橋本治「90s」 これを忘れた近代はただ“酷い”だけです

たとえば、今や日本人は結構金持ちになってしまったので、貧乏な人を見ると、平気で無関心です。「誰かがお金をあげればいい」と、こうです。貧乏というものがどういうものか分からなくなってしまっているので、貧乏な人に接するということ自体がよく分からないんですね。たとえば、東京には結構路上で寝ている人たちがいます。当たり前なことと言えば当たり前ですが、ちょっと考えてほしいんです。今から20数年前の東京は、今よりもっと貧しかったはずですが、その頃にはほとんどそういう人たちがいませんでした。「職があったから」と言えばそうですが、今なんかもっと人手不足です。「東京で働こうと思えば働き口なんかいくらでもあるはずなのに・・・・・・」と思いますが、なぜか路上で生活する人の数は減りません。明らかに増えていると思います。今から40年前の東京には、とっても路上生活者が大勢いました。家もなかったし職もなかったのは、国全体が戦争の後遺症で貧しかったからですね。40年前に多かった者が20年前に減って、それから20年後にまた増えている。一体これはどういうことなんでしょう?

浮浪者が減ったのは、働き口が増えたことと関係してはいますが、それが決定的な要因ではないはずです。というのは、それだと「じゃァ、今なんだって路上生活者は増えているのか?」という疑問に答えられないからですね、

浮浪者の増減には、絶対に「その存在を気にかける人」というものがからんでいます。だって、頭の毛をベトベトにして地下街に寝転がっている人が「俺、働きたいんだけど」と言って、いきなりどっかから拾った求人雑誌を手にしてやってきたとして、「ああ、そうですか」と言って雇う人間はそうそういません。人手不足と言われるご時勢であっても、それはいません。“浮浪者”が“浮浪者じゃない者”に変わるためには、浮浪者であることを恐れずにいてくれる“仲介者”というものがいるんです。つまり、なんとかして減らさないと・・・・・・、あの人たちは気の毒だと思う人間がいない限り、浮浪者の数は減らないんですね。

ある時期浮浪者の数が減って行ったなら、その時期はそういう人たちが大勢いた。そして、浮浪者が増加していく豊かな平和な時期には、そういう人たちはだんだんに減っていった。そういうことだってあるんです。

そして、「気の毒に、なんでこんなところで寝ているんだい?よかったら家へおいで」と平気で言える人間の数が減って行く時期には、もう一つの別の要素が浮上してきます。それはなにかというと、「人にはそれぞれの事情がある」です。「好きで道路に寝てるわけじゃありません、帰る家がないんです」という人ばっかりじゃない、「どうも家ってやつに帰る気がしないんでね、言ってみりゃ好きで道路に寝てるんだ」という人も出て来る。当人が本当はどう思ってるかは別として、「好きでやってるんじゃないの・・・・・・」と思って平気で路上生活者の脇を通って行く人間たちが増えるのは、「どうしたんだい、こんなところで寝て」と声をかけてあげる人の減っていく時期です。

「世の中がいやだから、ドロップアウトしたんだ。ここには食い物も結構あるからよ」というセリフを、ホームレスの人間の口から浮かび上がってくる時代は、やっぱり豊かな時代なんですが、しかしだからといって、本当にそんな生活が楽しいか?寒い冬の夜にツルンとした子供みたいな顔をした駅員におっぽり出されて、暖房の切れた駅のホームのシャッターの前で震えながら眠るというのが、本当に楽しいか?

そんなことはないでしょう?

誰がそんな人達のことを気にかけるんだ?と言ったら、答はたぶん、ゼロです。こんなことを言う私だって、平気で無視してますから。

“個人の自覚”が前提として要求される“近代”では、“個人の自覚をまだ持つにいたれていない人間”を平気で追い落とす。「そんなものは人類始まって以来の“生存競争”という古い常識だ」という考えはあるのかもしれないけど、“近代”という“友達の時代”の中には「やっぱりそれって間違いだよ」という声もある。“宗教”という前近代的なものは、一方では“個人の自由を弾圧するもの”で、だからこそ人間は“宗教=神”という不条理を追放しようとしたけれども、しかしその宗教の中には、“まだ個としての自覚を持てない人間を救う”という面もあったことを忘れてはならない。これを忘れた近代はただ“酷い”だけです。

だから“個人の自覚”が前提として要求される“近代”では、こういうことも起こる・・・・・・前提として“個人の自覚”が要求されて、それがなければ人間の誇りもなにも保てないと分かった途端、“個人の自覚をまだ持つにいたれていない人間”は、平気で“嘘の自覚”を持つ。

つまり、どうしようもなくて道路に寝ているしかなくなった人間は、平気で「好きでやってるんだから放っといてくれ」という嘘をつくことですね。それは一面の真理かもしれないけれど、その“自覚”は「好きでやってるんだから放っといてくれ」、とは言ったものの、寂しいなァ・・・・・・」という、もっと重要な自覚を葬り去る。“近代”は平気で寂しい人間を作って、それに平気で目を瞑る。寂しくなった人間がもう一度“宗教”に向かってもしようがないですね。

橋本治 「90s」

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