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【明清交代人物録】鄭芝龍(その四)

ここで、僕がこの時代を捉えるにあたってマクロな視点で考えていることを書いてみます。それは東アジアの二大国である中国と日本は、常にその関係に軋轢を生んでおり、良好であることは稀であり、逆に対抗状態にあることが多いこと。しかしながら日本という市場では中国の物産が好まれており、常に中国から日本へという商品の流れが正式な交易ルートに乗らない、イレギュラーな状態に置かれているということです。

まず日本がアジアにおける大国であると考える理由から説明します。


オランダ東インド会社の記録

17世紀の台湾の歴史を学ぶにあたって有力な資料となるのは、この当時のオランダ東インド会社の記録です。日本語ではバタヴィア城日誌と平戸/長崎オランダ商館日誌という史料が整理されています。台湾ではゼーランディア城日誌も出版されており、この時代のことをオランダ人の視点から詳しく網羅的に見ることができます。これらの一次史料から分析した研究書、一般読み物は枚挙にいとまがありません。

東南アジアでのオランダ

オランダはバタヴィア(今のジャカルタ)を東インド会社の拠点と定め、東南アジア海域の胡椒の商売をコントロールしようと図り、それは一定の成功を納めます。東南アジアの島嶼国家はオランダに抵抗はしますが、軍事的に彼らに対抗することはできず、港湾という拠点をオランダに占領されて、地域の胡椒の売買の主導権を奪われてしまいます。この海域でオランダの最終的に主要なライバルとなるのはイギリスです。ヨーロッパの二大国で争い合うことになり、東南アジアの島嶼国家は二の次に置かれることになります。そしてオランダはイギリスを屈服させ、この海域で圧倒的に有利な立場に立つことができたわけです。そして、それはそのまま20世紀になり第二次世界大戦の勃発により日本軍がインドネシアを攻め落とすまで続きます。


中国での挫折

しかし。このようなオランダは東アジア海域に来ると、東南アジアのようには行きませんでした。

まず中国の門戸を開けようとマカオのポルトガルを追い落とし、1604年と1622年この交易拠点を手に入れようと考えますが、いずれも失敗します。これは、マカオを守ったのが。ポルトガル単独の力ではなく中国の軍事力も組み合わせての結果なのだと考えられます。

その後オランダは、福建省での交易拠点の確保を企図して東シナ海海域で様々な行動を起こしますが、いずれも失敗します。最終的には明朝から澎湖島に設けた要塞からの撤去を求められて、その要求を飲まざるを得なくなります。

オランダは軍事的に中国に歯が立たなかったわけです。


日本との関係

そして、もう一つオランダが軍事的に敵わなかった国があります。それが日本です。

オランダと日本の関わりはリーフデ号が漂着し、江戸幕府の庇護を求めたところから始まっており、その後徳川家康がウィリアムアダムスを国際関係の顧問としたことをきっかけにオランダとの関係が始まっています。

このことを日本側から見ると、普通の成り行きかもしれませんが、オランダが東南アジアや中国に対して行っていた攻撃的な態度と比べると、大きく異なっています。基本的には日本はオランダにとってあまりに遠すぎたのでしょう。僕はFar Eastという呼称はこの経験からきているのではないかとさえ想像しています。

例えばスペインは日本の占領計画を持っています。その片鱗を豊臣秀吉に見抜かれ、カトリック宣教師の追放を命じられるという憂目にあっています。

このようなことは、日本人の目から見ると当然のことで、何を馬鹿なことを考えているのだと思いますが、オランダやスペインの目から見ると、彼らが東南アジアやラテンアメリカでとった強圧的な植民地支配の手法が通用しない国があるということに驚きがあったのではないかと思います。

スペインが宗教的情熱から日本に対して布教活動を続けていたために、鎖国政策をとられ日本への入国を禁止されてしまったのに比べると、オランダは商売を基本にしていたので、布教活動に拘らず江戸幕府の怒りを被ることはなかったとこう説明されています。

しかし、オランダが台湾に対して行ったことを調べると、彼らも台湾の原住民に対してプロテスタントのキリスト教の布教活動をしていることが分かります。そして東南アジアに対しては武力行使をしています。ですので、基本的にはオランダもスペインも、軍事的に支配したい、キリスト教を布教させたいという同じ指向性を持っていたのです。

平戸オランダ商館の閉鎖を命じられる

そして、オランダは江戸幕府から屈辱的な仕打ちを受けます。平戸オランダ商館を閉鎖し長崎の出島に移れという指示が出ます。当時の商館長フランソワカロンは、この命令を黙々として受け入れます。彼は江戸幕府の軍事力の実力を熟知しており、オランダの力でこれに対抗するのは到底無理であると判断したわけです。これは、ジャカルタを力で支配したオランダ東インド会社にとっては、屈辱でしかない、しかし受け入れざるを得ない判断であったろうと想像します。

東アジアの二大軍事大国

前置きが長くなりましたが、僕はこのように日本がアジアの大国であるというのは、明治以降の突発的な出来事なのではなく。中世から近世にかけての日本もそうであったと考えています。

そしてこのニ国は、中国が東アジアの盟主で他国からの尊敬を受けているというのに対し、日本は中国からは独立した経済圏であり軍事的なテリトリーであった。この付かず離れずという関係が、東アジアにおける両国の交易関係に様々な影響を与えていた。次回は、そのことを俯瞰的に見てみます。

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