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加治木島津家の若殿、参勤交代を経験す

精矛神社とは

私は鹿児島県姶良市加治木町に鎮座する精矛神社の禰宜をしている。
精矛神社は、関ヶ原合戦の折敵中突破を果たしたことで有名な武将「島津義弘公」を祀っている。

以下、ウェブサイトをご覧いただきたい。

加治木島津家の成り立ち

私の生まれた加治木は、1619年7月21日に島津義弘公が亡くなった加治木屋形があった場所だ。
義弘の孫である忠朗は、世継ぎである光久の江戸への移動と入れ替えでこの屋形のある加治木領へ入った。
そして1631年に、忠朗は父である初代薩摩藩主忠恒(家久)に、加治木1万石に封じられている(5年後には17,800石)。
私はその14代にあたる。

馬の名手であった義弘公

義弘公の跨っていた「膝跪騂(ひざつきくりげ)」は有名な馬だ。
有名なエピソードは、木崎原合戦の折、膝を地面につけることで義弘を守ったことだろう。

しかし、義弘公の馬の乗りっぷりの逸話はこれにとどまらない。
80歳を過ぎても義弘公は、馬を悠々と乗りこなし、山を駆け下りていた。
そんな後ろを追う若い家来衆は、次々と落馬した、という。

他にも、鹿児島には太鼓踊りという文化がある。
文禄・慶弔の役(所謂朝鮮出兵)から帰還した際、凱旋記念で覚えさせた、とある。

余談だが、私の祖母はこの研究を行っていた。
日本の伝統的なものではなく、朝鮮独特のものが多数見受けられたようだ。
他にもこの研究をされている文章があったので共有したい。

http://www.danceresearch.ac/buyougaku/1981/1981_42.pdf

話を戻す。
義弘はこの太鼓踊りの衆を2列に並べ、この間を馬で駆け抜けてみよ、と家臣に命ず。
だが、誰もそれを行おうとしなかったので義弘公が手本を示した、という逸話がある。
そういった「馬の名手」としての逸話が、今でも伝わっている。

オートバイ神社

先述した逸話を踏まえ、今回精矛神社はオートバイ神社に認定された。

九州初のオートバイ神社(月刊with BIKEより)

こちらの紙面をぜひご覧いただきたい。

https://withbike.jp/withbike/no150/no150.pdf

リターンライダーとしてリスタート

私は2011年に自動車・小型自動二輪車の免許を取得した。
当時、東日本大震災など起こる想定は無く早めに上京するつもりだったため、時間の関係で中型二輪ではなく小型を取得するに至った。
その後、通学手段としてホンダPCX125に乗って通学していた。

しかし、引っ越し先に駐輪場が無かった背景から44,000kmほど乗ったPCXを手放した。
そこからは電車メインの生活を送っていたのだが、年末年始の奉職を行っている中で明らかにバイク乗りの方の参拝が増えた事を体感した。
参拝される方と話をしていると、ツーリングの話をよくされていることに気付く。
私は実はPCXで、所謂ツーリングスポットなど行ったことが無かった。
オートバイ神社の神主なのに、これではいけない、と思ったのは言うまでもない。

ホンダCB125Rとの出会い

私は早速、年末年始の奉職を終えた後Goo Bikeを漁り始めた。
何せ、5年以上バイクに乗っていなかった上、バイクの情報は何も持っていなかったのだ。
今どんなバイクが存在するのか全く見当がついていなかった。
そうこうしているうちに、あるバイクが目についた。
それが、CB125Rだ。

私は限定解除をしていなかったので、今でも乗れるのは125CCまでだ。
そんな中でもミッション車でロングツーリングできる上、マフラーがショートなどの装いに惹かれ、購入し2月27日に納車した。
思いの外足つきが悪かったので初日に立ちゴケしてしまい、ショックを隠せなかったが、その後は全く問題なく乗りまわしている。

江戸時代の参勤交代

薩摩藩は、1607年に初めて参勤する。その距離440里(約1,700km)と伝えられている。これは全国の大名の中で最も長い道のりだ。
参勤交代とは、大名達に1年交代で江戸に参勤することと、夫人や嫡子などを江戸に住まわせることを義務化した制度だ。
島津家は江戸と大阪との間は東海道・中山道といった街道をずっと使っていたが、大阪ー鹿児島間は江戸前期において船をよく使っていた。
江戸中期以降陸路を使うようになり、2か月程度かけて移動していたようだ。

令和の参勤交代

バイクを納車して以降、毎週のように土曜日はツーリングしていた。
1日200km前後走ることもザラだ。
そうして走っているときに、鹿児島で自分のバイクの安全祈願をせねば、と考えていた。
オートバイ神社に認定されているのだ。私自身が跨るバイクの安全祈願を行わないで何とするか。
そこで、片道は船、片道は陸路で参勤交代を経験してみよう、と考えた。
出発前に野太刀自顕流の先輩が経営する天丼屋でこの話をしたら、その先輩は「うわっっっ、ぼっけもんやなぁ。」というようなお褒めの言葉をいただいた。

薩摩を出る前に

やはり地元で写真を撮らねば、と思い撮影ツーリングに出かけた。

精矛神社前にて
黒川岬にて
花倉バス停にて
国道10号線のスペースにて
磯からの桜島

鹿児島に住んでいる頃からバイク乗りに憧れていたのだが、長年の夢だった国道10号線をバイクで走ることを達成した時は、感無量だった。
気持ちの良い風、静かな波の音、横には桜島。
言葉には表せられないような感動を嚙み締めた。
まるで、高校を卒業して上京する前の、あの感覚だ。

1日目

5/1、いよいよ参勤交代をスタートさせた。
昨今では珍しく両親が揃って送り出してくれた。
まずは薩摩街道をずっと進む。

薩摩街道の途中の田園風景
黄金色に輝く畑は眩しかった
国境はやはり山の中

2日目


初日は九州を抜け、山口県宇部市まで進む。
翌日の目標地は姫路だ。

海沿いの道にて
山口県で通った橋(名前忘れてしまった・・・)

父から、山賊焼きが有名だと事前に教えてもらったお店「いろり山賊」にて一休み。

山賊焼きと山賊うどん

その後は、山間を進んでいく。

一面緑、ではなくコントラストも美しい風景

走り続け、ようやく広島県福山市に到着。
友人の「くらとし」が店をやっているのだが、念願叶ってようやく訪れることが出来た。
実は、この日リニューアルオープン日ということだった。
久しぶりに再会した友人は、開店準備に追われていて、まさか手伝う事になるなんて露ほども想定していなかった。
開店してから集まるお客さんたちとの会話から、地元に愛される店主として頑張っていることを強く感じた。

暮らしの台所あがりこぐち
店主くらとし(左)と筆者(右)

くらとしの店のコンセプトはこちらだ
熱量が出会った時から凄かったのだが、それは今でも変わらないようだ。
ぜひ、皆さんにも足を運んでみてほしい。

あがりこぐちのリニューアルオープンを見届けて、本日の目的地姫路まで進む。
この日は山間部は8度。
後にも先にもこの道のりが寒すぎて一番の地獄だった。

3日目

昨日の寒さでだいぶ消耗していたが、この日は2か所ほど立ち寄る予定があった。
それは須磨寺と湊川神社だ。
須磨寺は薩摩琵琶歌「小敦盛」の舞台。

須磨寺前にて

湊川神社は同じく琵琶歌「桜井の駅」の大楠公を祀っている神社だ。

薩摩琵琶歌集を見ると、作者は井上徳定禅師と記載されている。
どういった人物なのかは不明だ。
私が弾けるようになったら、ぜひここで弾奏したいと思う。

その後も、この青空に囲まれながら江戸の方へ走り続ける。
この日は静岡県浜松市まで進んだ。

最終日

この日は大学の同級生と合流し、江戸までの道を進むことにした。
海沿いの道がまた綺麗で、ついつい景色を求めて道を外れることもあった。

そうこうしているうちに、箱根の関所へ。

ここには資料館がある。
立ち寄って驚いたのは、やはり大名行列だ。
こんなに長い行列、薩摩は費用がとてつもなく必要だったのは間違いないだろう。
ちょうどこの参勤交代を始める前に、参勤交代について15代沈壽官と話をしていた。

15代沈壽官(左)と筆者(右)

参勤交代は、キャストが居たのではないか、という話だ。
さすがに薩摩からこの人数を連れて行くのは大変。
タレント事務所ではないが、こういった派遣みたいなことをしていた商人も居たのではないだろうか、という話だ。
とはいえ、殿様はそういった代替手段は使えなかったので厳しかっただろう。

関所を後にし、国道1号線を進む。

大磯町役場裏にある看板にて

無事、4日目夜10時頃品川に到着した。
鹿児島へ帰るため東京の家を出発してから帰るまで走った距離は写真の通りだ。
2月下旬に納車したバイクは、走行距離5,000kmを超えた。

参勤交代を経て思う事

今回、初めてした道で鹿児島→東京の移動を経験した。
走りながら、山や海の景色を見て、色の変化を楽しみながら考えていた。
確かに、こんなに長い時間座り続けたり移動するのは気が滅入る。
正直、精神鍛錬に近いものを感じた。
しかし、日本の景色の美しさを一番感じていたのは参勤交代をしていた者たちではなかったのか、と考えていた。
私は以前、日本人は日本を知らなすぎることに懸念を示していたことがある。
私自身、今回改めて知ることや経験することが多かった。
日本に目を向け、自分のルーツと向き合い、自分はどういう流れの中の点であるのか、を意識するキッカケになったのは言うまでもない。

今、日本ではなく海外で過ごしたいと考える人は多いだろう。
しかし、その目的は海外ではなく国内でも目的によっては達成できるのではないだろうか。
知ることで増える選択肢はある。しかし、体験しなければその選択肢にはなり得ない。

島津義弘公の祖父である日新公のいろは歌にもある。
「いにしへの道を聞きても唱えても 我が行いにせずば甲斐なし」
自分で経験しなければ、意味を持つ事は無い。

オートバイ神社に認定されたことは、私に成長を促してくれた。
引き続き、オートバイ神社の啓蒙にかこつけてもっと日本について知っていきたいと思う。

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