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「思考と言葉はどちらが先か?」

…難しい問題ですよね!

思考とは、個人が脳内で
事柄について「思い考える」こと。
「感情」が実はその根底にあります。
一方で言葉とは、他人との
コミュニケーションツールで
表現していくこと(言語化とも)。

砂押 美穂 さんがこのテーマについて
ご自身の「カウンセリング」をからめて
記事を投稿されておられたので、
それを要約紹介しつつ、本記事で再度、
考えてみたいと思います。

実際に砂押さんが書かれた記事原文は
リンクから飛んでお読みいただくとして、
私なりの要約は、以下の通り。

◆カウンセリングでは家族歴や幼少期を聞く
◆感情は、感覚的に心の中の深い部分にある
◆人間の深い部分は、家族歴や幼少期に関係
◆負の感情は、他者の期待から外れて生じる
◆自分の過剰反応は、深い感情を探って解決

(つまり「対人安全保障感」が
「自分の意識(深い部分)」と
「他人の期待(と思われること)」との
揺らぎやバランスから生じてくるので、
それをカウンセリングなどで明らかにして
解きほぐして調整していくことが大事)

◆砂押さん意見「言葉が感情より先にある」
◆自分や他人の言葉は思考に大きく影響する
◆カウンセリングは相手自身の解決力を尊重
◆助言や意見ではなく、相手の思考を言語化
◆相手が言語化できてない部分を言葉にする

(つまり「言葉」「言語化」によって
感情は大きく左右されるのだから、
相手、クライアント本人による解決を
促すために、相手が言語化しきれていない
深い部分を汲み取って、
カウンセラーが別の言葉で言語化する)

◆他人から言語化されると思考は整理される
◆深く感覚的な非言語化部分を、言葉にする
◆相手は共感を感じつつ、自分と向き合える
◆カウンセラーの言葉は、常に意図的なもの
◆言葉の送受で、思考が経験と結びつき納得

(つまり他人から「言葉」にされることで
クライアントは、自身の思考・感情を
過去の経験と結びつかせて
「そうか、そうだったのか」と
個別性の強い自分の思考・感情から
一般性の強い「言語化」が促される)

もう少し短く私なりにまとめると、
以下の通りになります。

◆言葉によって思考・感情が「見えてくる」
◆自分だけでは、深い部分が「見えにくい」
◆他人との言葉の送受から「明らかになる」

…私はこの砂押さんの記事に対し、
以下のようなコメントを書いてみました。

(ここから引用)

『とても考えさせられる記事でした!

>クライアント様が話されていることから、
>本当に伝えたい深い部分を
>感覚的に捉え、それを別の言葉で言語化
>していくことが大切だと思っています。
>それによって、
>クライアント様の思考は整理されます。

クライアントは自身の感情や
思考を自身なりの言葉で、
カウンセラーの質問に答える形で
『言語化』していく。

カウンセラーのほうは
言語化されたものだけでなく、
言語化されていないその背景にある
『本当に伝えたい深い部分』を、
カウンセラー自身の言葉で、
クライアントの言葉ではない『別の言葉』で、
あえて置き換えたり
言い換えたりして言語化していく…。

確かにこうすることで、クライアントは
カウンセラーの言葉に深く納得し、考え、
肯定してうなずいてくれたり
否定してまとめ直したりしてくれる。
クライアント「だけ」では言語化が
できない部分の言語化を促す…。

となればカウンセラーは
仮に料理で例えれば、

『クライアントが無意識に
作ったラーメンを食べ、その裏にある
出汁や調味料や具材を探って
別のものに置き換えてみる』

そのような行動、提示が
大事なのだと思いました。
その比較によりクライアントも、

「そういうのもあるのか」
「ここはコダワリ、譲れない」
「その発想はなかった」

などのように否定するも肯定するも、
自身の思考がさらに言語化されて
整理されるのではないでしょうか。

私なりの例えで捉え直した
長々しい感想で、失礼しました』

(引用終わり)

…本当に長々しい感想ですね。
申し訳ありません…。

ラーメンの例えついでに補足しますと、

作り手自身が適当に味付けした
ラーメンは、作り手自身も
「再現」できないことになります。


レシピが整った再現性のあるものなら
「言語化」され「一般化」されている。
説明もしやすい。再現も容易。
しかし、作り手自身が
よくわからない材料や手順で偶然に
生じた味は、自分でもよくわからない…。

そこでカウンセラーに
その謎ラーメンを食べてもらい、

「これは…味噌ラーメン?」
「いや、いりこ出汁も入っている…?」
「具材と麺のバランスは?」

と問いかけ、言葉にしていきます。
そうすることにより、作り手は

「そういえば、味噌を入れたなあ」
「いや、いりこ出汁は入れていません」
「このスープには、この具材と麺を選んだ」

というように、自身の経験と結び付け、
自分の謎ラーメンを解きほぐし、再現し、
納得の味にできる(糸口を得る)。

砂押さんは、以下のように
記事内で書かれています。

(ここから引用)

『幼少期に環境や他者から
受けた言葉から影響を受けながら
アイデンティティーが
形成されていく人間は、
その後それぞれに自身の選択する
言葉に違いが生まれます。


自分が発したり、
他者から受けたその言葉は
思考に大きな影響を与える
のです。』

(引用終わり)

そのことを考えますと、日々、
いかに言葉を選択して発していくか、
いかなる言葉を受けていくか、
その選択の積み重ねによって、
人の思考もまた、変わっていく…。


言葉の枠に思考が規定されるなら、
「自分だけの言葉の世界」では
無意識のうちに思考も硬直し、
閉じられた世界になる危険性があります。

その中では自分の深い部分の言語化が難しい。
なぜなら、自分だけの言語化には
限度、限界があるから。

「俺のラーメン、こんなに美味しいのに
なぜお客さんはわかってくれないの?」

自己満足の頑固ラーメン親爺のようなもの。

それを打破するためには、
他人にラーメンを提供し、味わってもらい、
「他人の言葉で」感想をもらい、
自分の経験に結び付け、さらに改良する…。


いわば思考の「Wスープ」です。

「魚介×豚骨」的なものを、
自身だけでなく他人との言葉のやり取り、
「交流」によって「再構築」する姿勢が
大事ではないかな…と思いました。

最後に、まとめます。

本記事は砂押さんの記事を元に要約し、
再度考え直し、言語化したものです。
私なりの解釈も多々入っていますので、
読み違いがありましたら申し訳ありません。

皆様は、どう考えますか?

どろどろの謎ラーメン、思考や感情を
いかに味わい、言語化していきますか?
…味わってもらう相手は、いますか?

※砂押さんの記事に出てくる
ハリー・スタック・サリヴァンの業績もぜひ。

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