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儒学、国学、蘭学、など…。
「社会科や歴史の授業で
聞いたことがありますね」
と言われそうな、〇〇学の数々!

約265年ほどの長きにわたって続いた
日本の江戸時代では、
様々な学問が生まれていきました。
本記事では江戸時代の学問の概要を、
自分なりに書いていきます。

まず、時代背景から。
江戸時代、と言えば
戦国時代(安土桃山時代)の後、
明治時代の前!

◆戦国:下剋上、仁義なき戦い
◆江戸:(その間)
◆明治:文明開化、欧米万歳

戦国時代、安土桃山時代のあたりは
「仁義なき戦い」の時代でもあります。
上が下に克つ「下剋上」。
家柄ではなく実力がものをいう世界観…。
人の命が、現代では想像もできないほど
軽いものでもありました。

子どもから老人まで「やらなきゃやられる」。
幕府の統制は取れていない。
群雄が割拠していた。
それが、徳川家康が天下を取ることで
「江戸幕府」の時代となる。

…当然、下剋上や群雄割拠、殺人などを
押さえなければいけませんよね。

天下の万民の安寧のために、
決まりやシステムを整え、統治する。
「江戸時代の学問」は
その時代背景の中で生まれたものです。

「いのちをだいじに」と言えば
すでに日本では「仏教」がありました。

しかし江戸幕府は「仏教」を軸に
政治を行ったわけではない。
なぜなら戦国時代には
「一向一揆」などに代表されるような
仏教徒による反乱・武力蜂起が
起こっていたから。
「いのちをだいじに」していなかった。

徳川家康は彼らの力を削ぐべく、
おおもとの本願寺を東と西に分けた。
東本願寺と西本願寺ですね。

民衆に対しては
江戸時代中期に「宗門人別改帳」をつくり、
戸籍原簿・租税台帳として活用した。
そう、仏教を政治システム・民衆統治の中に
うまく組み込んでいったんです。
「キリスト教禁止令」の影響もあった。
江戸時代初期の島原・天草一揆の後、
幕府・各藩はキリスト教徒摘発のため
民衆がどんな宗教宗派を信仰しているか
定期的に調査した。宗門改と言います。

こうして江戸時代期の仏教は、
奈良時代や戦国時代に比べると
政治に大きく影響を及ぼす、
ということが少なくなっていく…。

(五代将軍徳川綱吉に「生類憐みの令」を
つくるよう、隆光という僧侶が勧めた、と
言われてはいますが、近年の研究では
時代が合わないとされている)

仏教が政治の場から後退すると、
それに代わる新しい学問、教えが
必要になってきます。


幕府が目をつけたのが儒学。
とりわけ「朱子学」でした。

朱子(朱熹)とは1130~1200年、
中国の宋の時代の人。
彼の教えは「宋学」とも言われます。
存在論、倫理学、方法論、政策論などを
まとめた儒学の中の体系の一つ!

これが鎌倉時代の日本に入り、
留学僧たちの間でブームになって、
室町・戦国時代には各地で流行っていた。

その教えの中には「上下関係の区別」
唱えるものがありました。
…これが下剋上をやめさせようとする
幕府の統治に都合が良かった。

江戸時代は武士の世の中です。
武士が偉い。身分が高い!
それを理論付ける学問が必要とされた。

朱子学は儒学の中での「官学」つまり
幕府の公認の学問として認められます。
ひいては各藩でもさかんに
学ばれていくようになる。

戦国時代の頃の朱子学者、藤原惺窩は
仏教から朱子学を分離させて
京都に伝えます(京学と言います)。
この流れから、幕府の庇護を受ける
林羅山由来の「林家(りんけ)」や、
木下順庵、新井白石などが生まれる。
新井白石は、第六代・七代将軍の時に
「正徳の治」を行った人物です。

要するに、江戸幕府や各藩の統治に、
朱子学がぴったりとフィットした。

1790年、老中の松平定信は
「寛政異学の禁」を出し、
朱子学を正統のものにします。
この頃、各藩では「藩校」を作る
ムーブが起きていましたから、
各藩においても朱子学を
採用するところが多かったのです。

…ただ、この正統の朱子学に対して、
アンチの理論もあった。

まずは「陽明学」
これは中国の明代の王陽明という人が
起こした儒学の一派。

朱子学には「道徳倫理」と「体制擁護」の
二つの大きな側面があったのですが、
政治に利用されていく中で
「体制擁護」のほうばかりが
クローズアップされていく。
そこで「道徳倫理」のほうを
再生しようとしたのが王陽明です。

心のままそのものが理である。
良く知る理を把握し、行動せよ!
「知行合一」とも言われます。

江戸時代の初期には近江(滋賀県)の
中江藤樹が日本の陽明学を広め、
「近江聖人」とも呼ばれます。
江戸時代の後期の幕府公認の儒官、
佐藤一斎は朱子学とともに陽明学も修め、
「陽朱陰王」とも呼ばれる。
幕府に反乱を起こした
「大塩平八郎」も陽明学の学者ですね。

◆体制側の朱子学
◆反体制側の陽明学

そのようにまとめると荒っぽいですが、
要するに「行動を重視する」陽明学が
幕末の志士たちの行動に
大きく影響を与えたのは、事実。

ただ、陽明学派だけではない。

朱子や王陽明ではなく、
「直接、孔子や孟子の教えに
アクセスしよう!」という一派も現れる。
「古学」と言います。
山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠など…。

江戸時代の儒学を三つにまとめますと、

◆朱子学派:幕府公認、スタンダード!
◆陽明学派:行動重視、ちょっと危険!
◆古学派:おおもとの孔子孟子に帰れ!

「陽朱陰王」こと佐藤一斎は、
公認の朱子学の建前上、
陽明学を公然とは教えられませんでしたが、
著書には陽明学のカラーがにじみ出ている。
かの西郷隆盛も、彼の著書から
自分なりに学んでいたそうです。

一斎の弟子、備中松山藩の山田方谷
陽明学の危険性(行動力重視)を鑑み、
弟子には先に朱子学を学ばせ、
有望な弟子にのみ陽明学をそっと教えた。

同じく一斎の弟子、佐久間象山は、
勝海舟や吉田松陰、坂本龍馬たちに
大きな影響を与えましたが、
行動力の塊、単独行動が仇となって
1864年に暗殺されてしまいました。

そして、これらの儒学に対して、

◆国学:「日本古来」の考え方を学ぶ
◆蘭学:「オランダ」の考え方・技術を学ぶ
◆心学:「町人や農民」の心構えを学ぶ

などの学問も生まれていったのでした。

最後にまとめます。

本記事では江戸時代の〇〇学について
その概要を書きました。

明治時代になると「文明開化」の中で、
欧米の文明がもてはやされ、
江戸時代の学問は徐々に
過去のこととして顧みられなくなります。

しかし、明治時代の
「日本の夜明け」を花咲かせたのもまた、
脈々と学ばれ続けてきた
百花繚乱の土壌のおかげだ
、とも思うのです。

読者の皆様は、どう思われますか?

※2021年に亡くなられた、
みなもと太郎さんの漫画『風雲児たち』には、
江戸時代の人物が出てきます、ぜひ!

※佐藤一斎についてはこちら↓
『佐藤一斎、重職の心得を語る』

※あえて荻生徂徠の古学を採用した
庄内藩についてはこちら↓
『庄内と徂徠学、致道館とソライと八郎と』

※江戸幕府の統制政策の一つ、
参勤交代についてはこちら↓
『上げ米・渋幕・参勤交代』

※江戸時代の文化、浮世絵についてはこちら↓
『べらぼうな「蔦屋重三郎」…どんな人?』

※江戸時代の頃の欧米の情勢はこちら↓
『眠る江戸、戦う西洋』

※勝海舟や福沢諭吉がクローズアップされがちな
幕末~明治の咸臨丸についてはこちら↓
『咸臨丸 ~太平洋横断の栄光と沈没~』

合わせてぜひどうぞ!

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