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【連載小説】吾輩はガットである⑦

ミラノという街は観光で遊びに来る人は割と少ない街らしい。聞いた話をまとめると、イタリアでも、ヴェネチアやローマ、フィレンツェなんていう街では、それこそ遊びに来てあちこち見物して行く人が多いから、そういう人のためのお店もいっぱいあるらしい。佳子は日本からイタリアのそういう街に遊びに行く人の案内役のガイドをしているのでよくそういう話をしている。観光の人は外国から空を飛ぶ飛行機でローマかミラノにやって来るから、ミラノは観光で見るところは少ないけれど、大きな空港があるため飛行機で到着した日とか飛行機で帰っていく最後の日などに泊まってちょっとだけ見物に行くそうだ。

吾輩はミラノ以外では、パオロと奈緒美に連れていかれたボローニャとアドリア海という海辺の小さな街以外はよく知らないので、一度ヴェネチアなりローマなりにも行ってみたい気はしないでもないが、どこにいようが平和な日常が送れることが一番と思っている次第である。

それにしても、ローマには2000年前の建物が今でも残っているとかで、とにかく街全体が大変なヴィンテージなんだそうだ。人類の誰にとって大切なものは世界遺産という印をつけていいのだそうだが、その世界移籍の印が付いた建物が世界で一番多いのがローマということらしい。何でも大昔にとても偉い人が住んでいたらしい。しかし、吾輩はヴィンテージ物にはあまり興味がないので、そういう話を聞いても特別な感想を持つということはないまま今日も元気に過ごしている。ローマは永遠の都、フィレンツェは華の都というらしい。吾輩もイワシの都なんていう街があるのなら訪問してみることにやぶさかではない。

外国への観光となれば、飛行機に乗ることになるのであるが、吾輩は未体験の乗り物なので、あれが素晴らしいものなのか恐ろしいものなのかの判断は付きかねる。しかしあれに乗る人間は概ねワクワク楽しみにしているらしいので、おそらくそう悪いものでもないのであろう。機械のことには詳しいパオロも飛行機に乗ることには抵抗がないようなので、それなりに安全なものなのだろうとは察しが付く。しかし、奈緒美の生まれた日本という国へ行くには、あれに最低でも10時間は乗っていないと着かないらしいから、あまり時間に頓着しない吾輩にとっても10時間というのはちょっと無視できない長さではある。よくもまあ10時間もずっと座ったまま過ごせるものだと思う。つくづく人間というのは不可解な特性を持っていると思い至る所以である。

さて、そういう遊びに来る目的の人が少ないらしいミラノだけれど、年に数回沢山の人が外国からやって来る日があるようだ。ミラノのファッションウィークとデザインウィークの間の短い間だけれど、ミラノの街にいっぱい外国人がやってくると聞いている。

ただ、そういう日にパオロと奈緒美が出かけても、吾輩は家でお留守番するので街中で何が実際に起きているのかはよく知らない。話ではいろいろと展示してあるモノを見学するついでに、何か食べ物や飲み物も提供され、場所によってはパーティーのような会場があるという話だけれど、あの人間のパーティーという番所には、必ず吾輩を捕まえようとしたりしっぽをつかみに来る子供がいる危険をはらんでいるので、近寄らないに越したことはないのである。人間で一番酷いのは子供よりも酔っ払いというお酒を飲み過ぎた大人なのであるが、パーティーという場所にはあの酔っ払いにも出会う可能性があるのだからクワバラクワバラである。

ミラノは特段大きな街ではないと聞いてはいるけれど、ファッションだのデザインだのでは世界的なハッシンチらしい。人間世界はそうやって街ごと、国ごとにそれぞれの役割があるようで、役割が違うから人があっちこっち移動しなければならないそうだ。もうちょっとさっぱりした仕組みでよさそうなものだけれど、人間社会はこうやって世界中のあちこちに○○の本場というのをこしらえては持ちつ持たれつやっていくのが良しとされるらしい。何でも手近で用が足せるほうが簡単に決まっているのに、わざわざややこしい仕組みを作って苦労を重ねることを好むのが人間の特質なのは吾輩も承知していることなので、それについて特に感想があるという話でもない。吾輩に危害の及ばない範囲でせいぜい経済活動に励み平和で平凡な生活環境さえ整えてもらえばこれを及第点とする。

家の窓から見える梅の木には実がなっている。桜の木にも実がなっている。でも、お店に売っているさくらんぼうよりも実が小さく、食用には向かないから誰も食べないらしい。そうは聞いているけれど、時々子供やお年寄りは手の届く枝から実を取ってほおばっているようである。特別おいしくもないが特別まずくもないのであろう。

さて、ミラノのデザインウィークというのは外国から人も集まるけれど、視線も集まって、世界中にデザインのニュースが広がるという催しらしく、記者という人もたくさんやって来てはあれこれ新聞記事にしたりテレビでレポートしたりするのに忙しいらしい。そうやって外国から来た人でイタリア語が分からない人も多いから、言葉を翻訳する通訳という仕事で駆り出されるミラノに住む外国人も多いそうだ。奈緒美の友達の佳子や恵令奈もこの期間中は遠くはるばる日本から何か展示に来た人や、いろいろ見て回るシサツに来た人たちの通訳で大忙しらしい。奈緒美はお店の仕事があるから通訳の仕事はしないと言っていた。吾輩も今ではイタリア語でも日本語でも人間が話すことは概ね理解できる能力を持っているけれど、それを人間に伝える術をまだ取得していないので、通訳に駆り出されることはなく、今日も平和に過ごしているわけである。

今年は、パオロの仕事先も、このデザインウィークのサローネという催しに例外的に関わっているようで、年明けからその仕事であれこれ苦労していた様子である。今日もアスパラガスという植物のリゾットを作りながらその話をしている。吾輩もリゾットに入れる前の下茹でしたアスパラガスをおやつに少し分けてもらった。サバの水煮の缶詰と一緒にその緑の植物を食べたのであるが、あれは他の葉っぱ類とは違った食感があり、なかなかに風味がいいものだと思った。

「先日やっとできたプロトタイプが今日はもう会場に設置してあってね。ペンキ塗ったりロゴ入れたりしてるから結構様になっていたよ。でも、せっかく設計してプロトタイプも動くのに、生産する予定は最初からないのがちょっと残念だなあ。」
パオロは全てに満足している様子ではなさそうだ。

「ホントにサローネだけのために作るのね。それでどこかの記事になればいいってことなの?」
「まあ、ウチはコラボした分の報酬は払ってもらうから別にかまわないと社長も言ってたんだけれど、あっちのメーカー側はそういうことだよね。話題作りというか、PRになるならいいんじゃないのってことみたい。だって、会場費だけでもびっくりするくらい払ってるらしいからね。でもサローネで発表しておけば世界中のメディアで記事になるから、まあ、世界各国で広告出すこと考えると、それも一つのやり方なんだろうね。ほら、インスタなんかで写真上げておいたら見る人は何か新しいことやってると思うんじゃない。」
「そういうものかなあ。」
奈緒美もリゾットを食べながらいぶかしげな顔をしている。

「なんか街中はもう人がいっぱいだったけれど、今日は忙しかった?」
「今日はずっと満席。多分夜はもっと混むんじゃないかなあ。私は明後日には夜もお手伝いに行くことになってるけど。」
「日本人のお客さんが多いの?」
「特に日本人が多いわけではないけれど、サローネて来てる外国人のお客さんが多いわね。今日は2組日本から来てるお客さんがいたなあ。せっかくイタリアに来てるんだから、イタリア料理だべに行けばいいのにね。」
「それはイタリア人も一緒だよ。マウリッツィオも外国に行くと、イタリア人のグループはイタリア料理のリストランテに行きたがるんだって言ってた。彼はせっかくだからそれぞれの国の料理も食べてみたい派らしいけれど。」
「まあ、たまにはいいけれどね。でも数日の滞在でホームシックになることもなさそうなものだけれどね。」
「奈緒美はイタリア来たばかりの頃は日本のリストランテに食べに行かなかったの?」
「ああ、私はほら、すぐマルタと住み始めたからずっとイタリアの食事で、なんだかそれどころじゃなかったからあまり日本食のことも考えたことがなかったと思う。それで、結構してからある日マルタがお寿司食べに行こうって連れて行ってくれたっけ。休みの日にね。あの時はAll You Can Eat行ったんだけれど、なんかすごくうれしかったの覚えているわよ。ああいうの初めてだったし。」

今夜もパオロと奈緒美はああだこうだ言いながらのんびりと食事をすませ、ワインを飲んで、でもお客さんもいないことだし夜ということもあり、カフェの儀式は省略し、パオロはこれから居間でカルチョのTV観戦らしい。

吾輩の好みで言えば、映画を観るよりもカルチョの観戦の方が分かりやすいから付き合いで見るならこちらの方がいい。しかし、いい大人がボールの蹴り合いをして、しかも大騒ぎをして、時には涙まで流して興奮するのはいかなる心理的メカニズムなのであろうか。普段はパオロがボローニャなるチームの試合を観戦しても、なかなかパオロの期待する結果になることがなく、せっかく楽しんでいたはずなのに、中継が終わるとパオロの元気がなくなることがあるけれど、イタリアというチームの試合観戦だと、割り方中継後にパオロが元気になっていることが多いようだ。多分イタリアの方がボローニャよりも強いのだろう。しかし、吾輩には勝ち負けのような人間の概念はなかなか理解に苦しむところであり、そのメカニズム解明にはまだまだ時間がかかりそうである。

そもそも吾輩から見れば、そうやって何でも勝ち負けとやらを決めて一方だけがいい思いをして一方を不幸にする行為を好んで行うのかがよく分からない。双方とも頑張ったなら双方とも褒めてあげれば全て丸く収まるということを人間社会は未だに理解できておいないのではなかろうかと思うことがある。何でも白、黒と分けないと気がすまないのが人間の性分なのであろう。自然社会には無限の色彩や無限のグラデーションがあってこそ成り立つということを未だ理解していないと思われる。それでいて自分たちがなんでも一番よく分かっていると思い込んでいる節があるから観察対象としては飽きが来ない。ただ、一番身近な人間のパオロが元気がなくなると、こちらまでしょんぼりした雰囲気に巻き込まれることがあるため、出来ればパオロが見る試合は全てパオロの期待する試合結果になればいいのにと思う次第である。こういう心理を人間世界では応援と呼ぶのだというらしいことには若干理解が進んできた。




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