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太陽がいっぱい(パトリシア・ハイスミス)を読むと、メメントモリを疑似体験できる

太陽がいっぱい(パトリシア・ハイスミス)の読書感想文です。3点に分けて書きます。タイトルの意味は3に書いてあります。ネタバレを含むのは2からです。


1.きっかけ
2.あらすじ見るならどこ?
3.メメントモリを擬似体験する、とは。


1.きっかけ
 2000年の上映開始のときに映画館で観ました。面白い映画だったので原作が気になり21年間が過ぎてました。本は近くて遠い。読書はたまに修行、たまに娯楽、たまに一日のメイン。


2.あらすじを見るならどこ?

①私の検索では見当たりませんでした。
 とはいえ古典に入ると思われる小説のため、感想自体は色んなサイトに有りました。

②同じ作品で結末は3つある。
A 原作となる小説はハッピー?エンド。
B 映画 太陽がいっぱい(アラン・ドロンの出世作)はバッド?エンド。
C 映画 リプリー(マット・デイモン主演)は哲学的な問いに謎らう終わり方。

A 原作は
 主人公のトム・リプリーが完全犯罪を成立させたところで終わります。主人公側から見たハッピーエンドです。読後感として、ダニエル・クレイグ主演の007 カジノ・ロワイヤルを観たときに似た余韻がありました。続編があるのを事前に知っていたので、原題にある、The Talented Mr.Ripley になるまでの若きリプリー、という印象を残す物語でした。直訳すると、才能があるリプリーさん、です。なので、邦題 太陽がいっぱい より原題のままの方が良かったと思いました。おそらく、この邦題は、映画 太陽がいっぱい(アラン・ドロン主演)に釣られて後から付けたのかも知れない。ちなみに、太陽がいっぱい、とは作中でトムが六月に計画している旅を思い浮かべているところで描写された言葉です。

B 映画 太陽がいっぱい は
 観ていなくて、wikiさんの内容から理解したところでいうと、トムの犯行はバレてしまったことを示唆しているところで終わっているようです。トムとしてはバッドエンド。社会への影響を考慮した妥当な終わり方を選んだのではと思います。
 トムはバレた事を知らず、映画の最後と思われるシーンが、原作作中のトムの感情でいうところの、太陽がいっぱい、という心理描写を具現化しているようなので、映画ならではの、映画だから成し得る終わり方、と思われます(推測)。

C 映画 リプリーは
 結末は理解できたものの、同性愛が当時(2000年)の私には馴染みがなく、トムがディッキーやピーターに好意を持つという発想がよく分かっていませんでした。原作と違って、ディッキーに再び成りすまさなくてはならない状況が、本当にそれでいいんだろうか?と思ってクレジットを眺めていたのを覚えています。自分を捨て他人として生きる。ウソを突き通して生きる、はメンタルがやられないかな?と無駄に心配しましたし、自分を振り返って、見栄は厄介だな、と思いつつも、無自覚に承認欲求の沼にズブズブしていた時期のど真ん中でした。リプリー症候群、という言葉もあるようですね。
 ただ主観的にはウソが悪いとは思っていない。ウソをどう使うかで善悪は分かれると思う。フィクションにはウソが含まれる。善悪の区別自体はどういう社会にいるかで変わる。社会を大小を含む人間関係として見るなら、どういう人間関係かでウソの質が決まる。ウソをウソと見抜ける人たちとの間でウソを楽しみたい。ウソを多く知っていたり、深く知っている人、は面白そう。


3.メメントモリ(死を想う)を体験した
 この作品、不安の描写とトムのサイコパス描写で読者をもて遊びます。本当に振り回されます。
 トムは殺人を二回、犯します。三回目もあり得た、という程の倫理観の無さ、に読者からの同情や共感が発生する可能性はほとんどありません。しかし、特に二回目の殺人は突発的に起こした犯罪なのですが、そこから警察の捜査やディッキーの友達から手紙が来たり突然の訪問があったり、トムがディッキーに成りすましているのでバレないかどうか心拍数は徐々に上がります。またトム自身へ戻っても自分への疑いが発生しないように事前に各方面に策を施すのですが、これら二つ、友人だけでなく警察にディッキーへの成りすましがバレないか、トム自身への疑いが持たれていないか、不安の描写を読んでいる内に、なぜか共犯者の感覚が生まれます。トムが殺人の後で言い訳めいた自問自答をしたりクヨクヨしたり、最後には泣いてしまったりするから私自身の事と錯覚を起こされたのかも。頁を進めて自分(トムと、私)の身の安全を確保したい、衝動に駆られます。夜、読んではいけない小説です。
 殺人の罪の共犯となれば、マスメディアに顔を晒され、留置所から拘置所、罪を償って社会復帰したとしても、自由を実感できるメンタルの回復を想像できない。「ああ殺人犯の人」と言われても平気な精神を私が持てるとは思えない。社会的に死ぬ、は寿命で生物的に死ぬ、とは意味がまったく違う死、であり、誰かと人間関係が結べるとは思えない社会での孤立、孤独。結べそうで結べない人間関係しかない社会で生きるなら、生物的に死ぬか、自分でそうするのは怖いから、罪を犯して死刑になって実現するか、を選んでしまう…そういう無駄な連想が始まるとその夜はもう明るい未来を思えない。眠れない。社会的な死を想う、ことが肉薄し、それがこんなに怖いとは初めて知りました。
 一方で、トムは殺人の後に旅行の計画を立てて、どこそこであれを見るとか、あそこではこれを見る、という事に夢中になったりもするので、どんなメンタルなんだ! と共感から離れたりもします。
 倫理観の欠如、サイコパス。
 そういうトムが運転して暴走するバイク、のサイドカーに乗っている気分でした。振り回された。もて遊ばれた。面白かった!
 

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