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24.積極的に発言できないを紐解く


日本人がいない語学学校で感じた事

現在、英語の語学学校に通っています

教室には、世界中色んな国の生徒がいます
メキシコ、ロシア、中国、韓国、ベトナム、ウクライナ、トルコ、エチオピア、アフガニスタン、そして日本です
年齢も10代から50代と、色んな世代がいます

日常英会話ができる事を目的とする授業の為、日本の様な座学メインの授業ではなく、
発言する機会がとても多いです
授業を受けていて、自分の学生時代と比べると、生徒からの発言が多くとても活発な授業だと感じます
日本の授業でよく見る先生の質問に対して、シーンと静まり返る場面をほとんど見ません

でも、授業を受けながら周りをよく観察してみると、積極的に発言する生徒とそうでない生徒にはっきりと分かれます
周りを見ながら発言する生徒や、間違っているかもしれないと自信がなさそうに発言する生徒、とにかく迷いなく発言する生徒と、実に様々です

個々人の性格の違いもあるとは思いますが、積極的に発言する生徒とそうでない生徒を分けた際に、出身国によってある程度カテゴライズできるものがあると感じました

今日は、その積極的に発言することに関して、自分なりに考えた事を書いていきたいと思います

積極的な発言出来ないを紐解く

日本で過ごしていると、積極的に発言することに対して、恥ずかしいと感じる人が多いと思います
注目される事が恥ずかしい、
的外れなコメントをしてしまうと恥ずかしい、
間違った発言をして周りに笑われることが恥ずかしい、
等色んな恥ずかしいがあると思います

こう言った“恥ずかしい”という気持ちは、
生まれてすぐ持っていたものではなく、社会生活を送る中で形成されたものだったと自分自身は記憶しています

目立つ事が恥ずかしいというのは、目立つ事で批判されるターゲットにされたり、疎まれたり、目立つことに対するリスクを感じる経験をしたからではないかと思います

的外れなコメントをしてしまうのが恥ずかしい、間違った発言をして笑われるのが恥ずかしいというのは、
自分が間違えた時に、周囲に笑われたり、白い目で見られたり、恥ずかしい想いをした経験があるからだと思います

今まで自分のいた環境の価値観は、
・目立つ奴は、自分達の持つ価値観を脅かす“異質物”として排除の対象である
 →その結果、積極的な発言をして目立つと、いじめのターゲットになる

・正解を出す事が正しい事であり、過程はどうでも良く結果が大事である
 →その結果、発言を試みた姿勢を褒められる事は無く、ただ不正解と言われる

・周りと比較して、どのポジションなのかが大切である
 →その結果、周りが知っていることを知らないのは自分だけと、恥ずかしくなる

また、積極的に発言できない自身を認められていない為に、積極性を持っている人を妬ましく感じ、イジったり、揶揄う事で、相手に嫌がらせをして気を晴らしているのではないかと考えます

つまり、周りを常に伺っている他人軸の思考で生きているのではないかと思います

今の環境は、日本人は自分ただ1人です
間違った回答や、見当違いな発言をしても、笑われる事はありません
また、周りは間違っているかどうか関係無く、積極的に発言をします

日本にいた時に感じた、恥ずかしさや、的外れな回答をした時の冷たい視線も全く感じた事がありません
寧ろ、勇気を出して発言を試みた事を誉めてくれます

周りのクラスメートを見ていると、自分が植え付けられて来た価値観とは、全く異なる考え方を持っている様に見受けられます

・積極的な発言は素晴らしい事である
 →だから、授業では積極的に発言する

・間違える事は何も恥ずかしいことでは無い
 →だから、間違えた生徒を笑う事がない

・自分軸で周りを全く気にしていない
 →だから、間違えた生徒のことも気にしていないし、周りからどう思われるかも気にならない、自分のレベルが周りと比較してどの程度なのかも気にしていない


何が影響を与えているか

周りを気にして他人軸で生きている人と、
周りを気にせず自分軸で生きている人では、
同じ人間なのに、何が違いを生んでいるのか?

また、なぜ国によって、違いが生まれるのか?

もっとさまざまな要因が複雑に絡んでいると思いますが、
自分の頭の整理も兼ねて、2つピックアップしてみます。
その他、こんな視点もあるという意見があれば、ぜひコメントで共有して下さい

1つは、宗教の違いです
日本は、神道と仏教が2大宗教です

神道は、八百万の神と言われるほど、
山や川、月や太陽のような自然のものから、森羅万象、様々なものを神格化しており、
たくさんの神様が存在します

仏教は、修行をして悟りを開くことが目的の為、そもそも信仰の対象が存在しません

一方で、その他の4大宗教を見ると、
キリスト教は、イエス・キリストという一神教であり、
イスラム教も、アッラーを唯一神とする一神教であり、
ユダヤ教も、唯一神ヤハウェを信じる一神教です
ヒンズー教は、何千もの神が存在する多神教です

いずれも絶対的な神の存在があり、神と自分という関係で世界が成り立っており、
自分軸の行動に繋がっているのではないかと思います

一方で、日本の様に、神という明確な存在がおらず、
経典などの、絶対的な何か指標や基準がない場合、
社会で決められた正しいとされる常識に従ったり、
周りの反応を見ながら、自分の行いや考え方が正しいかどうかを判断せざるを得ないのではないかと思いました

優秀でなんでもできる同級生を神扱いしたり、
自分の好きなアイドルを神扱いしたり、
偉業を達成したスポーツ選手など神扱いして称えたりと、
日本は簡単に神様が湧き出て、消えていく傾向にあると感じます

素晴らしいものや、偉業を讃える事はあっても、
神様として扱う事というのは、日本の特異な部分ではないかと感じました

自分が色眼鏡をかけて、見てしまっているせいもあるかと思いますが、
偶然にも、
国民の宗教割合で、絶対的な神の宗教を信仰している割合が高い国の出身者の方が
周りのリアクションを気にする事なく、授業での発言が多い様に、自分には見受けられました

また、仏教、神道に加え、武士道と儒教の影響もあると考えています

武士道は、武士の行動規範ですが、軍隊や社会のルールに今も適用されている部分があると聞いた事があります
潔さ、主君への忠誠、集団のための自己犠牲の精神などをまさにサラリーマンの会社への尽くし方とそっくりだと感じました

また、儒教は、春秋時代の中国の思想家である孔子が説いた教えで、
その中の1つに上下関係を重んじる精神があります
先生と生徒、親と子、兄と弟、これらの上下関係は、両者の優劣に関係なく、
目上の者を絶対的な存在とします

こういった所からも、周りを見て行動する事に繋がっていると考えました。

もう1つは、歴史的背景、特に封建制度の影響があるのではないかと思います

日本の場合の発言できないの理由として、周りからどう思われるかがとても大事だからと感じます
その根本にあるのは、周りとの“和”を重んじることが関係している様に思います

そして、その要因の1つが封建制度では無いかと考えました

封建制度は、ヨーロッパや中国にも存在していましたが、
日本の特徴として、仕える相手を選べず、1人の将軍に忠誠を誓わなければならないというところから、
簡単に鞍替え出来ない為、周りと協調する必要があり、調和を重視する傾向が生まれたのではないかと思いました
また島国で、日本のやり方が気に入らなくても、なかなか脱出しづらい地理的要因もある様に感じます

周りがどの様に振る舞いをするか、周りから浮かない様にするにはどう振る舞うべきか、常に周りを見て、考えてから発言する必要があったと推測します

ヨーロッパでの封建制度は、力の強い人に土地を譲って、借り受ける形で主従関係を築き、土地を保護してもらう封建制度ですが、
主君が約束を守らなければ、家臣は義務を果たさなくても良いとされており、
中世になると、数人の主君と主従関係を結ぶことが許されました
日本よりも目的が明確で、あくまで自分の利益のためと、自分軸であると見て取れます

また、そもそも封建制度の歴史が存在しないアメリカでは、超個人主義の傾向です

封建制度の有無でもまた、チームワークを重んじるか、個人プレーかが変わってくるのではないかと思いました

そういった歴史的背景から、親から子へ数珠繋ぎ的に教えられ引き継がれた価値観から、
調和を重んじ、周りを見て行動する他人軸か、
自分軸に行動するのかという差が生まれるのではないかと思いました

英語で海外の人とコミュニケーションするに当たり、
歴史や宗教的側面、民族性などを意識して会話をしていけば、
なぜ相手がその様な振る舞いをするか紐解くヒントになるのではないかと考えました

また、積極的に発言できない自分の原因も見えて来て、徐々に克服してくるのではないかと少し出口が見えた様な気がします

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