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最初で最後の「何も言えなくて…夏」

休日に会社のノート
パソコンを自宅で立ち上げる。
もう慣れてきた。

新卒で入った今の
会社を4年目でリーダーを
任せられるようになってから、
目の回る忙しさだ。

曜日の感覚が最近はない。
今日は確か土曜日だったはずだ。

そろそろ学生時代から使っている
扇風機を引っ張り出す
季節だがそんな余力は彼にはない。

趣味のロードバイクからも社会人に
なってから入ったフィットネス
ジムからも最近は遠ざかっている。

社内のフォルダにデータを
取りにいこうとしたとき、画面がフリーズした。

慌てて再起動の処理をする。
最近はよく起こるし、時間が
かかってイライラする。

舌打ちしながら、スマホの
メッセージアプリを立ち上げる。

やっぱり既読になっていない。
その1個前のメッセージを読んでほしいから、
最後はスタンプにしたのに。

なんでもっと彼女のために
時間を使わなかったのか。

付き合いはじめのころより、
明らかに会う回数は
減っていた。彼女からのメッセージ
にスタンプだけで
返して終わらせたこともあった。

そこに罪悪感すら感じなくなって
いたのだから、重症だ。

もう二度と会わない方が いいと言われた日
やっと解ったことがあるんだ 
気づくのが遅いけど

自分の父親の好きな曲で
そんなフレーズを思い出した。

何も言えなくて…夏。
ネットで調べたら、1991年の
ヒット曲らしい。
たまに父親の仕事場にいくときに、
当時はまだあったMDを
使って聞かせてくれた曲で
印象に残っていた。

彼は父親が大学4年生だった
22歳のときの子供だった。
当時ゼミが一緒だった母親と
いわゆる「できちゃった婚」
だったらしい。

最近は「授かり婚」ともいうようで、
そんなカップルの結婚式に出たばかりだ。
リモートだったけど。

母親がそれなりに厳しい家
だったようで、父は結婚の際、
苦労したようだ。
その頃の話をあまりしたがらない。

そんな父も5年前に妻、
つまり彼の母親をなくした。

突然がんが発覚しての
余命宣告だった。
入院してからは、
父親にとっても彼にとっても
慌ただしい時間だった。

小さなビルメンテナンスの
会社を経営する父親は、
典型的な仕事人間だ。

いまどき珍しいかもしれないが、
「黙っておれの背中についてこい」
という感じのタイプだ。

土日も全然関係なくて、
いわゆる家族サービスといった類の
ものは、無縁だった。

そんな背中に黙って寄り添って
きたのが母親だったのだろう。

ちょうど就職活動が一段落した頃。

病室で母に内定を報告した。
なにかつっかえていたものが
取れたかのように、母はぽつり
ぽつりと語りだした。
彼が聞いたこともない、過去の話だった。

会社の跡取り息子として育った父は
学生時代遊び呆けていたこと。

妊娠が発覚する直前1週間前までには、
もうついていけないと思い、
別れをきりだそうと思ったこと。

お腹に子供がいると分かってからは、
人が変わったように遊びらしい遊びを断ち、
仕事に没頭してきたこと。

「私は分かっているんだけど、
お父さん、本当に不器用なのよ、
あなたも似ているけど」

あのときほど、穏やかな母親の
表情は後にも先にもない。

父は、自分のかけがえのないパートナー
をなくしてからはますます仕事に熱中した。

一方でやや老け込んでいくように
見えた姿を息子をはじめ周囲は心配していた。

だが「不器用」なその息子は何が
できるわけでもなく、同じように
仕事場と自宅を往復する日々を過ごしていた。

ある日、仕事で終電を
のがしたときタクシーなら近いと
思い、シャワーだけでも浴びさせて
もらおうと実家に寄ったことがある。

ゴミ屋敷とまでは言わないまでも
散らかった部屋の中で、
ソファーの上で一升瓶を投げ出し、
父は眠っていた。

最近覚えたであろうスマホと
サブスクリプションモデルの
サービスを使ったのか。

スマホのスピーカーのボリュームを
マックスにして
リピート再生の設定になっていた。
設定されていたのはもちろんあの曲である。

あれほどガラケーにこだわり
続けていたのに、
いつの間に覚えたんだろう。
そのスマホを拾い上げようとしたとき。

また聞き覚えのある歌詞が残業で
くたびれた身体に染み入ってきた。

水のように 空気のように 意味を忘れずに
あたりまえの 愛などないと 心に刻もう

たしかもう30年ぐらい前の曲だ。
でも今の彼にはどうしようもなく、
重厚な形で彼におしかかってくる。

言葉の力はすごい。
過去、現在、未来。
分けて考える必要がない。

パソコンの画面はいまだ、
再起動の準備が進んでいる。
回復の兆しは見えない。

30年近く前に多くの方が共感し、
くちずさんだヒット曲。

そして当時、まだ生まれていなかった
若者の心を今こうして揺さぶっている。
気がつくとスマホであの曲を
探し始めた。

気づくのが遅かったかもしれない。
忙しくさせるものに没頭して逃げてきた。
彼は自分の弱さに向き合い、
気づくことができた。

日頃の悩みや他愛もない出来事を綴って、
スタンプしか返ってこなかった
彼女の気持ちすら
思いやれなかった自分に。

確かこの曲は静かに男女が
別れていく結末だった。

昔のヒット曲に自分を重ねるなど、
なんかださくて
恥ずかしいと思ったが、
一生に一度くらいはいいだろう。

父は最後に母に伝えられたのだろうか。

「ごめんなさい」と「ありがとう」

この曲の結末のようになったとしても、
最後にきちんと伝えたかった。

そういえば彼女とは、
ゼミの学年一つ下の後輩でもう
5年以上の付き合いだった。

そばにいることの「あたりまえ」の意味
を誤解し続けていた。

せめて最後に文字じゃなくて、声で伝えよう。
そう思ってスマホの緑のアプリを立ち上げる。

彼女のメッセ欄が2通。
2通目はポジティブとも
ネガティブとも捉えられない
有名キャラクターの表情だった。

1通目は
「今、病院に行ってきたんだけど話したいことがあるの。今日は会える?」

どうやら彼のパソコンは、はじめから
1日中フリーズする予定だったようだ。

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