。そんな大金、野辺さんの親御さんは返せるんですか?」

「総額は数千万円に上ると聞いたので、もちろん一括では無理でしょう。でも、5年で返ってくるって言うてました」

「どうやって?」

「家も含めて、売れるものは全部売ったそうですよ」

「売れるもの、ですか」

 奏が呟くと、浜元は苦しそうに言った。

「これ以上は、ヘビーすぎるので、とくに若い女性は聞くに堪えへんやろうと思います」

「正直、怖いですけど、のんさんのことは知りたいです」

 浜元は少し黙り込むと、少しだけ微笑んだ。

「ありがとう。いつか、僕の気持ちの整理がついたら、それか、抱え切れへんようになったときに、話させてもらっていいですか。いつか棚絵さんに聞いてもらえるということが、心の支えになります」

「わかりました。ハマさんは、どうして、ここまで私に話してくれたんですか?」

 混乱してずっしりと重くなった頭をもみながら奏が言うと、浜元は背中を丸めたまま、小さく笑った。顔に表れていない心の奥底で、今にも泣き出しそうな微笑みだった。

「僕にも、ようわかりません。でも、ずっと聞いてほしくて。でも、嫌な気持ちにさせてしまったでしょう、すみません」

「大丈夫。話してくれて、ありがとう」

 奏も小さく笑うと首を振った。数人の小学生がはしゃぎながら2人を追い越して行く。下校時間のようだ。黄色い帽子を被った女の子が、一回り大きな男の子の手袋をふざけてとって、逃げているのだ。男の子も追いかけながら笑っている。子どもたちのランドセルは大きく揺れて、カタカタと音がする。ふと強い北風が吹き、奏は首をすくめた。子どもたちの集団は、角を曲がって見えなくなった。

■夜の案内場

 真美術出版舎での黒澤は、まるで野辺のことなどなかったかのように明るく、職場は以前のように和気藹藹とした雰囲気だった。奏はそれが逆に怖かったが、目先のお金を追っているうちに時間が過ぎ、感覚が麻痺していった。

 このところ大樹は課題が倍増したらしい。ギャラリーを今月末で辞めると聞いた時には淋しかったが、一方で救いともなった。いつからか、大樹とLINEでやりとりするだけで、奏は良心の呵責に苛まれ続けていた。

 何を今さら。そんな自分の声を耳の裏に聞きながら、奏は毎日ネットで転職情報を見ていた。奏は最低でも1カ月に手取り30万円を稼がなければならない。派遣社員の時給は1600円ほど。英語を使う仕事なら1800円。どちらも決して安くはないが、これでは逆立ちしても手が届かない。何度か夜の仕事が脳裏をかすめた。渋谷なら2、30分かけて歩いて帰ることもできる。昼間の仕事の給料で足りない分は、こちらで補てんすればいいだろう。

 とはいえ奏は夜の仕事についてほとんど何も知らない。周囲に夜働いている子もいないし、これまで自分が働く場所として意識したこともなかった。テレビのドキュメント番組などでホステスが取り上げられているのを見た覚えがある程度だ。信じられないほど大きな額が1晩で動いていた。番組を見ている分には面白かったが、奏には勤まらないだろう。

 ズルズルと時が過ぎ、いつの間にか3月もなかばに差し掛かろうとしていた。あっという間に入社後1年が経っていた。一時は真美術出版舎を辞めようとした奏が、黒澤に報酬額を提示されたのは5月中旬だった。あの日、カタリで稼ぐと腹をくくってから、もう10カ月になる。昨年の今頃は、まだ大樹とは出会っていなかった。ちょうどカタリの仕事に疲れきっていて、何日も部屋に引きこもって泥のように眠っていた頃だ。強引に会社を休んだ日に、何度も電話をよこしては出社を促してきた野辺も、もういない。

 部屋のライトを消して、ベッドの中で眠りに落ちかけていた奏の脳裏に、1年前に会社を辞めようと決心した日に見た夜明けの光景や、開いた窓から室内に流れ込んで奏を包んだ、庭先のユリの香りが蘇った。続いて、帯留めされた百万円の束も蘇った。

 あんなに本気で稼いだはずのお金も、相変わらず手元には小銭しか残っていない。一方で雄一郎の借金は確実に減っているが、実際にお金を目にしていないので、何の実感もわかない。変わっていないはずのものや、変わってしまったもの、奏があえて変えてきたもの。人生のほとんどのことは、奏のあずかり知らないところで変化している。いつの間にか奏は21歳になっていた。

「どうしてこんなことになっちゃったのかな」

 あの夜、雄一郎からの電話になど出ずクリスマスツリーの飾りつけを続けていれば、もっと違う結果になったのだろうか。どうして1年間などと約束してしまったのだろう。本来は奏が抱える必要のない問題じゃないか。佳澄のように働くことを拒否すればよかった。同じ苦労をしたとしても、自分の学費だけ自分で賄うほうがどれほど意味のある体験ができたろう。そのうえ大学も結局はなしくずしに自主退学してしまった。揚句、前に進めば進むだけ、不幸な人が増える。私の人生には、一体何の価値があるんだろう。

 誰のせいでもなく、すべて自分で決めたのだといくら頭でわかっていても、雄一郎のことを憎んでしまいそうだった。感情を理屈で押さえつけようとすればするほど、苦しさがつのる。

 奏は最近よく悪夢を見る。今夜も2時過ぎになってようやく眠ることができたが、すぐにうなされて目覚めた。眠気は消えていた。立ち上がると眩暈がしたが、そのままライトをつける。一刻も早くカタリを辞められるように足場を整えなければと、焦燥感に駆られてパソコンを立ち上げた。まずはネットで検索することにした。

「渋谷・キャバクラ・求人」

 実にたくさんのお店がヒットした。求人情報のページを開くと、未経験者でもノルマがなく、時給5千円で働けると書かれていた。真偽のほどは不明だが、高層ビルの階段を自分の脚でよじ上ってきた奏にとって、その条件はエレベーターのように見えた。

 真美術出版舎のある王子神谷駅から渋谷まで、電車賃が最も安い方法で30分かかる。残業をせずに急いで向かえば、余裕で20時から出勤できる。始めは掛け持ちでお店の雰囲気を試し、水が合えばすぐにでもカタリの仕事を辞められる。4時間働いただけで2万円が手に入るのだ、そこから所得税が差し引かれたとしても、手ごろな昼間の仕事が決まるまで、じゅうぶんつなぐことができる。

 店舗サイトには「オフィシャルフォト」というページがあった。出勤したばかりの女の子の私服や、客がいない店内で女の子たちが集まってピースサインをしている写真などが複数出てきた。それぞれ下に名前が書いてある。それに奏は衝撃を受けた。

「これじゃ、この店で働いてることが知り合いにバレちゃうじゃん」

 とはいえ全員が顔を出さなければいけないわけではなさそうだ。中には顔を手の平で隠し、キャプションに「?ちゃん」と書かれている女の子もいる。「キャスト一覧」や「ランキング」というページもあり、まるでタレントのグラビアのような写真が何枚も出てきた。みんな人形のように可愛く整った顔をしている。明らかに整形手術によって目頭を切開している子も少なくないが、皆一様にスタイルがよくて、派手だ。数件のお店のサイトを見ると、奏のように黒髪の女の子もいないではなかった。

 みんなどんな性格の子たちなんだろう? 女の子たちは仲がよさそうに写っているが、実際は壮絶なイジメが普通に横行してるんじゃないだろうか。
 そんな疑問から、ランキング上位の子の名前で再度検索をした。その女の子のブログやフェイスブック、お店の評判など、いろいろと情報が出てきた。同じようにいくつかのお店の子を検索していくうちに、水商売のお店や従業員の評判を集めた「夜の案内所」というポータルサイトに行きついた。

 客にとっては遊ぶ店選びの、女の子にとっては職場を選んだり、既に就労している店を客観的に見るための、指針のひとつとなるポータルサイトだ。そこには、求人広告や店のイベント告知バナーの他に、匿名でコメントを寄せられるBBSもあった。不況のただ中にあって景気のいい話がいくつも書かれている。また、嘘か本当かはわからないが、キャバ嬢の多くがホストと付き合っていると書かれていた。興味本位で読み進めると、そこで、「永遠」というホストの名前を見た。「トワ」と読むらしい。

 読み飛ばそうとしたとき、ふと耳の奥に、佳澄の声が蘇った。佳澄が自室に引きこもって電話をしているとき、前を通るとよく廊下まで聞こえてくる名前。

 ほんの軽い興味からそのホストを検索してみた。すると、すぐ「咲楽永遠」という人がヒットした。サクラトワと読むらしい。まるで作り物のように整った顔で、髪の色はかなり明るい。長い前髪で片方隠れているが、ブルーのカラーコンタクトレンズをはめた不自然なほど大きな目に、なんとなく見覚えがある。勤めているのはその界隈では有名なお店のようだ。「副主任補佐」という役職がついている。店のブログに載っている写真を見ると、奏を不穏な予感が包んだ。

「今年もできた~。ロゼのオリシャン(^^)。最近カメラマンさんに撮ってもらった中で一番お気に入りの写真を、オリジナルシャンパンのラベルにしたよ! ロゼは飲みやすいから、まだシャンパンを飲んだことない姫も一緒に飲もうぜ」

 ブログ記事の中で絵文字とともに永遠が掲げているボトルには、大きく「咲楽永遠★生誕祭」と書かれている。確か帰国した日に、荷物が押し込まれた奏の部屋を片づけているときに見た。

 封を切っていないピンクのお酒が床に5、6本転がっていた。そのボトルにプリントされていた男の顔だ。ブログのトップページには、Youtubeのバナーが張られていた。サイトへ飛んでみると、インターネット番組の動画が複数アップされていた。どうやら、店がつくっている番組のようだ。

 スタジオなのだろう、店のロゴがプリントされた市松模様の淡いピンクのボードを背負って、メーン司会のホストと永遠が、笑顔でタイトルコールをしていた。その右腕の半袖から覗く虎のタトゥで、奏の記憶の点と点が急速につながった。永遠は、家の前の細道でときどき見かける男だ。

第5章 【歌舞伎町のカタリ】 につづく)

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