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妄想から願望を探る

 子供の頃から同じような内容の空想を繰り返し描いている。

 主人公は自分自身ではないが、自分を仮託できるキャラクター。舞台や登場人物はその時に気に入っているフィクション作品から借りてくる。

 主人公は愛する者の遺体を抱いている。死の記憶は消し去られ、彼にとって愛する者は生き続けている。既存のキャラクターで言うと『魍魎の匣』の雨宮が近い。愛する者を決して喪わない彼は幸福だ。

 遺体が朽ちようが彼には関係ない。もう現実を見ていない。喪失を徹底的に否定し、永遠に共にある喜びに満たされている。あるいは彼は自らの胎で愛する者を産み直そうとする。命を与え直す試みは失敗するが、何が間違っていたのか彼にはわからない。

 キャラクターが変わっても、世界観が変わっても、筋書きの骨子は同じ。喪失の否認によって得る幻の幸福。

 解釈するまでもない。主人公の言動は、僕自身の願望そのものだ。愛した死者を取り戻す錯覚を得られるのなら、正気など捨ててしまいたかった。

 現実の僕は事実を捻じ曲げることもできなくて、諦めたようなふりをした。後悔も罪悪感も誰にも言えなかった。充分に悲しむこともできなかった。家では嘆く母親にそれ以上の負担をかけないことを優先せざるを得なかったし、外の人は「たかが犬で」と不思議そうな顔をした。

 生き物はいつか死ぬものだからと聞き分けの良い子を装いながら、一人隠れて空想に浸り、決して満たされない願望を慰めた。何度も何度も何度も何度も優しい妄想を描いた。

 健全ではないことはわかっている。でもそうして現実から目を背けることで生き延びた。固着した空想に依存して、自分が壊れないように凌いでいた。

 時間が悲しみを癒すと言うが、悲しみを感じることから逃げている限り、何十年経っても喪は明けない。逃避の妄想で塗り込めた痛みを掘り起こして最後まで感じ切らない限り、喪失はいつまでも解決しない。

 わかっている、でも解決を望まず駄々を捏ねる自分がいる。愛する者はもう戻らないと知ることを拒否し、妄想の麻酔に酔い続けようとする子供の自分がまだここにいる。

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