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「お前、どうしてこんな所にいるんだ」 ラフォーレ原宿のコーヒー/ 掌編小説 【おいしいかたち】Vol.1

友人であるミュージシャン、ユウサミイの曲に「Iconイコン」というものがある。かつて、自分がまだ何者でもなかった頃に、主人公の才能と前途をひたすらに信じ、支えてくれた人物に向けた曲だ。

この曲中には、こんなフレーズがある。

ーー星が暗い夜、勇気が出ない朝、君がいたことを思っていいですか
あの頃、心閉ざし、世界は色を無くし
闇の中で君がくれた「大丈夫」

タイトルの「イコン」とは、東方正教会と呼ばれるキリスト教会で崇拝されている平面像だ。主に金色を背景に聖人の姿などが描かれており、多くの人たちにとり心のよりどころとなっている。

私の心にも、イコンがある。

まだ小説家として駆け出せてもいなかった頃から、今この瞬間もなお、私の小説を楽しみに、信じ続けてくれている友達。

私は人と関わることが得意ではなく、未だに人を信じることが難しい。たとえば知り合ったばかりの人から連絡をもらうと、先ず「きっと舞台や有料セミナー、オンラインサロンの勧誘であろう」と警戒してしまう。

そんな私が、まだ社交辞令さえ使えず、剥き出しの感受性がために世界とまったく折り合いがつかず不器用に尖っていた頃から、ずっと近くにいてくれる友達。彼のことをここでは仮に岡田さんとさせていただく。

ヘドロの底のように窮屈で息苦しい幼少期を抜けて、自分の意志でようやくこの世に誕生したのは、私が20歳。家出同然に東京に来た頃だった。

右も左も分からない。当時の私は、ある偶然が重なって、池尻大橋の三宿交差点のすぐ裏のアパートに住んでいた。私には生活力もなく、友達はおろか知り合いさえいなかった。

紆余曲折を経てアルバイトを始めた、表参道の骨董通り沿いにあるセレクトショップで知り合ったのが岡田さんだった。そこはファッション雑誌にショップスタッフのコーディネートがよく掲載されている店だった。岡田さんは腰まである長髪で、細身の全身を黒い服で包んでいた。一見すると近寄りがたいのだが、朗らかに笑っていて愛情が深く、いつも人に囲まれていた。ベリーショートの金髪を無造作に逆立てて、青白くコケた顔でフラフラしている私とは対照的といえる外見だった。岡田さんは店長だったので、明らかに周囲から浮き、いつまでも馴染めずにいる新人の私の面倒をみてくれていた。

ある日、お店の近所にできたイタリアンレストランに、スタッフ数人でランチを食べに行った。
「夜のコースは2万円以上するのに、ランチだと3500円で食べられるんですよ!」
「いいね! 行ってみよう」
発案者のスタッフを囲んでみんなは楽しそうだったが、時給900円で働いていた私にとってはちっともお得に感じられなかった。


さらに、私は調理がろくにできなかったため、普段は大味なものしか食べていなかった。そのため、複雑かつ繊細なレストランの味付けに慣れておらず、ランチコースで出てきたサラダに入っていたハーブも、パスタにたっぷり絡んだバターのこってりとした風味も苦手で、すぐに食べ進めることができなくなった。サラダの冷たさは知覚過敏に、熱々のスープやパスタは猫舌に苦痛だった。せめてもと齧ったパンには、苦手なミントがふんだんに練りこまれていて、私はペリエの刺激によって音を立てるお腹を抑えながら、友達ほしさにのこのこついてきた自分の浅ましさが惨めに思えて、哀しく苛立っていた。

ほとんど口をつけていない皿を見たのだろう。蝶ネクタイを締めた品の良い老紳士風の店員さんが、会計時に私に言った。
「お口に合いませんでしたか?」
私は苛立ちを隠しもせず、ぶっきらぼうに即答した。
「はい」
 
なんという酷い態度だろう。今でも思い出す度に己の未熟さに悶絶し、自ら穴を掘って入りたくなる。それでも当時は、レストランや、そこに行こうと発案したスタッフ、自らの境遇に対する呪詛の念で破裂しそうだった。
 
レストランを出て骨董通りをぞろぞろと歩いている時、一番後ろをついていく私に岡田さんが穏やかに声をかけた。
「本間」
「はい」
「ああいう時はな、露骨に態度に出さないほうがいいぞ。とても美味しかったのですが、と前置きをして、たとえば体調が良くなくてとか、せめて、私には少し味が濃かったかもしれませんと言ったほうが良かったな」
「だってクソ不味かったんです」
「それはお前の味覚だからそれでいいよ。でも、あの時の店員さんの淋しそうな顔を見たか? みんなもどうしたらいいか分からなくて場が凍ったよな」
「はあ」
「本音剥き出しのお前は面白いよ。だからこそ、方便というものを覚えると、本間はもっと楽に生きられるんじゃないかな。嘘と方便は違うものなんだよ」
「方便」
「ま、そういうの俺も好きじゃねえけどな」

ショップでは昼と夕方にそれぞれ休憩があり、出勤した順に2人ずつ休憩をとることになっていた。ショップの一角がバックヤードになっているので、みんな近所のコンビニで買ってきたお弁当をそこで食べたり、連れだって外に遊びに行ったりしていた。


私と休憩に入るスタッフはたいてい寝ているか、外に食べに行ったりしていた。最初は話しかけてくれるのだが、どうにも会話がかみ合わず、そのうちに机に突っ伏して寝始めたり、携帯で友達に電話をかけたりしていた。
 唯一、話してくれたのが岡田さんだった。共通の趣味が多く、好きなバンドの話や読んでいる小説などについて話している時間がとても楽しかった。
「本間は面白いな。そりゃあ周囲と合わないよな」
 私が突飛なことを言っても、そう言っていつも笑ってくれた。

「本間は曲を書かないの?」
 岡田さんは仕事の後に原宿のスタジオに入るのだと言って、ギターを持って出勤することがよくあった。その日も岡田さんはギターを持っていて、電源を入れずに弾いていた。
「え」
「面白いヤツだから、本間も曲を創らないのかなと思ってな」
 私も当時、ギターでいくつか曲らしきものを創っていた。しかし私が持っていたギターは電源を入れなければ大きな音の出ないエレキギターではなく、タカミネというメーカーの青いセミアコースティックギターだった。そのため電源を入れなくても音がよく響いた。私が住んでいたアパートは楽器演奏が禁止だったので、布団をワッフルのように被って何度か練習をしていたが、極端な猫背のような姿勢でギターを弾き続けるのは難しく、そのうちにギターをペンに持ち替えた。
 私は岡田さんにそのことを話した。
「最初は作詞をしていたんですけど、だんだん長くなってきて、今は小説を書いているんです」
「へえ、面白そうだな。今度読ませてよ」
「はい!」

そんな話をして間もなく、休憩時間を使ってラフォーレ原宿に届け物をすることになった。ショップの系列店が同ビルに入っていたのだ。用事を済ませ、2.5階のF.O.B COOPフォブコープという北欧家具のショップに併設されているカフェで、コーヒーを飲むことになった。

ラフォーレの裏側を囲む、教会通りという細い路地に面したテラス席についた。
「あのう」
私はそう言うと、バッグから原稿用紙の束を取り出した。
「小説、完成したんです。お時間があるときに、読んでいただけませんか」
当時、私はパソコンはもちろんワープロさえ持っていなかったので、小説を原稿用紙に手書きしていた。岡田さんにはコピーを渡した。原稿用紙30枚ほどの短編だ。

いつか読みたいと言ってくれていたが、社交辞令かもしれない。手書きの原稿など持参して、引かれていやしまいか。
私が怖気ずくよりも一瞬早く、岡田さんは笑顔で言った。
「おお! ありがとう。楽しみにしていたんだよ。今ここで読ませてもらっていいか?」
「あ、はい」
 
岡田さんが原稿に目を落とす。コーヒーが運ばれてきても岡田さんは目を上げず、そのまま無言で読んでくれていた。

原稿を他人に読んでもらうのは初めてだったので、私はとても緊張していた。
コーヒーから湯気が立っているのに口をつけて、舌を火傷した。
白いカップをソーサーに戻し、私は視線をビルの外に向けた。裏路地は人通りがまばらだった。よく晴れていて、いくぶん光がやわらかい。そろそろ夕方にさしかかるのだろう。
季節はいつか分からない。東京に来てからずっとそうだった。ショップはいつもエアコンが強く効いていて、スタッフたちは冬には春夏物を、夏には秋冬物を着用する。冷房に弱い私は、夏場は冷蔵庫のような店内でお腹に小さいホッカイロを貼っていた。


朝は寝ぼけたまま地下鉄に乗り、憂鬱と格闘し疲労に引きずられているうちに気づけばいつも夜だった。雨が降っても風が吹いても、大音量で音楽がかかっている店内には何の影響もない。今、長袖を着ているからといって、肌寒い季節とは限らない。


今、ここがどこで、いつなのか。分からない。
この時もそうだった。しかし、それは普段とは違う理由だった。

「本間」
その声で、私はふと我に返った。岡田さんは原稿を広げたまま、真剣な表情をしている。


「お前、どうしてこんな所にいるんだ」

岡田さんはそう言った。
「こんなにすごい小説を書けるヤツが、どうして今こんな仕事をしているんだ。本当はお前にとってどうでもいいだろう奴らに迎合しようと、命をすり減らしてていいのか? こんなに才能があるのに、それを生かさないのか?」

この時、岡田さんの手に握られていた原稿を、私はその日のうちにある出版社に送った。それは数か月後に佳作となり、次に書いた小説でデビューした。
だからといってヘドロの底を這うような人生は変わらなかったが、この瞬間の記憶はいつも私の背骨を支えてくれている。
今、この瞬間もそうだ。

(つづく)

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