ドライな僕だから持てる優しさがある
これは、僕にとって結構考えるテーマで、noteでも何度か書いているような気がします。
人の言葉って面白くて、どんな言葉であっても「その人らしさ」がにじみ出るものだなー、と感じます。
会話の中で、「その人らしさ」がにじみ出たとき、そのにじみが「じゅわっ」と僕に染み込んできます。
その感じが、面白くて、楽しくて、うれしいな、と喜びになります。
だから、僕は「聴く」ということが好きなのだと思います。
キャリアコンサルティングやコーチングの中では、どんなにじみも受け止める、というスタンスでいますが、
普段の会話の中で、時たま、にじみが激しいと感じるときがあります。笑
そんなときは、そのにじみにただただ圧倒されたり、時に華麗にスルーしたりしています。
「自分の普通を普遍にまで持ってこないで」、と。
素直に書くと、にじみが激しすぎる人との会話の中で、僕はきっとその人を、「優しくない」と判断していることがあるのだと思います。
昨日の記事でも書いた言葉ですが、
「人は見たいものを見たいようにしか見ない」
そういうふうにできているのかもしれません。
にじみが激しいというのは、「見たいものを見たいように見ている」という自覚の無さ、だったりするのかな、と思ったりします。
そう考えていくと、
ということが浮かんできます。
余白のある会話。
書いてみて、素敵と思いました。笑
会話だけじゃなく、こうやって書いているnoteの言葉も、働き方、暮らし方、生き方も余白があるといいな、と僕は思います。
そして、「余白」というのは、ドライだからこそ持てるものなんじゃないか、と思います。
余白って、
から生まれたりします。
それは、こっちから見ると「ドライ」に映って、あっちから見ると「余白のある優しさ」になったりします。
僕は、自身を「ドライである」と自覚しています。
「私は私、あなたはあなた」とか、「あなたの全て、世界の全て、本当のことなんて知らない」ということに、すんなり心が溶け込みます。
けれど、それは優しくないわけじゃない。
そんな風に思います。
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