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明治時代の日本の開化について
夏目漱石は「皮相上滑りの開化」だと
辛辣な表現の講演をしました。
1911年。明治44年。一部のみ引用します。

(ここから引用)

『我々が内発的に展開して
十の複雑の程度に開化を漕ぎつけた折も折、
図らざる天の一方から
急に二十三十の複雑の程度に進んだ開化が
現われて俄然として
我らに打って懸ったのである。

この圧迫によって吾人は
やむを得ず不自然な発展を
余儀なくされるのであるから、
今の日本の開化は地道に
のそりのそりと歩くのでなくって、
やッと気合を懸けては
ぴょいぴょいと飛んで行くのである。

開化のあらゆる階段を順々に踏んで
通る余裕をもたないから、できるだけ
大きな針でぼつぼつ縫って過ぎるのである。
足の地面に触れる所は十尺を通過するうちに
わずか一尺くらいなもので、
他の九尺は通らないのと一般である。

私の外発的という意味は
これでほぼ御了解になったろうと思います。
これを一言にしていえば現代日本の開化は
皮相上滑りの開化である
という事に帰着するのである。』

(引用終わり)

…江戸時代の日本は、漬け物のように
じっくりじんわり文化を醸成してきました。
これに対して欧米列強は「黒船」のような
最新の技術と思想でぶつかってきた。

西洋の衝撃! 外発的な開化!

大いなる差を埋めるべく
「文明開化」路線を採らざるを得ない日本は、
「皮相上滑り」で取り急ぎの「開化」を行った…
という内容。
さすがは英国留学経験のある漱石! 見えてる!

さて、その一方で、漱石の弟子のひとり、
芥川龍之介は小説『神神の微笑』の中で
以下のような記述をしております。
1922年。大正11年のこと。
日本の「文明・文化の受容の仕方」について。

(ここから引用)

『我々の力と云うのは、
破壊する力ではありません。
造り変える力なのです。』

(引用終わり)

仏教や儒教など大陸から渡ってきた教えは、
日本に入ってから「造り変えられた」。
キリスト教も、技術や思想などの欧米文明も、
いずれはそうなっていく…。
大正時代の芥川は、日本の
「造り変える力」に言及したのです。

この二つを踏まえ、本記事では明治以降の日本が
どう欧米列強の「文明」を取り入れたか、
特に「精神的な部分」に着目して書きます。

まず、精神的な「素地」について。

日本独自の文化に「中国から伝来」した文化が
合わさったものが、日本では育まれていました。

例えば、漢字から派生した『かな文字』
神道+仏教という独特な『神仏習合』
儒教をアレンジした『日本版儒教』。…

明治新政府は、最初にキリスト教禁教令を出し、
「神道」を中心に据える政策を行います。
そのため、神道と仏教とを分離する!
明治元年に「神仏分離令」が発布されました。
この結果、全国で「廃仏毀釈」の嵐、
仏教への弾圧の嵐が吹き荒れる。

ただし、この路線はすぐに改められます。

「日本特有の風土を守るためには
仏教や僧侶との協力が無ければいけない」
と考えられるようになったから。
同士討ちでは漁夫の利を得られてしまう。
「神仏共同布教体制」が採られる。

キリスト教に対する防波堤!

ただしこれに、欧米列強が反発した。
「信教の自由の保証」が強く求められた。
1873年、キリスト教禁教令は、廃止されます。
1889年の「イチハヤクつくる帝国憲法」には
文面上に「信教の自由」を明記。

…しかし、キリスト教が精神的な背骨にある
欧米の文明を「丸ごと」取り入れることは、
明治の日本はしなかった。

「神道は宗教にあらず」として解釈して、
神社を「国家の宗祀」と位置づける。

その上で、神社や神道を他の諸宗教とは別格の
「公的な扱い」にしていく。

(ちなみに、明治の最初頃、政府は
「お雇い外国人」を次々に招聘し、直訳風に
欧米の文明を取り入れようとしました。しかし
徐々に「国産」の教授が任命されていきます。
ラフカディオ・ハーン、小泉八雲に代わって、
夏目金之助、のちの漱石が
帝国大学の教授に就任したように…)

その一方、明治の初め頃のこと、
福沢諭吉たちが欧米文明を取り入れるべきだ、
と、広く訴えかけていました。
『学問のすゝめ』はベストセラー。
「一身が独立して一国が独立する!」
「みんな『学問』をせよ!」と呼びかけた。

一身、つまり個人が「独立」するには、
それまでの「常識」を壊さなければいけない。
「身分(門閥)制度」「日本版儒教」を否定。
主従、男女、親子の上下関係なども、否定。
「男女同権論」も説いています。

学ぶ者こそが上に立つ。学ばない者は下に行く。
生まれながらに偉い人はいない。学ぶから偉い。
「学んで問え」「議論をしろ」そう主張する。

…ただ、ここで一つ、問題が生じます。
明治政府は「天皇を軸とする国家」へ
舵を切っていきますよね。大日本帝国憲法。

ヨコの平等、これが基本の『学問のすゝめ』。
「人の上に人を造らず人の下に人を造らず」。
一方で、タテの上下、天皇主権の『帝国憲法』。
「生まれながらに偉い存在」が前提。

…ぶつかるんですよ。ぶつからざるを得ない。
諭吉は、時代を先取りし過ぎた。
ラディカル過ぎたんです。

大正時代には「大正デモクラシー」。
「議論」が活発に行われていきますが、
いざ欧米列強を相手に大戦を戦う昭和になると
「日本独自の論理」が色濃く、強くなっていく…。

夏目漱石が表現した「皮相上滑りの開化」。
芥川龍之介が表現した「造り変える力」。
根っこを変えないままの皮の上だけの開化、
「日本流アレンジ」の力が
発動していった
、と言えるでしょう。

そのため、世界大戦中に日本の主張は
「日本だけに都合の良い考えだ!」と
共感を得られにくく、他国からは
批判を浴びる結果になったのです。

最後にまとめます。

本記事では日本が欧米流の文明を
徐々に「造り変えていった」
その試行錯誤の一部を書きました。

…こういうことは、読者の皆様の
組織の中でも起こったりはしませんか?
新しい制度を取り入れたものの
「皮相上滑りの開化」に終わり
「造り変える力」が発動する、なんてことが。


誤解を避けるために書きますと、
どちらが良い悪い、ではなくて
そういう性質が無意識に備わっている、
と言いたいのです。

「軸」がしっかりある個人、組織ほど、
他の流儀には簡単に染まらず
自分流にアレンジする
ことでしょう。
「相乗効果」でうまくいくケースもある。

ただあまりに「ユニークな方針」、
「独自路線」悪く言えば「独善的な方針」は
外からは理解、共感がされにくく、
バッシングも浴びやすい…。

それもまた歴史の教訓ですよね。

皆様の組織はどうですか?
上下関係が強い? それともフラット?
開化を受け入れていますか?
皆様個人の中ではいかがでしょう。
「他人の考え」をそのまま導入?
それとも「造り変えて」いますか?

※参考までに、トコシエさんのブログ記事もぜひ。

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