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#わし流にいがたブラタモリの旅
わし流 にいがたブラタモリの旅 その14 「にいがた古町の堀 〜後編〜」
さてさて、後編はココ、白山神社からスタート。前編でも言ったけど、わし、これまで神仏にはまったく興味なかったから、白山神社にはとくに思い入れはない。
初詣や祭りも行かない。なぜなら人混みがキライだからだ。ま、しいて言うなら、学生時代に古町へ遊びに行くときの通り道くらいか……。あぁ……なんてつまらん人間よ……(汗)
白山神社の鳥居の前も堀だったんだなァ。これはめっちゃ風情あっていい感じ。堀に架かっ
わし流 にいがたブラタモリの旅 その13 「にいがた古町の堀 〜前編〜」
かつて新潟古町にはたくさんの堀が張りめぐらされていた。もともと新潟は港で栄えた街で、堀は舟運による物流の動脈として、重要な役割を担っていたのだ。
そこできょうは古町の西堀と東堀をジョギングしながら、かつての堀の痕跡を探してみようと思う。堀がどこを流れていたかはマップに入力しといたので、それを頼りにいざ、ブラタモリッ。
スタートはここ、早川堀通り。ここには堀を再現したものがあるというのだが……。
わし流 にいがたブラタモリの旅 その12 「古津八幡山遺跡④ 〜生活・ものづくり編〜」
弥生時代後期に起きた争乱(倭国乱)が収まったことによって、人びとは丘陵の上から低地へと集落を移した。その低地にあるのが舟戸遺跡である。
そして空いた丘陵の上につくったのが古津八幡山古墳である。時代は古墳時代へと移ってゆくのだ。
その古墳時代中期、舟戸遺跡の竪穴住居にはカマドがあった可能性が高いという。そうであればここは新潟県内でいち早くカマドを取り入れた集落といえるらしい。
また古墳時代の木
わし流 にいがたブラタモリの旅 その11 「古津八幡山遺跡 ③ 〜古墳編〜」
古津八幡山集落をかこむ環濠の外側から、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という墓が3基見つかったという。
有力者の墓と考えられてるようだが、その中の一つからは棺も見つかったんだな。そして中からは短剣と矢じりが見つかっている。どうやらムラの長にそえられた品と考えられているらしい。
標高がもっとも高いところに1基だけ、墓道が発達した四角い墓が見つかったそうだ。これは前方後方形への進化の過程での中間
わし流 にいがたブラタモリの旅 その10 「古津八幡山遺跡② 〜弥生時代編〜」
ここに弥生時代の定義が書かれている。それを読むと、ま、簡単に言っちゃえば、人工の田んぼをつくって稲作を始めたころから古墳が出現するまでの期間が弥生時代なんだな。
そしてどうやら稲作は西から始まって東へ伝わっていったようだ。とするとだよ、ここにも書いてあるけど、西と東とでは弥生時代の始まりにズレがあるってことじゃないか。
通常、弥生時代は紀元前9世紀ころからとなってるようだが、新潟の弥生時代の始
わし流にいがたブラタモリの旅 その9 「古津八幡山遺跡 ① 〜環壕集落編〜」
先日、たまたま車で秋葉区を通ったので、ついでに以前から行きたかった「古津八幡山古墳」に寄ってきた。
この周辺なんて何度も通っているし、何度も看板見てるのに、興味がないとまったく目に留まらない。ところが遺跡に興味が出てくると一転、めっちゃ気になり出すのだ。こんな近くに古墳があったのだからね。
古代の日本では弥生時代になって稲作が始まると、土地や米や水をめぐってムラどうしで争いがはじまったのだそう
わし流 にいがたブラタモリの旅 その6 「亀田砂丘の遺跡 〜鎌倉・室町時代編〜」
この時代から日本では武士が登場するんだな。そして流通や経済活動も活発になって、他の地域の焼き物や中国の磁器が発掘されるようになるのだ。
現代の中国産というと、安かろう悪かろうの粗悪品のイメージがある。しかしこの時代の中国は日本よりずっと文明が進んでいて、中国の品は高級品とされていた。
そのため土地の有力者は、中国産の青磁や白磁といった唐物をこぞって所有していたそうだ。つまり唐物は権力の象徴であ
わし流 にいがたブラタモリの旅 その5 「亀田砂丘の遺跡 〜奈良・平安時代編」
これはスゴいッッ! 見よッ、江南区の奈良・平安時代の遺跡発掘マップを。亀田の域を越えて江南区全域、赤点だらけだよッ!
……っと、なんか「赤点だらけ」というワードには、高校時代いい思い出がないせいかビクッとしてしまうな…
ま、それは置いといて、この時代になると亀田は大和政権によってどんどん開拓されていったという。そして平安時代になるとこんどは有力貴族や寺社が開発していくのである。
まあ詳しくは
わし流 にいがたブラタモリ日記 その4 「亀田砂丘の遺跡 〜古墳時代編〜」
古墳時代の遺跡の数が少ないのは、古墳時代の短さがあるのかな? 縄文時代は1万2200年間、弥生時代は1050年間、そして古墳時代はというと350年間だ(資料によって誤差あり)。
また古墳時代では「全国的に内乱(倭国大乱)があり、防御性を重視し丘陵上に集落を構える」とある。なんと内乱の防御という理由で秋葉区古津付近に集落ができたという。
たしかにあの辺りは小高い山がある。おそらくその内乱も、この
わし流 にいがたブラタモリの旅 その3 「亀田砂丘の遺跡 〜弥生時代編〜」
弥生時代の亀田砂丘の遺跡は縄文時代と同様に、砂丘に沿って発掘されている。また、海岸線は縄文時代とくらべると、ずいぶんと沖合へ引いて現在の海岸線に近くなる。平地が広がったのだ。
とはいえ、亀田砂丘の周りの平地をよく見ると、広がっているのは人の居住に適さない湿原だ。どうやら地図だけで想像するに、まだまだ暮らしの中心は砂丘の上のようである。
弥生時代の遺跡のなかでも代表的なのが西郷遺跡。うっかり、さ
わし流 にいがたブラタモリの旅 その2 「亀田砂丘の遺跡 〜縄文時代編〜」
ふと、わが地元亀田で発掘された遺跡を見たいと思い、亀田郷土資料館へと足を運んだ。以前は遺跡になんてまったく興味のなかったワシである。
それがなに、何千年という気の遠くなりそうなほどの長いあいだ地中に眠っていたものが、現代になってよみがえるという様を想像すると、なんだろ、静かな感動を覚えるのだ。これもブラタモリの影響だろう。
資料館に到着して、さっそく展示されている遺跡を鑑賞し始めた。撮影OKな