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西暦1000年と言えば、日本では平安時代。

日本では「藤原道長」が活躍した頃です。
「トオイ ムかしの 道長摂政」の
ゴロ合わせで覚えたりしますが、
1016年に道長は摂政となり
「摂関政治」の最盛期を築いていく…。

その頃、世界では
何が起こっていたかと言いますと。

中国では「宋」という国が
北の遼という国に攻められて
和睦をしています。
お金を払って、安全保障を買う。
それだけの経済力が発展した時代。

ヨーロッパではハンガリー王国が誕生し、
中欧の強国として最盛期を迎えました。
「十字軍」が行われる百年ほど前。
ヨーロッパ自体もルネサンス前で、
そこまで強くなかった頃です。


要は、各地域で各事情に応じて、
政権が栄えたり滅んだり、
どこが圧倒的に強い、とも言えない…。
西暦1000年は、そんな時代でした。

ここに一人の偉人があらわれる。

どこに? 中東のイスラーム圏で。
その名も、イブン・シーナーという男!
『医学典範』などの著作をあらわし、
『第二のアリストテレス』とも呼ばれた。
この時代、最高峰の知性を持った人です。

しかしその人生、キャリアは
なかなかに苦難に満ちたものでした。
本記事ではこのイブン・シーナーについて
書いてみます。

980年に生まれて、1037年に死んだ。
藤原道長が
966年に生まれ、1028年に死んでますから
同じ時代の人、と言ってもいい。

「サーマーン朝」という
現在のイランの東部あたりで栄えた王朝で
生まれます。首都ブハラの近く。
シルクロードの都市のひとつです。

いわゆるギフテッド、早熟、天才児でした。
10歳でクルアーン(コーラン)を暗誦!
算術、哲学、天文学、論理学を学ぶ。
ただ、彼がこの時に読んでいた本は
受験参考書の入門書のようなもので、
原典の内容とは大きく違っていたそうです。

じきに医学も学ぶことになります。
16歳で、すでに医者として患者を診察。
「そんなに医学は難しくなかった」と
後で自伝に書くほどの天才。
ただ、ここで学んだものも現在で言えば
「家庭の医学書」のようなもので、
いわば門外漢向けのわかりやすい本でした。

ただし、このようなわかりやすい本、
いわば省略して、要点だけを
門外漢にも分かりやすいように
書いた本ですから、古代ギリシアの
「アリストテレスの哲学」だけは
どうしても理解できなかったそうです。

はしょって書いてあるから当然です。
今で言えば「歴史学習漫画」だけで
歴史そのものを学習するようなもの。
細かいことははしょられ、
大事なところのみ誇張して書いてあるので、
わかりやすいがわからないところもある…。


そんなある日、首都ブハラのバザールで
買い物をしていた時に、シーナーは
ファーラービーという人が書いた本を入手。
アリストテレスが書いた『形而上学』
という本の注釈書でした。

ファーラービーはアリストテレスに次ぐ
「第二の師」とイスラーム圏で
言われていたほどの学者。
その天才が、古代の天才アリストテレスの
著作を注釈した本!
この本を得ることで、ようやくシーナーは
アリストテレス哲学を身に付けたそうです。

さて、若き天才医学者シーナーは、
無料で診療を行って経験を積んでいき、
(ブラックジャックというより赤ひげ先生)
名声が高まっていきます。

サーマーン朝の王様の病気も治したりして、
宮殿の図書館に出入りすることを許される。
18歳の時には図書館の本を読破し、
「全ての学問を修めた」と自賛するほど
その知性を研ぎ澄ましていった。

…ただ、好事魔多し、と言いますか、
このサーマーン朝、滅亡するんですよ。
999年。
ウズベキスタンの映画、
「若き日の偉人」には、
そのあたりの情景が描かれています。

王様にシーナーが助言する。
「危機になると、国王は国民に呼びかけ、
君民一致して乗り越えてきました。
今こそ、みんなで力を合わせて
乗り越えていきましょう!」
王様、これに答えて曰く、
「…わしはお前たち学者や芸術家ばかりを
大切にしてきた。怨みを買っている。
だから、いま、民に呼びかけても
わしは見捨てられてしまうだろう」

ああ、無残にもサーマーン朝、滅亡…!
シーナーは放浪の旅に出て、
生涯、ブハラに戻ることは無かった。

その後、各地を転々とします。

彼の名声を聞いたガズナ朝という
サーマーン朝を滅ぼした王朝が
出仕を呼びかけたりしますが、
シーナー、故国を滅ぼした国を許せない。
密かに逃げ出して、ガズナ朝から
「お尋ね者」になったりします。

そのうちに、今のテヘランの郊外、
イランの西部にある
ハマダーンという街に移住しました。
昔はエクバタナと呼ばれた古都。
ここを治めていたブワイフ朝の王様の
病気を治したりして信任を得る。
彼は宰相(大臣)に起用されるのです。

…やっと平穏の日々が訪れる!

彼は1020年、ずっと書き続けていた
『医学典範』という本を
完成させることができました。

ですが、好事魔多し(こればっかり…)。

信任してくれた王様が亡くなると、
新たな王様により牢屋にぶち込まれた。
敵国イスファハーンの王様と手紙で
やりとりしていたことがばれたのです。
彼は獄中で執筆を続け、釈放されると
托鉢僧に身をやつしてハマダーン脱出!
イスファハーンの街に移住します。

「これでようやく
著述生活に専念できる…!」と
思ったのもつかの間、

天才シーナーを王様は手放しません。
彼を宰相、大臣に起用。
しょうがないので彼は軍事遠征中、
馬上から書記官に口述筆記させて
自分の著作を書いていった
そうです。

しかし1030年、イスファハーンの街は
宿敵ガズナ朝の攻撃を受けてしまう。
彼の蔵書が奪い去られてしまいます…。

不幸なことは重なるもので、
病気に倒れた時には、奴隷にわざとアヘンを
飲まされてしまい、財産のほとんどを奪われ、
最後まで貧乏な生活を余儀なくされる…。


1037年、貧乏と激務の中、
彼は遠征中に病に倒れ、死去するのです。

最後にまとめましょう。

山あり谷ありの強烈な
イブン・シーナーの人生を紹介しました。
戦国に運命を翻弄されつつも、
思索、研究、執筆、表現を欠かさず
たくさんの書物を世に残した男!


凄い学者なんですけど偉ぶることなく、
王様に対しても気さくに話すような
大雑把な性格だった、と言われています。
象牙の塔にこもらずに
世俗的な楽しみもこよなく愛する人…。
各地で放浪の旅を続けたことで
唯一無二の境地に至ったのでしょうか?

なお、『医学典範』をはじめとする
彼のアラビア語の著作は、十字軍の後に
イタリアに流入、ラテン語に翻訳され、
ヨーロッパの人たちにも読まれました。

…これが後に「ルネサンス」の
大きな原動力となっていきます。

シーナーは時代を越えて、
世界の歴史を動かした、とも言える。

イブン・シーナーの
「どんな環境でも自分の言葉で
表現をし続ける姿勢」

全く足元にも及びませんが、
ぜひ私も見習いたい、と思いました。

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