文字は知を辱しめる

文字を知ることで日本人は自分自身を失うということが一度ならず起こったと思う。漢語には豊かな中国文化が蓄積されている。ひとついひとつの語との出合いに圧倒され、恐らく途方に暮れたであろう。模倣は学習の母である。『懐風藻』という文体的にはほぼイミテーションに近い漢詩文集を編むことに成功したのは、751年であった。漢字の存在に触れてからじつに600~800年以上の時間が経過している。

ひと口で600~800年というが、これは大変な時間の長さである。

古代の日本人は文字を知ることを簡単に喜びとしたとは思えない。口承のみで伝えられた物語を文字に託して後世に残すことに、なにか冒瀆されるような戦(おのの)きを覚えたかもしれない。文字に記すことで精神の自立が得られたと思うのは、われわれのようにすべて文字を知ってしまった側の言い分である。

この点で連想を喚(よ)ぶのは、古代ケルト人のあり方である。

ケルト人はヨーロッパの先住民である、前一世紀から後一世紀にかけてローマの軍隊と戦い、敗れて、大西洋岸にある辺鄙な土地に追いやられたが、それ以前にはアイルランドからルーマニアまでの広大な土地に住み、すばらしい芸術様式と口承文学を遺した。ケルト社会には「ドルイド」とよばれる尊敬された賢者の階層があった。彼らは治療師であり、教師であり、詩人であり、卜占師であり、そして裁判官でもあった。彼らは伝えられる宗教的秘儀をひたすら暗記し、文字化を拒んだ。ケルト語は基本的に書き言葉ではなかったからである。重要な民間説話のいくつかは最終的に八世紀にキリスト教徒の筆写者によって書きとめられ、完全な焼失を免れた。

“シュメールやバビロニア、エジプト、ギリシア、ローマの神話に比べて、ケルトの神話は桁違いに知られていないが、その最大の理由はケルト人の文学がすべて口承によるものだったためである。彼らが文字を知らなかったというのではない。彼らは墓碑銘や、貨幣の銘句や、商取引などには文字を用いていた。ただ、宗教的であれ、歴史的あるいは科学的であれ、何らかの教えを伝達する目的で文字を使用することは、ドルイドたちによって禁止されていたのである。彼らは知が人間の内部にとどまるよう望んでいた。彼らはあらゆる知は卑しむべき物質によってではなく、精神の中でこそ維持されねばならないと考えていた。知を蝋や羊皮紙に託すなどということは知を辱めることだったのである。それは知を一般の者たちの手によって汚させるのみならず、知を殺害してしまうことになるからである。そのとき、知は生成し続けることをやめ、永遠に凍りついてしまうのだ。知識はそれを所有する人間の思考から切り離されてはならないのであり、したがって、知識が記憶の中に保持できることを示し、それを受け継ぐ価値があると認められたものに伝えられるべきなのである。そういうわけであるから、すべてのドルイド教の教えは詩の形になっており、それを学ぶ者たちは何万もの詩句を暗記しなければならなかった。だが、この口承による伝承はキリスト教の制覇とともに途絶え、ケルト人の文学的遺産の大半は失われてしまって二度と取りもどすことはできない。”
【ヤン・ブレキリアン・田中仁彦、山邑 久仁子訳『ケルト神話の世界』】

精神は運動であり、文字はそれを停止させ、化石にしてしまう。人間は文字を使うことで自分を失う。魂を死滅させる。ケルト人が秘儀の伝授に文字を使用禁止し、「文字は知を辱める」とか、「知を殺害する」といったのとほぼ同じ不安と抵抗が、前一世紀から後八世紀頃までの日本にもあったのではないだろうか。

精神の生成と運動の静止に対する不安と抵抗である、古代日本の歌人たちや、稗田阿礼のような伝承の口述者に、どうして内心の抵抗がなかったといえるであろう。どうして歴史家はそこを問題にしないのだろうか、どうしてつねに文明の側から過去を描くという惰性に従って、恬として恥じないのだろうか。

本居宣長は次のように言っている。

「古(いにしえ)より文字を用ひなれたる、今の世の心をもて見る時は、言傅(ことづた)へのみならんには、萬(よろづ)の事おぼつかなるべければ、文字の方ははるかにまさるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言傅(じょうこいいつた)へのみなりし代の心に立ちかへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし。」

「文字無き世は、文字なき世の心なる故に、言傅へとても、文字ある世の言傅へとは大いに異にして、うきたることはさらになし。今の世とても、文字知れる人は、萬の事を文字に預くる故に、空にはもえ覺え居らぬ事をも、文字しらぬ人は、返りてよく覺え居るにてさとるべし」

(本居宣長『くず花』)

現代でも文字を知らぬ古老が文字の効能を頼みにする知識人よりも、よほどよく昔を覚えていて間違いを犯さない、と最後の文は言っている。

現代人は文化といえば本の世界なのだ。本はそれを書いた人の心の運動の抜け殻であり、仮面であるとは夢にも思われない。

文字は紙の上にこびりついたインクであり、物質に過ぎない。文字が伝達するのではない。書き手と読み手との間で背後にある共通の体験が、文字という象徴媒体を介して共有された瞬間、なんらかの伝達が達せられる。

それゆえ完全な理解はあり得ない。たとえば、聖書を百遍読んでも、伝わらない者には何も伝わらない。一般に不信心の現代人は、文字の奥にあり文字が伝えていないイエスの行為をどうしておのれの行為として受け止め、共有することができるであろう。

冒頭にも言ったとおり、文字は言語に及ばないが、その言語は行為に及ばないのだ。イエスも仏陀もソクラテスも行為者にほかならない。一冊の本を書いたわけでもない。遺された言語文字は弟子たちの聞き伝えにすぎない。伝説にすぎない。文字はいずれにせよ古人の行為を正確に写してはいない。それは記号であり、どこまでも符牒にとどまる。


西尾幹二「国民の歴史」

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