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6時間目 移民が変容させる「存在の物質的な諸条件」(D.パパドプロス『実験的実践』)

D.パパドプロス『実験的実践』(Experimental Practice)。けど今回でいったんおしまいにしようと思います。理由は飽きたから…というか読んだんだけど、まとめるほどの楽しさがなかった。

あと、なんかこなれた日本語タイトルが欲しかったなと思います。わたしはセンスがないので。エクスペリメンタル・プラクティスそのままの方がよかったかな。

パパドプロスの見る社会運動と物質的空間

これまでイントロを時間をかけて読んでみた。細かな点を研ぎ落として思い出すと、近年ヨーロッパや北アフリカを中心に相次いだ社会運動の「すでにそこに現れているが、いまだ完全に現れきってはいない」ような性格にパパドプロスは着目しようとしている。パパドプロスが特に力点をおいているのは、物質的空間のあり方=存在論そのものを根底から変えてしまうような可能性だった。具体的にはテクノサイエンスだ。

例えば「アラブの春」では運動の様子が動画に記録され、ソーシャルメディアを通じて拡散されていた。恥ずかしながらこの記事を書いているときに知ったのだが、総務省の『情報通信白書』というのがあって、その平成24年度でもこの特徴についての言及がある。

また最近では香港の運動に関して、FacebookやTwitterで毎日のように様々な動画が配信されているのを目にするだろう。中にはショッキングな映像も少なくない。当事者の間だけでなく、物理的・地理的に離れたところにいるバラバラの人たちも、その運動のネットワークの中にすでに結びつけられていることがよくわかる。周庭さんは特に日本でも有名だ。

このような社会運動が作り出そうとしている「自治」の空間は、壁を作って閉じこもるのとは全く反対であるとパパドプロスは考えていた。彼の見方によればむしろ「物質的な相互接続性、実践的組織化、日常的共存在、存在論的同盟の強化」という特徴がある。既存の社会的制度ではなく、日常を作り上げているすでにある/これから現れるモノによる繋がりが問題なのである。

この理解を具体的にみていけるのは、パパドプロスがイントロでケーススタディに基づいていると言っている第三章「存在論的組織化(Ontological Organizing)」が良いのかなと思って、第一、二章は飛ばした(特に第一章は抽象的概念の雨霰で厳しかったというのもある)。とはいえ、第三章もしばらくは抽象的な話が続く。少し脱線してしまうが、この著書の参考文献一覧と巻末註を見れば一目瞭然、パパドプロスは膨大な先行研究を短い行・ページにギュギュギュッと詰め込んで、そのエッセンスで論を組み立てている。彼は、わたしたち読者に対して、それぞれ註に示されている具体的な事例研究にさかのぼり、本書の議論との対応を吟味することを期待しているのだろう。もしこの文献を研究に活かすとすれば、その作業は避けられない。

モノ・情報・動き

第三章はパパドプロス自身がフィールドで出会ったひとりの移民についての記述から始まる。これはとても具体的だ。それは2010年9月に彼がレスボスで「Sapik」という人物に行ったインタビューの書き起こしである。

Facebookを使って家族とコミュニケーションしているかって?いいや。必要なのはケータイ、それだけだよ。家じゃケータイ以外何ももっちゃいない。……Facebook上では、何年も便りのなかった友達との交流を取り戻しているよ。彼らは今パリにいる。……(49頁)

このインタビューの中には、ネットカフェ、そこで印刷した旅の道のりを確かめるためのGoogleアースの地図、ケータイに搭載されたGPS、指紋のコピーなどなど、移民が動くことを可能にしている様々なテクノロジーに支えられたモノたちが散りばめられているのがわかる。かれらはどこへ行くにも、これらのモノと情報と一体となっている。そしてその道のりも物質である——ドイツへ向かう列車、ハンガリーのキャンプ、などなど。

「モバイル・コモンズ」

パパドプロスは本章で「社会運動という視点から、オルタナティブな諸存在論を組織化する自立した政治的実践 (an autonomous political practice)」を具体的に考察するのだという(50頁)。彼は「諸社会運動における最近の諸実践の内側から立ち現れている自治に関するオルタナティブな諸理解」にアプローチするともいう(同頁)。「Sapik」のような移民は既存の物質的空間の条件とは違った仕方で存在する組織を作り出している。具体的にみてみると、移民たちは道のほどで、あるいはどこかに到着した時に、情報を交換し、情動による協力を築き、互いに助け合っている。このような活動をしながら動いては立ち止まって、そのようにして存在している。私はこのようにして彼らが日々生きる、その行為や情動の軌跡を、網目と各所の結節点のようなイメージで想像した。それは何かガッチリと囲まれ、ひとところに留まり、固定的な資源によって成り立っているような自治とは異なった世界だ。このような存在論をパパドプロスは「移民のモバイル・コモンズ(the mobile commons of migration)」と呼んでいる。

このモバイル・コモンズは、国境を平気で跨いで成り立っている。その意味で、その実践と交流の広がりは、ヨーロッパにおける市民権に対する挑戦であり得る。パパドプロスはそのようにみている。

私がここで提示しているアイデアとは、Peter Linebaughが記述したように、壁にある一筋の裂け目を開くという試み、そしてすでに敷かれた政治的諸制度に対してアクションを起こすことに着目するだけの政治の地平の背後に隠れている、諸可能性を探査するという試みである(50頁)。

パパドプロスがみている可能性とはつまり、境界があり、その内側に自治があり、そして権利がそれぞれに与えられているという枠組みに囚われない、新たな自治である。その可能性を、動いては止まり、そうして交流する移民たちの実践が作り出していると考える。

しかし、移民と自治というのは、常識的にはミスマッチだ。移民は近代国民国家の枠組みで考えれば、どこかから出てどこかへ向かっている最中であり、別の境界の内部に正式に加えられるか、あるいは侵入する存在だ。宙ぶらりんの身分にしておかないよう、境界のあっちとこっちの間の移動は、本来厳格にコントロールされている。か、そのルートをとらない(例えば、海をボートで渡ってしまう)ことで、どこへ行っても宙ぶらりんとなる。

宙ぶらりん=移動性mobilityの中にある移民を固定inmobililzeするのか、これらが常識的なわたしたちの発想だ。しかしパパドプロスは、私たちが今直面している状況における問題は「移動性をいかに制度化するのか」であると指摘する。パパドプロスはこの発想には移民をいかに生産者に変えるのかが関わっていると指摘する。ここで移民に対して、空間的な動きから、時間的な動きをもった存在として考える視点がでてくる。構造の中の特定の配置についた安定した生産者になるとは、恒常性を社会的性格として備えた存在への変容を意味している。

移民管理はスピードとその制御に関わっているのである(53頁)。

これは今日本に暮らす私たちにとってしだいに理解しやすくなってきたのではないか。つまり、日本の人口のうち半数が高齢者になる時代がもう見えてきた今、そして少子化になんとか対応できるある時期を過ぎてしまった今、もっと私たちの社会の構造の中での移民労働者の配置をふやそうじゃないか。そういう話はそこかしこで聞かれる。国境の内側の政治や経済の様子をうかがって、国境の多孔性を調整しようということだ。バンバン入ってきて定着して働くようにするスピードを制御しているのだ。そのいっぽうで、未だに難民などのスピードはとても遅々としていることも知られている。何年家の間にほんの数名しか許可されなかったとかは、その例だろう。

だが、人の移動性を制度化すればするほど、統治権の安定性——きっちりと外部と分け隔てられた状態、その内側すみずみに力が浸透した状態、内部の構造が自己充足的な様——は不安定になっていく。

統治権とは諸境界の多孔性(the porosity of borders)を制御しようという無益な試みなのである。つまりそれは、多孔制(porocracy)なのである(同頁)。

「差異ある包摂(differential inclusion)」と「不可能な市民権」

差異ある包摂の意味合いは、入国における異なる様式および異なる居住ステータス——主として移民管理局や法的諸条件を通じての——が労働する異なる諸主体を創り出す、というものだ(55頁)。
市民権のこの機能には一つのパラドクスがある。つまり、ある社会が市民権の極に動けば動くほど、その社会は行政のいち形態として、その消失のための諸条件を創り出してしまうのである。「みんなに市民権を」というのは、不可能な言い方なのだ。というのも、それは常に「達成できない」のだから(van Gunsteren, 1998)(56頁)。

移民の贈与経済

(やっと事例的なものにめぐりあえる。)

2009年8月、アムネスティ・インターナショナルの代表たちとパパドプロスは北アフリカから渡ってきた5人の女性とレスボスにあるカフェで面会する。レスボスはトルコからギリシアに渡る、とてもよく使われているルートだった。そのために移民の収容キャンプは定員オーバー、収容者の指紋のコピーの登録もされないままに、解散してしまった。

この面会で一番の驚きだったのは、彼女たちの中には誰も典型的な法律破りの被害者のイメージに合致するような仕方の見た目やふるまいをする者がいなかったことだ。むしろ、彼女たちは疲れ、落ち着き、決然とし、そして楽観的に見えた。この日このあとはどうするのと尋ねられると、彼女たちは知らない、でも次にすることは、ネットカフェにいってメールとフェイスブックをチェックすることと答えた。「接続をつくる。わたしたちの道をつくる」と、彼女たちは去る前にそう言ったのである(67−8頁)。

恥ずかしながらここまで読んで私はがっくししてしまった、というか力が抜けてしまった。移民が創り出すオルタナティヴな存在論というのは、移動の先々でネットカフェに行ってメールとフェイスブックをチェックすることでうまれる繋がりだということだった。5人の女性は北アフリカの別々の場所から来ていて、その途上で合流している。その彼女たちが、こういうソーシャル・ネットワーキング・サービスを駆使しながら、先々で「わたしたち」を作っている。パパドプロスの言う、移動性とテクノサイエンスを前提にした新しい存在論ってのは、このことなのである。でもなんか、それだったのかぁ…という感じがしてしまった。

ただパパドプロスのこの「畳み掛け方」というか、具体から抽象への飛躍スピードは、参考になるところもある。

本章で私はこれをモバイル・コモンズとして言及している。つまり、それは、ある共有された情動、情報、テクノロジー、財政、文化、物質、このような性質で形容される、所与としては存在するのではなく継続的に更新され拡張される場所である。移動する人々の、数え切れないほどの、調整されることはないがしかし存在論的に変容するような諸行動は、モバイル・コモンズの制作に寄与しているのである(68頁)。
移動性とは、多数の他の人々やモノに依存する一つの過程である。この極端な依存性はただ互酬性を通じてのみ適切に維持されている。そして移民同士の互酬性とは交換を意味するのではない。むしろ、それは他の移民が移動性へのアクセスを増やすことを意味している。アクセスを増やすこと 、それは移民の贈与経済なのだ。これはモバイル・コモンズの世界だ。これは第二の世界、つまり世界2で、私たちのほとんどが権利や市民あるいは政治活動家として経験する世界を超えている。世界2は常に制作されている途中の世界なのである(68頁)。

こうやって、ネットカフェ、メール、フェイスブックから、どうやって言葉を別の言葉に抽象化させ、議論をふくらましていくのか。パパドプロスは良くも悪くもそのスピードが速いので、卒論とかで、なかなか議論を「らしく」できないときに、参考になるのかもしれない。…と、ちょっと投げやりな終わり方になってしまった。


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