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産みたくない僕の話を聞いて

「子供、欲しいの?」

 グレーのスウェット姿の彼はベッドに寝転んだまま「いてもいいかなと思って」と答える。視線はスマホの液晶の上を細かく上下し続けている。

「どうしてそう思うの?」

「んー、なんとなく?」

 彼は寝返りを打って、にへらと口元を緩める。

「こちらは産みたくないし、今の状況で育てていくのも無理だと思っています。子供が欲しいなら説得してよ。どうして子供が欲しいの?」

 彼はスマホを眺めながらうーんと唸って、「にょーんってするから」と言った。普段から擬音の多い人で僕も慣れてはいるものの、今回ばかりは言わんとすることを何も読み取れなかった。

「誤魔化さないでよ」

「誤魔化してないもん」

「どう思ってるのかちゃんと教えて」

「ちゃんと言ってるもん」

 話にならないと判断して僕は寝室を出た。

 彼はまだ半笑いを浮かべて液晶の向こうに意識を飛ばしている。まとわりつく現実の人生を振り切ろうとするように。




 女の子扱いされるのが嫌だった。

 成長して大人になれば、自分が女であるということを自然と受け入れることができるのだろうと思っていた。

 中学生になり、高校生になり、成人して働き始めても、やっぱり女だと思われると性別を間違われているような気がして、女性らしい服を着ることは女装としか思えなかった。

 自分は女になり切れない、人として当たり前で不可欠の部分が欠けている不完全な女なのだと自らを貶め、それでもまだ「普通の女」の崖っぷちにしがみ付こうと自分の心から目を逸らしていた。

 いい加減に自分と向き合わなければこの先の人生が詰むと感じて自分の心を探り始めたのは彼と結婚した後のこと。

 自分と同じように感じている人が他にもいることを知った。人間になり損ねた欠陥品という地位に自分を置かなくていい思想を知ってしまった。

 ネットで診断した結果を見せて、こういう傾向があるかもしれないと彼には軽く伝えた。彼は「ふーん」と言ったきり目を逸らし、それきりこの話題には触れなかった。

 僕は裏切者だ。自分の心の声から耳をふさいできたことで、結果的に彼を騙したのだから。

 この先もずっと女を演じ、母を演じることが彼のためかもしれない。でももう息が続かないのだ。




 それから子供の話題が出ることはなく、僕は何となく安心していた。話し合いにはならなかったが、少なくとも僕の意向は伝えた。以前から何度も伝えてある。きっとわかってくれるだろう。

 夕食時のテレビではYouTubeのニュース動画が流れている。ナレーションを背景に、子供たちがレジャープールで遊んでいる。

「うちにも子供ができたら――」

 彼が何気なく発した言葉に僕の思考は止まった。

 楽し気な顔で彼がその後何を言ったのか頭に入ってこなかった。彼は子供を持つことを諦めていないということだけは思い知らされた。

 映像は切り替わり、気象情報を示す地図が映し出された。彼の関心も移っていた。

 わざわざ子供の話題を蒸し返す勇気は出なかった。どうせ話は平行線を辿るだけだ。しつこくして彼に面倒な女と思われたくない。




 腹の中で子を育むのが怖い。

 自分のものであるはずの体の中に未知の生命体が入り込み、肥大しながら徐々に人の形になっていく。

 本来僕にあるはずのない臓器で、本来僕にあるはずのない機能が働いて、女の体に僕が乗っ取られていく。

 みんなが僕をお母さんと呼ぶ。妊婦という言葉には女という字が二つも入っている。女女。お前は妊婦だ。お前は女だ。ママになるんだから。それが女の、お前の仕事で、喜びだ。

 大きくなっていくお腹を感じながら、お前は女女で女女なんだからと耳元で繰り返されながら、十月十日も正気でいられる自信はない。

 産んだ後も女女からは解放されなくて、夫は家事ができなくて、近くに頼れる人なんかいなくて、犬を夫がいじめないように仲裁しなきゃいけなくて、子を全てから守らなきゃいけなくて、寝る暇もなく一人で泣いて、感情は涸れて、脳は止まって、僕は殺して死んでしまうだろう。




 珍しく彼のほうから誘ってきた。

 もう何年も僕からそれとなく誘ってばかりで、彼が眠そうにして何となくなかったことになることがほとんどだった。特別したかったわけではない。でも夫婦なら定期的にしなければならないものなのではないかと不安だった。

 だから彼に誘われれば僕は応じた。

 触れ合った流れで挿入した。避妊具は挿入前に着けなければリスクがあることは知っていたが、彼が嫌がるので許していた。いつもなら一旦抜いて避妊具を着けてくれるのに、その夜は違った。

 背中の毛がぞっと逆立つ。嫌だと僕が言うと「駄目なの?」と彼は拗ねたように訊く。駄目だと念を押すと彼は渋々避妊具を着けた。

 今のは何だ? 勝手に中で射精しようとした? 僕が妊娠を望んでいないと知っているのに?

 もしもそれで受精して、お腹の子供が健康だったら、中絶の選択肢は残されていない。大企業勤めの夫がいて、周りも出産を望んでいて、外からは何の問題もないように見えて、なのに僕のわがままで堕ろすなんてことはできない。きっと誰にも理解されない、誰も僕を許さない。僕自身でさえ。

 彼が子を持つかどうかの選択に僕の意思は関係ない。僕の言葉は透明だ。乾いた水滴の跡ほどの染みを彼の中に残せているのだろうか。

 彼のことがわからない。彼のことを信じられない。もう彼としたくない。

 今回のことでもしも子供を授かっていたら。子と共に行けるところまで突き進むしかない。女女の街道を走って走って限界まで走りながら死んで倒れ伏すまで。

 ひたひたと背中を撫でる恐怖に対抗するお守りは、かつて不安に駆られて密かに買ってトイレに隠してある妊娠検査薬だ。

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