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「仕方のないこと」でも「かまわぬこと」でもなくて、「どちらであっても良い」こと

高関健さんの指揮で、藤田真央さんの奏でるラフマニノフを初めて聞いた日を思い出した。
その音楽の美しさは言うまでもなく、真央さんの脱力の技術を目の当たりにして、私の人生は明らかに変わった。

あまりにも高い純度。圧倒的な美しさ。
ホールにいる聴衆の想念がひとつになっていくような感触。柔らかく、どこまでも広がっていく。インスピレーションが溢れて止まらなくなる躍動感。

これ以上の実感など、本当は、要らないのではないか。
かかずらわっている濁りなど、実は些末なものだ。

もちろん私などはまだ会得にはほど遠いけれど、最近、流れや感情に気付き、委ねればそれがいいと思えるようになった。

あらゆる面で計算も無理もできない自分を未熟だと、ずいぶん長い間、正そうと試みてきたけれど、ただ委ねて受け入れるほうがいいと思えるようになってきた。

それにより、人・モノ・事すべてにおいて、これから別れもあるだろう。あるいは新しい縁に恵まれるかもしれない。

それらはすべて、「仕方のないこと」でも「かまわぬこと」でもなくて、「どちらであっても良い」ことだと思う。

さようなら。ありがとう。いずれまたどこかで。
こんにちは。ありがとう。つかの間、楽に。

私の人生には音楽があって、助かった。

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