頭の中の風通し
頭の中が忙しい。
そう感じることは、少なくない。実際の仕事量とか活動量とは比例せずに、頭の中が忙しいことはよくある。数え切れないほどの心配事や、考えないといけないこと、無駄にしか思えない過去の振り返りと、どうしようもない未来への不安とか。もちろんネガティブなことだけじゃなくて、強すぎるワクワクとか、興奮冷め止まない楽しさとか、大き過ぎる期待とか、一見良いことのように見えることも、全部。人間の脳の許容度を可視化してみてほしいと思ってしまうほど、わたしたちの脳内回路は止まることを知らない。
今まで何度も触れてきたことがあるけれど、わたしの場合はスマホ依存もそれを大きく加速させる。スマホの中にある物事が、わたしをものすごい振り幅で一喜一憂させる。しかも無意識のうちに。
つまり、スマホの使用量を減らすことでわたしの脳は一旦落ち着きを取り戻す。スマホの中の、特にSNSとの接触頻度を減らすことで、そもそもの入ってくる情報量を減らし、人との無駄な比較をする必要がなくなり、健康的な脳内状態が戻ってくる。なので定期的にスマホ断食的なことはするし、普段からスマホを必要最低限しか触らないようにする、という心がけは忘れないようにしているつもりだ。
ただ、どれだけスマホと距離を置いていたとしても、頭が忙しくなることはある。そんなときはそのスマホ断食的なことと並行して、わたしは「とてもゆっくり動くこと」を意識するようにしている。(できていないことが多いからこうして書くことでもっと意識しようという作戦でもある。お付き合いありがとう。)
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「焦ること」「マルチタスク」「雑な動き」といった普通に当たり前になってしまっている状態そのものも、わたしの脳を騒がせる要素のひとつだということに最近ようやく気づき始めてきた。知ってはいたけれど、本当にそうだと腑に落ち始めたのがここ最近。
実際の行動スピードがテキパキしてるかどうかは置いておいて、急がなきゃ!という意識で動くこと。あれもこれもと同時にいくつものタスクを進行させること。そして、そんな状態で取り組むが故に、ひとつひとつの動きが「雑」になっていることが、わたしを心身ともに極限まで不快にさせる。
それはつまり、今目の前にしてあることをしっかりと五感を使って感じることができず、観察することができずに、(目の前にしているものが人でもモノでも同じくして)自分の都合のいいようにどうにかしようとしている状態になっている。
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先日たまたま聞いていたラジオ番組『星野源のオールナイトニッポン』の中で、『一汁一菜でよいという提案』という本を書かれた料理家の土井善晴さんをゲストにお話しされていた回があった。
その中で土井さんは、人間都合で早く煮込まれてしまう大根の話をされていた。本当は大根だってゆっくり自分のペースで風呂に入りたいだろうに、早く煮えてくれと言われるかのようにガンガン強火にかけられ、季節や個人差もあるのにレシピ本通りの形に切り揃えられ、いらないところは切り捨てられる。土井さんは、料理は本来そうじゃないとおっしゃる。人間都合で自分本位に具材をどうこう調理するのではなく、野菜の気持ちになって感じてみる。合わせてみる。
大根の時間に人間が合わせるということをすると、大根はご機嫌で時間が来たら必ず美味しく仕上がる。そういうものだ、と。
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何においても、きっとそれは、そういうことなんだろう。わたしが「ゆっくり動く」ことでしようとしているのも、自分都合のせかせかしたスピード感から離れて、目の前のものが扱われて心地のいい感覚に、自分が合わせていくということ。そうやって目の前のものに合わせるという動き方をすることは、焦っていたり、何かと同時だったり、雑に扱ってしまう状態ではきっと難しい。
食べる、歩く、触れる、呼吸をする。そういう当たり前のことをいつもの倍は時間をかけるつもりで「ゆっくりと」行うことで、わたしの頭の中でざわついている自分都合の雑念がふわーっと晴れてくる。なんだか心地のいい風が頭の中を吹き抜けたように、一気に軽くなるのだ。
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