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失恋とはなにかを悟った夏の記憶

4日連続で酒を飲んでいる異常さに、心が穏やかでないことを知った。
酒は強くないから普段は飲んでも週に1回、金曜の夜にお笑い番組を見ながら缶チューハイをちびちびと、毎回飲み切れずに1/5くらい残して寝落ちする程度だった。
それが、今では遥か昔のことのように思う。「酒がなければ人生やっていられない」と、言ってみたかった台詞を吐いては胃に酒を注ぎ続ける。
そもそも彼が言ったのだった。「お酒が飲めるかどうかは肝臓のアルコールの分解能力だから。肝臓は鍛えられる」と。だから飲んでいる。彼のせいで。そう、全ては彼のせい。


尊敬は恋じゃない

こんなに痛いなら、はじめから好きになんてならなければよかった。
ラインの返事が来なくなってから、日を追うごとに痛みが増した。心がちぎれて血が噴き出している。止まる気配のない流血がかえって自分の生を知らしめ、「ああ、私、生きているんだ」と当たり前のことを自覚した。


私は彼を好きな自分が好きではなかった。彼と対峙している間、常に劣等感を抱き続けた。あまりに頭が良すぎたから、彼の知能についていけない自分を自覚して絶望した。そしてこの先、私がどんなに努力して学び、知識を得たとして、彼には永遠に追いつけないことも知っていた。 

夢を追っていたのだ。私にとって彼は憧れの存在だった。彼のようになりたかったのかもしれない。
この感情は、かつてMr.Childrenの桜井さんに抱いたそれと一緒だった。

桜井和寿という人間を、私は崇拝している。しかし、かつてはそれが恋心だとはき違えていた。
彼の溢れんばかりの才能に憧れた。なんて素敵な言葉を操る人なのだろう。そう思うと、彼の顔面を構成するパーツや筋肉質な体つきも次第に魅了的に見え、笑うと目尻に生まれる小じわも、歌唱中の奇妙なステップも、すべてが愛おしいと感じるようになった。そしてこの愛おしさを“恋”と呼ぶのだろうと思い込んでいた。

決定的に違うと悟った瞬間がある。好きになってから5年程経った時だった。『フラジャイル』という曲を聴いて、ある歌詞が耳に残った。

「ねぇ愛って何なの?」 って彼女が聞いて
「さぁ愛って何だろ」 って僕が返して
考えてみても答えはないし
似たもの同士で一度 寝ましょうか

それを聴いた時、「あ、違う。私、桜井さんとこんなくだらない会話がしたいんじゃない」と思った。
もっと崇高で高尚な会話がしたかった。言葉を表現するとはどういうことなのかについて話がしたいのだと思った。そう気づいてから、私は桜井さんに「恋している」のではなくて、「敬愛している」のだと知った。

この感覚と彼に抱く感情とは、酷似しているのではないかということに気づいた。
桜井さんを尊敬する気持ちを恋だと錯覚したのと同じように、彼を「好き」と勘違いしているだけで、本当はくだらない会話なんてしたいのではなくて、もっと崇高な議論を交わしたいのではないだろうか。彼を好きなのではなくて、尊敬しているだけではないだろうかと、そんな風に考えた。


彼を好きでいることは、自分を失うこと

ある芸能人が結婚の記者会見でこう言った。

彼といる自分が好きなんです

私は、彼といる自分が嫌いだった。自分が壊れていく気がした。こんなに感情を振り回されて、私は自分の形を失いかけていた。

私のなにがいけなかったのだろう。
なにを直せば、私を好いてくれたのだろう。
もうなにもかも駄目だ。私のすべてが駄目だったんだ。

自暴自棄になって自己否定して、私は私を失いかけていた。

いっそのこと、彼の好きな女の子になってしまいたかった。
でも、違う。彼はきっと、自分を持っていて、少し波風が立ったくらいで自分を失ったりしない、そういう女性に憧れるのだと思った。だから彼の好きな人になりたいと思うのなら、私は私でなければならなかった。なのに、好きになればなるほど彼の求める女性を勝手に想像して、それに自分を当てはめてしまいたくなって、どんどん自分が消えていった。自分が死んでいった。彼はそれを見抜いていて、だから私を切り捨てたのだろう。

好きになるほどに自分を失う。自分を失うほどに彼からは愛されなくなる。
だったらもう、好きにならなければいいのに。好きになるのをやめてしまえばいいのに。なのに、気がつけば、ほら、また彼のことを考えている。性懲りもなく。恥ずかしげもなく。彼を求めている。


「失恋」とは、気持ちが向かう対象を失うこと

彼からの連絡が途絶えて5日目にして、私はすでに失恋がなんたるかを知った。

ああしくった、なにかを間違えた。
だけど、それはなに? 
私のなにがいけなかったの? 
私のなにが違うと思った? 

決して答えが返ってくるはずのない問いを脳内で繰り返していた。
私への問いではない、彼への問いだ。だけど彼から返事はこないから、自分に問うことしかできない。
もどかしい以外のなにものでもなかった。問いへの答えが返ってこない。

失恋が苦しいとは、理由がわからないからであり、相手とのつながりが失われたからであり、つまりは“彼を失った”と感じるからである。

「失うもなにも、彼はあなたの所有物じゃないでしょう?」

そう言ってくる人がいるが、そういうことではない。彼の存在は失われない。私に返事をしない今も彼は生きていて、なにかをしているはずなのだ。

そうではなくて、「彼を失う」というのは、私の中に存在する彼、つまり「私の気持ちが向かう対象がなくなる」ということだ。
以前は明らかに私の中に存在していた彼、彼がいたから気持ちのベクトルを向けることができたのに、私の中から彼が失われたことで気持ちは方向性を失った。
方向性を失ったのに、気持ちは存在し続けた。この気持ちは消えることはなくて、行き場を失ったまま立ち往生し、どっちへ進めばいいのかわからないでいる。
この気持ちのもどかしさ、苦しさを「失恋」と呼ぶのかもしれない。


彼に送りたかったかき氷の写真

お盆休みは鎌倉にある実家に帰った。
最寄りのバス停に降り立つと、眼前に現れた緑の匂いに鬱陶しいほどの夏を感じた。
訳もなく海に行く。ただ、ひとりになりたかった。

炎天下。背中に滴る汗の感触。日焼け止めでべたべたの肌に張り付く浜辺の砂。素足で踏みしめると、やけどするかと思うくらい熱かった。
日傘を差しながら、しばらく海を眺める。潮風にさらされて、心が浄化されてゆく。
少しだけ、足首まで海に浸かった。海水はぬるかった。重たい砂が足の指の間に絡みつく。誰に見せるでもない写真を数枚とって、海に背を向けて歩き出した。

長谷駅のホームで電車を待つ。駅には蛇口があって、砂だらけの足とサンダルを水で洗った。江ノ電に乗って藤沢に向かう。
藤沢でかき氷を食べた。有名なかき氷屋さんで、行列に1時間ほど並んだ。桃のかき氷を頼んで、ひとりで頬張る。おいしい。冷たい。氷がふわふわ。

母に写真を送りながら、「この写真、彼に送ったらどう返ってくるだろう」と考えた。私は、こういうささいな日常を共有できる相手が欲しいんだと気づいた。
一緒においしいものを食べて、見た映画の感想を言い合って、最近考えていることを話して、そういう日常を共に過ごしたい。そしてその相手は彼がいい。それだけのことだった。

今となっては起こりうるはずのない妄想を繰り広げてしばらく満足したあと、現実の虚しさにため息をつき、溶けかけたかき氷の残りを喉の奥へと流し込んだ。


失恋後ベタに髪を切って、小さな幸せを噛みしめる

更に1週間が経って、髪を切りに行った。

もう諦めることに決めたのだから、髪を切って心機一転しようと試みた。
短くしようか悩んだが、長さは変えなかったのはまだもう少し、感傷に浸っていたいと思ったからか。髪のフォルムを変えてもらって、夏に合うきれいな色に染めてもらった。
大好きな美容室で、お店を出た時に心が浮き立つ。幸せな気持ちになった。
彼とのLINEが途絶えても、幸せを感じることはできるんだな。

買ったばかりのワンピースを身にまとって、少し高めのヒールを履いて、いつもよりおしゃれをして街を歩く。空は晴れていた。夏の日差しがキラキラしてまぶしい。
気持ちが晴れ晴れしていた。髪を切っただけで、こんなに心持ちが違った。


冷静に考えてみて、彼から連絡がこないことはわかっている。そう思うと、気持ちが楽になった。
連絡がくると思うから期待してしまって、連絡がこないことに苦しくなる。
そうではなくて、連絡はこないのだ。こないの。そして、私がその理由を知ることは一生ない。なんで返事がこないのかわからないまま、答えも知らされずに終わる。
理不尽だ。理不尽を受け入れるのが人生だったな。


まだちくちくと胸が痛むこともあるけれど、こうして小さな幸せを日々の中に見出していけば、そのうち彼のことも忘れるでしょう。

のんきにそんなことを考えていた。
この時はまだ、失恋を3か月も引きずることになろうとは思いもしなかった。


<つづく>

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