見出し画像

小説「哀愁のアクエレッロ」:六章・名もなき絵描きの幸福

 翌日、夜の八時少し前に約束通りAcquerelloに到着した。今度はまるで我が家のように慣れた態度で店内に入ると、ルイゼッラが例の大黒様スマイルで迎えてくれた。相変わらず体が重たそうだ。今夜はお客も三、四組入っているようで、フランチェスコは厨房で忙しく仕事をしていた。ウェイターのサマンタも例の如くピンと背筋を伸ばした姿勢を崩すことなく、店内をあちこち歩き回りながら愛想をふりまいていたが、僕の顔を見るなり、

「チャオ!」

と、手を挙げて挨拶してくれた。ルイゼッラは僕をテーブルに案内すると、早速カプチーノを淹れてくれ、

「よく来てくれたわね。色鉛筆はちゃんと持ってきた?」

と、聞いてきた。

「うん。ほら、これ」

 例の薄汚いリュックサックから色鉛筆を取り出しながら応えた。二十四色のごくありふれた色鉛筆である。

「空いているテーブルならどこでもいいのよ。好きなところから描いて」

 描きたい角度はすでに前日のベッドの中でいろいろ考えていたので、だいたい見当はついていた。入り口を入った正面奥のテーブルに陣取り、バーをかすめるように店内を見渡した眺めを切り取るのである。この角度からならワインボトルの並ぶ具合、おしゃれな壁の飾りと弱めの照明の調和、テーブルや棚のアレンジの様子などをすべて一枚に描ききれる気がしたからだ。

ここから先は

3,094字
この記事のみ ¥ 100

サポートいただけたら、感謝の気持ちを次のチャレンジに向かうモチベーションに換えさせていただきます!