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「キッズドーム・ソライ」
という施設があります。
山形県の庄内地方です。
鶴岡市のスイデンテラスという
ホテルのすぐ近くにある施設!

ホームページから、
施設の概要文を引用します。

(ここから引用)

『地域の街づくり会社
ヤマガタデザインが
運営する全天候型の児童教育施設です。

これからの時代に生きる子どもたちに
必要なチカラを「遊び」を通じて
育んでいくことを目的にしています。

本能のままに体を動かす
巨大な屋内型遊戯施設「アソビバ」と、
様々な素材や道具を使ってアートや
ものづくりができるアトリエ「ツクルバ」、

創造力を掻き立てる本と出会える
ライブラリを使って、
子どもたちが自分の好きなものに没入し、
成長していける
環境創りを目指しています。』

(引用終わり)

この施設の名前の由来は、
「荻生徂徠」
(おぎゅうそらい:1666〜1728)
という江戸時代の学者です。

…なぜ、そんな人の名前が
この施設の名前になったのか?
本記事では、その理由を探ってみましょう。

庄内を江戸時代に治めていた庄内藩には
「藩校」がありました。
1805年に創設。
致道館(ちどうかん)、と言います。
藩校は江戸時代の藩が独自に作った学校で、
藩士たちを中心に学問をさせます。

…藩校でどんな学問を学ばせるべきか?

江戸時代の学問の主流は「儒学」です。
中国の孔子が始めた学問。
その中でも江戸時代に正統とされたのは、
「朱子学」というものでした。

この少し前の頃、
江戸幕府の老中、松平定信が
「寛政異学の禁」を出した(1790年)。
幕府が運営する学問所で朱子学「だけ」を
正しい学問として教えることにした。
その他の学派は 「異学」 と位置づけて
教えることを禁じたんです。

…なぜ幕府はこんなことをしたのか?

実はですね、松平定信の前のあたり、
八代将軍吉宗~田沼意次の時代には、
「朱子学が衰えていた」んです。
「理論はすごいが、現実に合ってない」
「そもそも儒学の初心に返りましょうよ」
そう言っている学者が、増えていた。

荻生徂徠も、その一人でした。

その風潮に待ったをかけたのが、定信。

朱子学は「上下の別」を大事にします。
幕府は偉いぞ!ということを示すには
朱子学のほうが都合がいい、とばかりに
統制策の一つとして朱子学を正統として、
他の儒学の学派を「異学」とした
んです。

(定信によって学問所に送り込まれたのが
儒者である林述斎と佐藤一斎)

※誤解されがちなので補足しますと、
別に「国学」「蘭学」とかを
異学にしたわけではなくて、
「幕府直轄の学問機関の中で、儒学の
朱子学以外の学派を異学とした」だけ。

※もう一つ誤解されがちですが、
定信自身は朱子学絶対主義者ではなく、
「朱子学は理屈が先に立ち、
学ぶと偏屈に陥る」とも言っている。
統制という「老中のお仕事」として、
寛政異学の禁を行っただけです。

…そういう流れがありますので、
各地の藩校も
幕府に右にならえ、とばかりに
「朱子学を採用!」と
追随するところが多かった。


ところが。

庄内藩の藩校、致道館では
荻生徂徠の学派である
「徂徠学」を採用した。

幕府内での主流の学問に歯向かう形!

朱子学は理論はすごいが現実に合わない。
儒学の初心に返りましょう。
そんな「徂徠学」を採用した。

(もっとも松平定信は1793年に失脚、
寛政異学の禁は幕府内の話なので、
藩校にまでは口出ししなかったのですが)

…ちょっと、気になりますよね。
なぜ、幕府推しの朱子学ではなくて、
「徂徠学」を採用したのでしょうか?


庄内藩は譜代大名の酒井氏です。
徳川家康に仕え、四天王の一人と呼ばれた
酒井忠次の直系の家系!
幕府に逆らうことはしないはずなのに…?

謎だ。ミステリー。
こういう時には「致道館」の
ホームページの記述を見るのがいい。

(ここから引用)

『徂徠学は古文辞学
(こぶんじがく)ともいわれ、
古い辞句や文章を直接続むことによって、
後世の註釈にとらわれずに
孔子の教えを
直接研究しようとする学問です。

庄内藩における徂徠学の元祖は
水野元朗(みずのげんろう)と
疋田進修(ひきたしんしゅう)です。
特に、徂徠の没後に
太宰春台にも学んだ元朗は、
庄内藩学の基礎をつくりました。

以後、藩の多くの儒者が
江戸在職中に徂徠の門に学んだことから、
この学風は広く藩内に普及しました。

また、後に初代祭酒に任命される
白井矢太夫(しらいやだゆう)が、
徂徠学で培った抜群の見識をもって
寛政の藩政改革に
大きな功績を挙げたことから、

藩主忠徳は
矢太夫を深く信頼するとともに、
徂徠学が実際に藩の政治に役立つ学問で
あることを高く評価しました。

こうした経緯と、徂徠学を学んだ人材が
藩の指導的な立場にあったことが、
徂徠学を藩学とした要因である
といわれています。』

(引用終わり)

…つまり、荻生徂徠のお弟子さんが
庄内藩の関係者だったんです。
藩政の改革も行われて、うまくいった。
だから庄内藩には徂徠学が広がっていた…。

では実際、どんな教育が行われたのか?
再び、致道館のホームページから。

(ここから引用)

『致道館教育の特色は
「天性重視個性伸長」と「自学自習」
「会業の重視」 にあります。

生徒一人ひとりの生まれつきの個性に応じて
その才能を伸ばすことを基本にしながら、
知識を詰め込むことではなく、
自ら考え学ぶ意識を
高めることを重んじた
のは、
すべて徂徠学の思想に基づくものです。

こうした教育方針は、当地の
教育的風土を形づくるとともに
時代を超えて
変わらぬ学びの精神として受け継がれ、
今なお本市の教育の根幹をなしています。』

(引用終わり)

天性重視。個性伸長。自学自習。…
まさに「アクティブラーニング」

「アソビバ」「ツクルバ」「ライブラリ」。
『子どもたちが自分の好きなものに没入し、
成長していける環境創り』が成されている…。
「キッズドーム・ソライ」では、
ソライこと「徂徠」の教えが
脈々と受け継がれていると言えます。

最後に、まとめます。

本記事では
庄内のソライについて書きました。

なお、幕末の庄内藩からは、
明治維新の火付け役の一人
と言われる、ある男が出てきます。

清河八郎(きよかわはちろう)です。

彼は江戸に出て古学派(徂徠の流れ)の
東条一堂という学者について学問を修め、
北辰一刀流の剣を学び免許皆伝、
志士として実にアクティブに活躍します。

その彼がつくったのが「浪士組」です。
…のちの新徴組、新選組。

「腕に覚えがある者であれば
身分を問わず年齢を問わずに参加できる」

常識に囚われず、画期的な組織を作り、
広く人材を集めようとした彼の土台には
徂徠学、アクティブラーニングが
あったのではないでしょうか?

八郎は志半ばでこの世を去る。しかし、

その志は明治維新につながり、
身分にとらわれず、自由に学問ができる
明治時代へとつながっていく
のです。

※本記事は以前に書いた記事のリライトです↓
『庄内と徂徠学、致道館とソライ』

林述斎と佐藤一斎についてはこちら↓
『佐藤一斎、重職の心得を語る』

致道館のホームページ↓

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