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わし流 にいがたブラタモリの旅 その10 「古津八幡山遺跡② 〜弥生時代編〜」


弥生時代とは

ここに弥生時代の定義が書かれている。それを読むと、ま、簡単に言っちゃえば、人工の田んぼをつくって稲作を始めたころから古墳が出現するまでの期間が弥生時代なんだな。

そしてどうやら稲作は西から始まって東へ伝わっていったようだ。とするとだよ、ここにも書いてあるけど、西と東とでは弥生時代の始まりにズレがあるってことじゃないか。

通常、弥生時代は紀元前9世紀ころからとなってるようだが、新潟の弥生時代の始まりは、紀元前4世紀の後半から紀元前5世紀の前半と考えられてるらしい。400年の誤差があるよッ。

現代はテレビや新聞、インターネットなどによって一瞬にして情報が伝わるけど、弥生時代は稲作が全国に広まるまで少なくとも400年以上はかかってたんだな。うへ〜〜ッ。


弥生時代後期の社会

新潟の文化は古くから信濃川と阿賀野川、そして日本海に大きく影響されてきた。それは弥生時代でも同様なんだな。

これらの海や河川を利用して、周辺地域の文化が伝わってきたそうだ。そういやこの前の講座では、火焔型土器は信濃川流域に集中して出土したとか言ってたな。

この時代の海や河川というのは文化の伝来において非常に重要な自然資源であり、文化の拠点となっていたんだな。

北陸系土器

北陸系土器の特徴は基本的には無地で、薄板で表面をなでたり(ハケ目)、工具で研磨したり(ミガキ)しているという。

石川県や富山県を中心につくられて、新潟県では阿賀野川より南に多く出土するらしい。ついでながら阿賀野川より北は東北系土器が多いようだ。河川をはさんで、伝わる文化が違ってくるんだな。


邪馬台国の頃の古津八幡山遺跡

弥生時代後期になると丘の上に集落がつくられるようになる。倭国乱に備えた防御を重視した集落だ。地図を見ると新津丘陵から長岡にかけて、平野を見下ろすように作られていったのがわかる。


かつて戦いはあったのか

弥生時代は日本の歴史上、初めて戦争が起きた時代だという。稲作が始まったことで土地や米などの資産というものができたからだ。それら資産をめぐって、悲しいことに人間どうしが殺し合うっちゅうわけじゃな。

そんでこの古津八幡山遺跡では実際に戦いがあったのかってのは……不明らしい。

ついでながら、鳥取県の青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき)では切り傷や刺し傷の残る人骨が100体以上も見つかってるとか。


灌漑を掘る労働力

古津八幡山遺跡の環濠を掘るには、いったいどれくらいの労働力が必要だったのか? それを土の量から計算すると、30人が毎日掘ったとしても61日(約2ヵ月)かかるという。

しかし雨の日もあれば農作業も平行しなければならないことを考慮すると、おそらく半年ちかくかかったと考えられるそうだ。

イラストを見ると木製のスコップやクワを使っての人海戦術。こりゃたいへんだったろう。掘るだけなら現代ではショベルカーであっという間に終了よ。

各地から来た人びと 人の移動

文化の伝来はただモノが伝わっていったわけでなく、人の移動もあったようだ。一部の人びとがヨソに移動することによって、その土地の文化が移動先の地に伝わっていくんだな。

八幡山式土器

弥生時代後期に古津八幡山遺跡でつくられた土器。北陸系と東北系の両方の特徴をあわせ持つという。北陸系のハケ目やミガキ、そして東北系の内湾しながら高く立ち上がる形が八幡山式土器だとか。

天王山式土器

いやはや、黄色いボードの説明文が画像から切れとるという失態。いちおう天王山式土器なんだが、ネットで調べた特徴と画像の土器がいまいち一致しないんじゃな。

これは後日、もう一度来館して説明文をしっかり撮ってこなくちゃならんな。


米の消費量から推測した水田の面積

ここで注目するのは、表にある現代と弥生時代の比較。米の取れる量をみると、田んぼ 1000 ㎡あたりに取れる量は、現代は 520 ㎏に対して弥生時代はわずか 64 ㎏。約1/6である。

食事スタイルを見ると、弥生時代は米は主食になり得ないとある。少なすぎるのだろう。縄文時代から続く食事スタイルにプラスアルファってとこか。

なんか弥生時代から米が主食になったイメージだったが、どうやら違うようだな。そりゃそうだ。最初から簡単にバンバン米が収穫できるなんて、そう都合よくいくわけがない。

先人らが長い年月をかけて試行錯誤しながら継承していったことによって、少しずつ安定した収穫が得れるようになったのである。歴史やなぁ〜。


ムラの建物


竪穴住居(復元)


中は残念ながら見れない

古津八幡山遺跡では約50棟の竪穴住居の痕跡が見つかったという。土を掘り下げてつくる住居だ。復元したものにはなかったが、掘った土を周りに盛り上げて、さらに外側に溝をつくったという。中に水が入らないようにするためだ。

中は4本の柱と真ん中に薪を燃やす炉があったとか。復元された竪穴住居は残念ながら中が見れなかった。うぅぅ……、中までは復元されてないんだろうか。


ムラの食事

遺跡からは米だけでなく、いろいろな植物や種や実が見つかっている。ま、米の収穫量は主食になりえないほどなんだから当然といや当然だ。

っと、表を見ると、ドングリすげぇーッ。ドングリは稲より多いのか? ってことは、主食はドングリ?? ご飯をおかずにドングリを食うのか??

え、モモって桃?? あんな収穫が難しい桃が?? 弥生時代の桃は現代の桃とはだいぶ違うものなのかな?? わし、むかし桃農家さんと交流あったから桃のむずかしさは知ってるぞ。ふつうの一般人よりも……

古津八幡山遺跡のジオラマ


いやぁ〜〜〜ッ、こんなん見ると職人の血がさわぐぞ。作ってみてぇ〜〜〜。 つづく。


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