ただ「そこに在る」こと 〜 「蒼氓」 山下達郎

「ミネルバのフクロウは迫り来る黄昏に飛び立つ」

これは、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルが記した『法の哲学』(1821年)の序文。
ミネルヴァのフクロウは、ローマ神話の女神ミネルウァ(ミネルヴァ、ミネルバ)が従えているフクロウであり、知恵の象徴とされる。(Wikipedia より)

黄昏が舞い降りた。

遠く翳る空から黄昏と共に舞い降りたのは、ミネルバのフクロウだったろうか。時代の変革期、数知れぬ人々に知恵と勇気をもたらすために。

蒼氓。名も無き人々。名も無き民衆。我々は日々何かを求めてさまよう流浪の民。

ミネルバのフクロウは、流浪の民に生き続けることの意味を伝えに来たのかもしれない

「生き続けること」の意味。

それは「自分とは何かを探すこと」にとても似ている。

思い起こせば、モラトリアムの中学高校時代。音楽を聴くようになり、詞を念入りに読み、その世界に没入するようになったころ。

詞の世界と対比させることで、自分とは何かを熱心に定義しようとしていた気がする。

「自分とは何か」。

この問いに答えがあるとすれば、それは「自分の内面」にある。それを紡ぎだしていくしかない。いわば「見えないもの」を追い求める果てしのない思索の螺旋ともいえる。

当時は、この渇望を音楽に求めていた。

あのころ「音楽」に求めていたのは、思春期特有の自己中心目線で語るならば、「自分に何を語りかけてくれるか」だった。

それによって「自分とは何か」を明らかにしようとしていた。

一人で音楽と向き合い、その「語りかけ」作業を通じて「自分自身」を顕在化させていたように思う。

それはさながら「孤独な一人悪戯(あそび)」。

音楽との関係性を考えると、ふと、最近たどり着いた会話から未来が見えるという概念のことを思うのだ。

会話の相手は、「語りかけ」をサポートしてくれる存在。対象は自分自身。

つまり、自分にとっての「音楽」のような存在ともいえる。

「語りかけ」によって、「音楽」が醸し出す空間と同じ匂いのする空間を創り上げる。そして、その空間に「自分の内面」が投影されていく。

そうなのだ。

あのモラトリアムの時代に、心から信頼し対話できる存在と巡り合えていてさえすれば。

「孤独な一人悪戯」は、誰かと空間を共有する「ともだちの輪」になっていたはずで、その「輪」は、人生を通じた「環」になって「循環」していったはずでもあるのだ。

そんな自分探しの旅は、ある日終点を迎える。

それは社会人初期に出会った星野道夫さんや、青春時代に聞いていたとある歌詞への気づきからもたらされた。

「自分とは何かは、さっぱりわからないという事だけがわかった」のだ。

そう、「わからなくていい。自分は、ただそこに在るから」

この時、京極夏彦風にいえば、「憑き物が落ちた」。

この日以降、僕は「自分とは何か」を「探し求める旅」には出ていない。

自分は、ただ「そこに在る」ことに気がつくことができたから。

それこそがTruth of Life、人生の真実、生き続けることの意味だと思う。

自分が自分で在り続けること。

「ただそこに在り続けること。」

生き続ける意味を問う無数の流浪の民がいる。彼らが、迷い、戸惑い、生き続ける意味への渇望が高まるその時。

ミネルバのフクロウは黄昏と共に舞い降りる。

「歌声」とともに。


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