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「夢みる小学校」で育った私のうらぶれた人生

窓ぎわの妃都美ちゃん

先月、ドキュメンタリー映画『夢みる小学校』をシネマート心斎橋にて鑑賞した。監督は『いただきます』シリーズのオオタヴィンで、ナレーターは俳優の吉岡秀隆が務めている。まず最初に一人で観て、その数週間後に母を連れてもう一度、計二回観に行った。それほど私の中で、心に残った映画だった。

作中には、宿題やテスト勉強よりも、子供の個性化や体験学習を重視する、山梨県南アルプス市の小学校が登場する。インタビューパートでは、脳科学者の茂木健一郎や、教育評論家の尾木直樹、作家の高橋源一郎が出演し、その小学校の教育方針を高く評価していた。

実は、私こと楓山は、その小学校(厳密には、映画で取り上げられた学校ではなく、関西にあるその兄弟校。以後、「学校」と表記する)の卒業生だった。

「学校」は普通の学校とはあまりにもかけ離れた、かなり特殊な環境であった。私はそこで育ったおかげで、一言では話し切れないような複雑な人生を歩まざるを得なかった。周りの人々が酸いも甘いも嚙み分けてきた荒波を生きる魚か、同じ農場で暮らす大量の白い羊だとすれば、私は小さなガラス鉢の中で生きてきた一匹の金魚か、農場の中に一頭だけ取り残された黒い羊のようなものだった。

正直に話すと、この記事を読んでいるあなたにも、私の人生の苦労を、心の底から正しく理解してもらえるかどうか、ほとんど自信がない。私の人生を追体験してもらい、私と同じ気持ちになりきってもらえる文章としてまとめられただろうか。伝え方が悪かったらどうしよう。不安でたまらない。

それでも、私という一個人を誰かに知ってもらうには、私が子供時代を過ごした「学校」のことを語るのが必要不可欠だと感じ、勇気を出して話させてもらうことにする。話は私が産まれる前、うちの母の高校時代に遡る。

私が「学校」に入学するまで

その当時、黒柳徹子が自身の幼少期を振り返った自叙伝『窓ぎわのトットちゃん(1981年)』が大ベストセラーになっていた。三姉妹の末っ子に生まれ、お利口な娘になって欲しいという父(注:私からすれば母方の祖父。私の父の実家は山陰地方にあり、離婚したこともあって父の実家と交流することも数えるほどしかなかったので、私にとって祖父母といえば、もっぱら近所に住む母方の祖父母のほうだった。以降、原則として母方の祖父母を指す)の願いによって知恵子(仮名)と名付けられた母は、高校生の頃は県大会で優勝するほどの実力を持つ剣道少女であった。その一方で、早朝に目覚めては授業以外の夕方まで、一切休みなしで毎日竹刀を振るうため、家に帰る頃には体力を使い果たしてしまい、祖父の願いとはむなしく、勉強が苦手でテストの成績がすこぶる悪かった。なにしろ、祖母の父は某大手電力会社の元重役で、彼の兄弟には東京大学や旧帝国大学の卒業生が多く、祖父の兄も関西大学法学部出身の元裁判所書記官という、文字通りのエリートとセレブリティ揃いの家系だったため、子供たちにもそれぐらいの技量を求めるのは当然だったのかもしれない。母はなんとか高校は卒業できたものの、大学には進学せず、就職して父と出会うことになるのだが、それはまた別の話だ。

そんな母はこの本の中に登場する、黒柳が幼少期を過ごした「トモエ学園」の存在を知り、人生が変わるほどの感銘を受けたらしい。トモエ学園は、廃車になった電車を教室として利用したり、お弁当に「海のものと山のもの」を含んだ食材を入れたりと、自然と共生しながら子供たちの「個性」を重視する教育方針が特徴だ。部活と勉強を両立できない自分にコンプレックスを感じていたからこそ、子供たちの個性を尊重するトモエ学園の教育方針に魅力を感じたのだろう。そして「もし結婚して子供ができたら、トモエ学園みたいな学校に通わせてやりたい!」と思い立ったという。

その後、母は結婚し、私と妹(次女)の子育てをしながら、ふとテレビのワイドショー番組を目にすると、トモエ学園と似たような教育方針を取っている学校が本当にあることを知る。トモエ学園はすでに廃校になっていたため、母にとって僥倖だったはずだが、それこそが「学校」である。

私が小学校一年か二年の頃だろうか。当時私は公立の小学校に通っていたのだが、近所の公民館で反戦を題材にしたアニメ映画を上映する機会があり、三歳年下の妹ともども、母にそこへ連れて行かれたことがある。そこで上映されていたのが、黒柳の母親・黒柳朝が主人公のアニメ映画『チョッちゃん物語』だった。私自身は当時「学校」やトモエ学園の存在をまだ知らず、『徹子の部屋』や黒柳の存在は知っていても、彼女の名前までは知らなかったので、映画を観てしばらくした後に、アニメに登場した主人公の娘の「徹子」がタマネギ頭の女性と同一人物だと認識してビックリした記憶ぐらいしかなかった。トモエ学園や小林校長の描写がどんなものだったかも覚えていないが、この頃からすでに母は「学校」の存在を知っていて、その前哨戦のつもりで連れて行ってくれたのだと思う。

しばらくして、私は母に「学校」のことを聞かされて、普通の学校にない魅力を感じ、小学三年生の頃にそこに転校することになった。母から聞くところによれば「学校」は宿題や学力テストがなく、遊びながら暮らせるところらしい。しかも「学校」は私の地元の隣県に所在するため、祖父母からは「ひとみはまだ小さいというのに、どうしてそんな遠いところまで行かせるんや」と猛反対されたという。母は私が一年生のうちに入れておきたかったようだが、「学校」のあまりの特殊性に惹かれた親たちが、自身の子供をそこに入れるべく争奪戦を起こしてくる。入学者の人数が何年もキャパオーバーし続けたため、抽選を重ねた末に転校生という形で入学することになった。私が合格の条件となる三日間の体験入学・面接・作文のすべてをクリアしたとき、母は「これでひとみがやっと、自分が想う理想的な教育を受けられる!」と感じたという。この微妙な入学時期によって、やがて思春期の私が「普通の学校で過ごした小一から小二までの記憶」にすがりつくことになるとは、当時はまだ知らない。

「学校」ってどんなところ?

そこは、普通の学校とは、何もかもが違っていた。

「学校」の始業時間は基本的に午前9時から始まるが、毎週月曜日だけは午前11時から始まる。月曜日の朝になると隣県から来た子供たちが一斉に最寄駅に集まり、教師が運転する送迎バスに乗り込んで、人里離れた山の中にある「そこ」に向かっていくからだ。私と妹は毎週月曜日の早朝に実家を出て、片道二時間かけてその最寄り駅まで向かっていた。お互いランドセルではなく、生活必需品が入ったリュックを背負い、電車に乗っている私たちは、ときどき周辺の大人から「あの子たち、小学生よね? ランドセルも背負わないで、いったいどこへ向かうのかしら」という白い目で見られることもあった。

「学校」は、小学校から高校(高等専修学校)まで存在するエスカレーター方式で、授業は国語や算数ではなく(小学校時代は教科書を開いたり、計算ドリルを開くことなど一切なかったが、中学校に入ると普通の学校と同じ教科書を使い始め、少しは普通の勉強に近いこともやる)、中間テストや期末テストもなく、クラスごとに建築・料理・演劇・農業などに分けた体験学習がメイン。そのため、クラスは学年別に分けず、教師(原則として教師とは呼ばず、『大人』という呼び方をする。ポジションは教師と似ているが、吉岡のナレーションを借りれば『アドバイザー』か『相談相手』が妥当だろうか)のことも◯◯先生ではなく、タメ口で会話するし、友達感覚であだ名で呼ぶことが決まり。

さらには、全国から子供が集まってくるため、小学生の時点でいきなり学校の寮に入れられ、平日をそこで過ごすことになる。祖父母が私の「学校」入りを反対したのも、このためだったのだ。入学当初は毎週奉公に行かされるように強引に親と引き離され、一つ屋根の下で知らない子供や寮母との共同生活を強いられるため、子供たちは泣いてばかりいる。「学校」あるあるの一つとして、毎年四月から六月ぐらいにかけて、寮の消灯時間が来ると、同部屋の新入生のすすり泣く声をしょっちゅう聞いていたものだった。しかし、一緒に暮らす先輩から「オレも昔はそうだったよ」と励まされると、いつの間にか寂しさを克服して生活に慣れ、「学校」の一員として成長を遂げていく。私もホームシックが抜け切れず、母に会いたくてたまらなかったものの、それでも数ヶ月後にはホームシックを克服することができた。そんな私を見て、祖父母も「学校」での生活を認めたようである。

私自身も「学校」で、小学三年生から中学三年生までの計七年間、クラスで上演する劇の脚本を書いたり、料理や陶芸をしたり、工作をするなど、机上でのテスト勉強ではなく、それ以外の分野で自分の能力を発揮できる環境で日々を過ごした。友達もたくさんでき、同級生組のクラスメイト一同とは、今でもグループLINEを作って、ときどき連絡を取り合っている。あの頃を思い返せば、人生で一番楽しかったと思う。

ちなみに、「学校」の正式名をインターネットで検索すると、「宗教」「宗教団体」などという怪しげな予測変換が登場するのだが、決して新興宗教団体などではない。あくまでも子供たちの個性を尊重したユニークな学び舎というだけだ。卒業生の私が断言しよう。

小テストカンニング事件

私は中学三年生で「学校」を卒業し、地元にあるキリスト教主義系の名門女子校に進学した。ほかの生徒と同じように制服を着て(『学校』の中学校と高校には学生服が存在しない。高校受験本番の際は、私服で来るわけにもいかず、普通の学校に通っている年上の従姉妹の制服を借りて臨んだ)、教師のこともきちんと「◯◯先生」と呼ぶ私は、見てくれだけは「普通の女子高生」となんら変わらなかった。

もし、あなたの学生時代が、学生服を着て、中間テストと期末テストがあって、体育祭と学園祭があって、同じ環境で育った仲間と、ある程度の決まったエスニシティを共有しているとしよう。みんながみんなそうだったよね、こうだったよねと、小さなムラ社会あるあるで盛り上がるはずである。しかし、そこに一人だけ「そのどれもすべてやったことがないような子」が混じっているとしたら。あなたも「この子だって自分と同じようにテストや学祭を経験しているはずだ」というマジョリティならではの目線で見てしまってはいないか。その一人こそ、私である。

高校に入学して最初に苦しかったのは、「学校」のことを知っている同級生が誰一人いなかったことだった。友達に「あっきーってどこちゅうなん(どこの中学校から来たん)?」と聞かれ、私が「学校」の名を答えても、「なにそれ」という顔をされるか、特別支援学校と勘違いされたりした。後述のように、テレビの取材がたくさん来ていたため、私は「この中で誰か一人くらい、『学校』のことを知ってる子がいるんちゃう?」と淡い期待を抱いていたのだが、それが最大の思い違いであった。

私が「学校」で過ごしていた頃、普通の学校とかけ離れたその雰囲気ゆえ、数か月に一度のペースでマスコミやテレビ番組の取材が来ることがあった。日本テレビのゴールデンタイムの特別番組の取材で乙武洋匡とウド鈴木が来たこともある。

しかし、そういった番組のほとんどが、平日の午後にやっているワイドショーか夕方のニュース番組のドキュメンタリーコーナーか、NHKでやっている渋いドキュメンタリー番組か、大人向けの教養バラエティ番組などが中心だった。前述のように、うちの母が「学校」を知ったのも、こういったワイドショーのたぐいだったという。

同級生のみんなはそういうお堅い番組よりも、ファッションやコスメやジャニーズの方が好きだったから、普段からそういった番組など好んで観ているはずがない。当時はSNSもあまり普及しておらず、今のようにマイノリティの生き方が叫ばれている時代でもなかった。インスタやTikTokすら存在しないので、代わりに「魔法のiらんど」などでホームページを作ることが流行っており、同級生のマナミが運営していたサイトは、彼女の好きな某ジャニーズアイドルのファンサイトのようになっていた。

だが、私はそれ以上に、みんなの前でとんでもない失敗をやらかしてしまい、「普通の子になりたいコンプレックス」の発端を引き起こしてしまった。

四月末に入った頃、私は何人かの同級生と、数学の小テストを受けることになった。正確に言えば、最初の小テストの成績が悪かった者たちを集めての追試である。私は「学校」の教育方針上、まず小テスト自体を受けたことがなく、受けたにしても転校する前の、遠い過去の記憶しかない。例えるのなら、十年前にマスターしたきり手をつけていない、高難易度のピアノ曲を、何の前触れもなくいきなり数時間の猶予を与えられ、数時間後の本番までに思い出して完璧に弾けと言われるようなものだ。冗談抜きでそういうものに慣れていなかった私は、テストの最中に机の中に手を伸ばして、問題の解き方を書いた紙を、こっそり覗いてしまったのだった。「先生!楓山さんがカンニングをしています!」その場にいた全員に気付かれた。

ある同級生は片足で椅子を蹴り倒して怒りを露わにし、「お前どういう奴やねん!」と大声で責め立てた。私からすれば、うちの学校にはテストや宿題なんて本当になかったんだから仕方なかったと弁明したものの、周りからすれば「高校生になってもカンニングするなんてこいつは変わり者だ。今時そんな奴いるの?」というような捉え方だったのだろう。私は宇宙人を目撃したことを信じてもらえない子供のような気持ちで校長室に呼び出され、一日間の停学処分を受ける羽目になった。

そのおかげで入学早々、私は「なんかようわからんヘンな学校から来たヘンなイジられ女」としてクラスで悪目立ちしてしまい、私の噂を聞いた隣のクラスの少女たちからも、覚醒剤中毒で逮捕された某女性タレントと同じあだ名をつけられたり、挨拶代わりに胸を触られるなどのセクハラ被害にも遭った。同性だったらセクハラも許されると思っているのだろうか。

それ以降も、私物を横取りされたり、メモ帳の中身を勝手に読まれるなど、私へのイジりといじめは秋ぐらいまで続いた。担任の教師と隣のクラスの教師同士がようやく気付き、私のクラスと隣のクラス総出で話し合いの場を設けたことと、私をいじめていた主犯の少女たちに数週間の停学処分が下されたことで、いじめ問題は収束した。主犯の一人の髪型は背中まであるロングヘアだったものの、両親から制裁を受けたせいか、謹慎からクラスに復帰したときはショートカットになっていたのを覚えている。

私はその後、主犯の少女たちとも仲良くはできたものの、いじめられた記憶と心の傷は、そう簡単に癒えることはなかったのである。

つむぎの苦難と苦労

「学校」と普通の学校のルールの違いにカルチャーショックを受けてしまうのは私だけではなかった。ここからは、三歳年下の妹つむぎ(仮名)の経験談だ。

私の転校当時、幼稚園年長だったつむぎは私と同様、私から一年遅れて入学。「学校」の小学校で六年間を過ごしたあと、「学校」から離れて普通の公立の中学校に入学した。ある日の授業中、つむぎのクラス内にて、教師が話しているにも関わらず、一人の男子がガヤガヤ騒いでいた。つむぎはすかさず男子に注意したが、周りのクラスメイトからは不思議そうな目で見られてしまったという。

「学校」では、週に一度、校内の子供たちと教師全員を集めての全校集会(ミーティング)が開かれ、ミーティングボックスに入った校内の揉め事を多数決で解決する。そこには子供と大人は関係なく、全員が平等に、YESかNOの清き一票を持っている。「学校」の子供には自立心や主体性が求められるので、教師の言うことに従うよりも、まっとうな結論を自分たちで見出すことが求められる。つまり、子供同士での問題が起こったときは、深刻な問題であればミーティングで解決させるが、度合いが小さければ子供同士の話し合いで解決させる。つむぎも私も仲間と話し合うか、ときにはミーティングに頼りながら、ささやかな人間関係をクリアしてきたのだ。

しかし、普通の学校では子供と教師に明確なヒエラルキーがあるため、子供同士の問題は基本的に教師が介入してくる。子供の問題を解決させるのは教師の役目であることが当たり前なので、つむぎを見た同級生は「何なんあの子。先生でもないのに注意なんかして」と思っていたに違いない。つむぎは、「これまで当たり前だったことが当たり前ではない」という現実を突きつけられる羽目になったのだ。以降は変な子扱いされてしまうことを恐れてしまい、周りの意見に合わせて行動するようになったという。

「学校」で育った子は程度によって異なるだろうが、普通の学校の常識が理解できず、その後の人生で苦労を強いられることがあるようだ。つむぎの後輩の少女は、「学校」を一度去ったあと、普通の小学校でいじめを受けてしまい、心身ともに傷つきながら「学校」に復学してきたと聞く。

勉強しなければ死ぬと本気で思っていた

私自身は、入学適齢期(もちろん、適齢期もそうだが)を過ぎても、大学や専門学校で「学ぶこと」を止めない人は掛け値なしに素晴らしいと思う。それがどのような分野だとしても、その後の人生において必ずプラスになるし、学びそのものが新たな生きる糧になるからだ。私がこのような人生を歩んでいる日本人として思い浮かぶのは、池田理代子である。

池田は、漫画家として成功してから数十年後、幼少期からの夢だった音楽の道に進むため、四十七歳のときに東京音楽大学の声楽科に入学。二年かけて体重を十五キロ増量し、腹の上に電話帳を乗せて腹式呼吸のトレーニングを行うなどの努力を重ねたという。卒業後は漫画執筆の傍ら、ソプラノ歌手としても舞台に立ちつつ、私財を投げ打ってオペラ演出も手掛け、若手オペラ歌手の支援にも尽力している。

カンニング事件から間もなく、私とつむぎは必死で宿題やテスト対策を頑張るようになった。母は家にいる間は私たちの勉強につきっきりになってくれていた。私たちを「学校」に入れた母は、「学校」とかけ離れた現実の社会に馴染ませるべく、矯正させなければならないという責任を感じていたのか、あえて厳しく接することも多かった。そのため、当時私は心の中で、母のことを「お母さん先生」と呼んでいた。

私自身も同級生以上に、勉強のことばかり考えていたような気がする。ある日の朝、私はその日の授業で必要な教科書が無いことに気付いた。結局、いくら探しても、見つからないまま登校し、その教科書が見つかったのは、私が自宅に戻ったときのことだった。つむぎが誤ってその教科書を中学校に持ち込んでいたのである。それが判明したとき、私は心無い言葉でつむぎを罵り、責め立てたものだった。勉強しなければ、いじめられる。テストで高得点を取らなければ、またみんなにバカにされる。そのような思い込みが頭から離れなかった。

勉強への執着心は大学生になっても続いた。あるとき、心身ともにフラフラになりながらも大学に篭り続ける私に向かって、母から「勉強がつらかったら、大学くらい辞めてもいいんだよ」と言われたことがある。母はおそらく、私がこの先の未来で、「学校」での思い出を捨てるつもりで生きていくのではないかと危惧したのだろう。母は「お母さん先生」になっても、私たちを決してインテリにさせようとはしなかった。その証拠に、「今度のテストでは絶対に内申でオール5を取りなさい」「大学は早稲田か慶応を狙いなさい」などとは一度も言われたことがない。

しかし、私は大学を辞めるわけにはいかなかった。先ほども書いたように、母は厳しい態度を取ることもあったので、私が勉強を必死で頑張ってこそ、母の期待に応えられると信じて疑わなかったのである。現実世界は「学校」と違って、甘いものではない。ここで大学を辞めてしまったら、私が「学校」に頼らなくても生きていけるという人生の証明や、これまで勉強で培ってきた努力や学費がすべて無駄になってしまう。私は「勉強しなさいって言ってるのに、どうして辞めてもいいなんて言えるの?」という気持ちもあるにはあったが、結局は「いや、ここで辞めたら負けだ。頑張ろう!」とかえって自分を奮い立たせ、勉強や資格取得に向けて邁進し続けたのだった。良い成績をおさめ、単位を取って、卒論を完成させて無事に卒業する。自分で自分の顔に泥を塗るわけにはいかない。私の眼中にあるのはそれだけだった。

今になって思うことだが、私が勉強を続けてきたのは、池田のように自分を高めるためではなく、逃げられなかったからだ。私は運命や縁よりも「すべての物事は自分の努力・行動・責任次第で決まる」と考えるタイプなので、言い換えれば、「学校」を捨てて現実社会で十分生きていけることを証明したかったのだ。勉強しなければ死んでしまうと書いたが、警察に逮捕される、会社をクビになる、人を殺してしまう、不倫がバレてしまう、それらと同等の転落人生を歩んでしまうと本気で信じていた。その価値観を数年前までずっとこじらせ続け、親の反対を押し切って、もしくは勉強について行けずに大学を中退する人の気持ちが長らく理解できなかった。カンニング事件で現実を突きつけられたからこそ、母のような大胆さなど絶対に出せず、普通の人のフリをしながら生きることがすべてだと感じるようになった。

いま、私が思うこと

二年ぐらい前から人生を振り返り始め、私は「学校」で過ごしたことへのありがたみを再び思い返すようになった。これまでの人生について考える機会が増え、今では、あれはあれでいい思い出だった、普通の子供にできなかった経験ができたと感じ、「学校」に通えたことを誇りに思っている。結婚して母親になっても、年老いても、あらゆる物事を知ること・楽しむこと・学ぶことを止めない存在になりたいし、ようやく自分の人生に自信がついた気がしている。

映画『夢みる小学校』のキャッチフレーズは、「ミライの公教育がここにある。」「楽しくなければ、学校じゃない」だった。

子供たちが数十人ごとにクラスごとに分けられ、学力テストを受けさせ、教師の話を一方的に聞かされ、点数で人格を値踏みされる。令和の現在では、あらゆる識者たちが、そのような日本の学校教育は世界的に見ても時代遅れだと叫んでいる。映画の中でも尾木ママ自身が、そのような教育を批判する場面があった。私自身も、現実社会の古い価値観に人生を翻弄されていたのかもしれない。

うちの「学校」には存在せず、普通の学校で育った子供がやっている行事、例えば二分の一成人式や夏休みの自由研究や合唱コンクールに対して、うらやましく感じてしまうこともある。それでも、気分が変わったときに、日本の学校とのギャップについていけなかった帰国子女の話や、NHKの『ねほりんぱほりん』に出演した児童養護施設出身者が「出前を取れないので、ピザや寿司を今まで食べたことがない」と発言しているのを見て、当事者でないにしても、そういった「普通じゃない環境や教育で育ったマイノリティ」が味わってきた人生の苦衷を知るたび、共感する。

私自身は「学校」のことを「机上での勉強ではなく、自分が本当にやりたいこと」を、体験を通じて育てるための場所だと思っている。

だからこそ、映画に登場した子供たちの笑顔を見るたびに、全国各地にある「学校」やその兄弟校で生活している子供たちのその後の人生が気がかりになる。彼らもいつしか「学校」を卒業して、普通の常識に飛び込めば、私と同じように身の丈に合わない青春が待っているかもしれない。もし、そのような子供が本当にいるとしたら、私はこんな言葉をかけたいと思う。

「あなたをそのように仕向けた社会の方が悪いんだよ。勉強も大事だけど、これからも自分が本当にやりたいことに熱中する、それだけを忘れずに生きてほしい」と。


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