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恐怖していた、被害妄想だったとしても

 何だか知らないが疲れている。注意力散漫でさっきまで何をしていたかすぐ忘れるし、口の粘膜が荒れて口内炎が次々にできる。どこにも行きたくないし、何もしたくない。手持ち無沙汰になるとゲームをしたりYouTubeを流したりして何となく時間を潰す。停滞、あるいは縮退。途切れた道の続きを探すのも面倒で、快適でもないがそこそこ安全な藪の中にだらだらと留まっている。

 急に訪れた秋に鬱っぽくなっているのか、猛暑のダメージが表面化したのか。あえて心理的な原因を探すなら、恐怖から解放されたことだろうか。

 別居中の夫が何を思っているのかわからなかった。戻ってきてほしいのか、このまま別れたいのか。孤独で砕けそうなのか、一人を満喫しているのか。見捨てられたといじけているだろうか。自暴自棄になって全てを壊そうとしていないだろうか。

 別居してすぐは連れて出た犬の様子なんかをこちらから毎日連絡していた。返信は素っ気なかったが相手の様子も少しはわかった。そのうち文面に細心の注意を払って寄り添おうとすることにも疲れてしまって、音信は途絶えた。彼から連絡してくることはほとんどなかった。彼の気持ちを知る手掛かりがなくなった。

 彼は昔からどうでもいいと思っている相手にはひどく攻撃的な人だった。こちらがすでに「どうでもいい相手」に降格されているとしたら、どんな仕打ちを受けるかわからなかった。

 記念日に贈られる小包に怯えた。「今から顔を見に行く」と当日に送られてくるメッセージに震え上がった。夜は戸締まりを確かめてからでないと眠れなかった。最悪の場合は彼が心中しに来ると思っていた。彼と生死を共にする気はもうなかった。

 彼から危害を加えられることはないという信頼は、同居中に失われていた。直接手を上げられるようなことはなかったが、彼は彼自身に苛立って大声を出したり壁を殴ったりし続けていた。怖いのでやめてほしいと頼むと、「当てないように頑張ってる」と返された。それはつまり、頑張らなければ当たるということだ。彼のご機嫌を損ねて、当てない努力をする気をなくさせてしまったら、拳はこちらに飛んでくるということだ。

 傷付けないと約束してくれない相手とは安心して共にいることができない。暴れなくて済むようにカウンセリングなどを受けてほしい、このままではまた一緒に暮らせないと別居中にはっきり伝えた。信頼を取り戻す努力をしてほしかった。彼は了承したが、その後何か行動した様子はなかった。流されて、なかったことにされた。肝心な時はいつもそうだった。

 今年の結婚記念日に彼から菓子が送られてきて、どういうつもりかわからなくて、これからどうしたいのかとメッセージを送った。また一緒に暮らせたら嬉しいけれど、結論は任せる、という返事が来た。変わってくれない限り一緒にいたくないのだと、伝えたはずのことが伝わっていなかった。

 離婚したいと伝えた。彼はあっさり合意した。

 そうして僕は恐怖から解放された。

 そもそも被害妄想のような恐怖だったかもしれない。一人相撲だったのかもしれない。理想を押し付けて彼を責めてしまっていたかもしれない。こちらの対人能力に難があることもわかっているから、どちらにより多くの非があるのかわからない。ただもう関わりの糸口が見えなくなってしまった。対話は不可能だと感じてしまった。元に戻ってもきっと誰も幸せにならない。

 離婚を決めてしばらくは新しい人生に向けて前向きに考えていた。けれど徐々に気持ちが萎んで、何もしたくない今に至る。

 こうして振り返ってみると、長く続いた緊張状態の疲れが溜まっていても仕方ないような気もしてくる。疲労を言い訳にしてとりあえずだらだら過ごそうと思う。

 今まで重要だと信じて疑わなかったものがそうでもなくなり、心を縛っていた縄が緩み、精神構造が変わっていく。最終的にどんな自分が再構築されるかまだわからない。進む道を決めるのは全体像が見えてからでいい。

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